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学問の神様
先日テレビを観ていて疑問を抱いたのですが… 太宰府天満宮が「学問の神さま」で有名な理由とは結局のところ何故ですか? 菅原道真が左遷させられた理由等々はわかるのですが・・・ 何故学問の神と呼ばれるかを『○○だから…』というように知りたいです(^^;)。 梅が有名なのは近くに住む老婆が慰めようと餅に菅原道真の好きな梅の枝を添えて渡したから・・・という解釈でよろしいのでしょうか… 素朴な疑問です。
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- aster
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道真の出身である「菅原家」は、伝統的に「学者の家系」でした。中級貴族の家柄ですが、貴族には、伝統的に、漢文などの学問に秀でた家柄や、日本の和歌の伝統に秀でた家柄など、色々あったのです。 宮廷を維持するのに、学者や知識人は必要でしたから、中級貴族に、そういった学問を専門に扱う家を造っていたというか、代々、学問の修得や教授が役目という中級貴族の家系が幾つもあったのです。 例えば、阿倍とか賀茂というのは、陰陽道などの研究や実践を行う中級貴族の家柄です。菅原家は、漢文、つまり、当時の「学問」の家柄なのです。 (当時、「学問」と言えば、漢文で、和歌とか日本の文学の教養は、学とは言いませんでした。有原業平は、歌人として有名ですが、「学なし」と評されています。和歌は詠めたが、漢文はできなかったので、当時の官僚の資格がなかったのです)。 道真は学問(漢文)に秀で、みずからも卓越した漢詩を作り、また和歌も得意で、大秀才で、しかも、政治的にも卓越した人だったので、天皇が、藤原家専制に対抗しようと、抜擢して、大臣まで昇りました。出世して従五位か正五位までの菅原の家格からすると、破格の出世です。 しかし、藤原一族は、これが天皇の挑戦だということは分かっているので、道真を排除して、藤原一族以外の人間を、大臣などにすることは許さないという姿勢を示す必要がありました。 そこで、天皇を脅迫したり、道真失墜のタイミングを計ったりして、陰謀により、彼を失脚させました。「太宰権師(だざいごんのそち)」というのは、かなり高い身分なのですが、名誉職で、高貴な者を失脚させる時、形だけは、別の官職に就けるということで利用した官職です。 道真は、至誠の人だったので、無実によるこの左遷に非常に憤り、怒りのなかで死にました。その後、道真失脚の陰謀に加担していた者や、その首謀者の藤原一門の最高級貴族が頓死したり、都に異常気象が起こったりしたので、これは、道真が「怨霊」となって祟っているのだという判断になって、祟りを止めるため、彼を、「神」として祭ったのです。 菅原家は学問の家柄で、道真以降も、菅原一族は相変わらず、学問の官僚として貴族として宮廷に仕えていましたし(菅原家を滅ぼすのが目的ではなかったからです)、道真自身も先に述べたように、学問の天才でもあったので、「菅原家の神」は、「学問の神」となったということです。 また、道真が、その卓越した学問で天皇に愛され、出世したことも、「学問の神様」とされる理由があったでしょう。何にしても、学問を扱う中級貴族が、学問によって大臣までなって、陰謀で失脚したのですから、「神様」に祭ると、何の神様かと言えば、「学問の神様」となるのが自然でしょう。
左遷されて死んだ後、ライバル(藤原時平)や時平の身内に不幸が続いたり、天災が起こったりして「道真怨霊説」がでました。 怨霊を鎮めるためには名誉を回復するだけでなく、神様に祭りあげるぐらいしないと恨みは消えないと思ったからではないでしょうか。 また庶民に人気が高かったので、余計に同情と信望があつまり、学問に秀でた人なので学問の神様になったと思います。 左遷された時に道真が歌った詩も梅が有名な一因でしょう。 東風吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主無しとて 春な忘れそ
- nyozegamon
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菅原道真公が非常に秀才だったからでしょう。
- ceita
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道真公が学問に秀でていたからではないですか? もし、武芸に秀でていれば、武芸の神様になっていたでしょう。