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藤堂平助について
新選組の藤堂平助は池田屋で 自分が勤王派の浪士と闘って 殺害する側にいたけど その後に伊東甲子太郎と御陵衛士となり 勤王派に鞍替えしますよね。 気まずくなかったんでしょうか? 彼の中でこの行動は良くない事だとか 卑怯とか、そういう思いは 無かったんでしょうか?
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- eroero4649
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#1さんもおっしゃっていますが元々は尊王攘夷派で、新撰組は行きがかり上入っていたという感じですからね。御陵衛士のほうが彼的には「本当にやりたかったこと」なのでしょうね。 ただ幕末の志士あるあるですが、尊王攘夷派であると思われるのに英語を勉強していたり火薬の研究をしていました。 明治の元勲もほとんどは尊王攘夷派で、伊藤博文のように英国公邸焼き討ちみたいなテロを起こしていたのに明治時代になったら欧米に学ぶことを躊躇しなかった人も珍しくありません。 良くいえば現実主義で柔軟。悪くいえば哲学がないんですね。個人的には考えが固くて現実を見ようとしないイスラム原理主義者のテロリストよりよっぽど頭がいいと思いますけどね。 藤堂を粛清した側の土方歳三も、関東に戦場を移すといつの間にか鉄砲を使った戦争の仕方を覚えて野戦の鬼になってゆきます。 尊王攘夷運動も哲学は別にそんなにあるわけじゃなくて、単純なよそ者への反発みたいなものだったと思います。 戦後の学生運動も内ゲバが起きてきて分裂してゆきます。我々部外者には革マル派と中核派の違いは全く分かりません。基本的なところは「アイツらとは合わない」だったと思います。 新撰組の「内ゲバ」も、そういうものだったんじゃないかな。元々が寄せ集めの集団でしたからね。
- oska2
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>伊東甲子太郎と御陵衛士となり勤王派に鞍替えしますよね。 確かに、伊東甲子太郎と御陵衛士となっていますね。 >気まずくなかったんでしょうか? 多少、気まずさはあった様です。 御陵衛士になった時点で、偽名を使っていますからね。 ただ・・・。 藤堂平助は、新選組に入隊する前から「尊王攘夷思想」を持っていました。 ですから、新選組の「佐幕派」とは一線を画したのでしよう。 最期には、自ら討たれた?との説もありますよ。
お礼
そうなんですか、 自ら討たれた説もあるんですね。 藤堂平助は「先駆け先生」と呼ばれて 池田屋でも獅子奮迅の活躍をしたと 言われてますから 確実にその時に勤王派の浪士を殺傷か 殺害をしてますし 本人がその事をどう考えていたのか 気になりますね。
お礼
回答、ありがとうございます。 参考になりました。
補足
そうだったんですか、 新選組は寄せ集めの集団だったんですね。 藤堂平助は「先駆け先生」と呼ばれて、 池田屋でも獅子奮迅の活躍をしたと言われてますから、 確実にその時に勤王派の浪士を殺傷、 殺害してますし、 本人がその事をどう考えていたのか、 気になりますね