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新撰組のについて。
最近、新撰組に興味をもっているのですが、わからないことがあります。 試衛館派の方々が浪士組として上洛した時は、尊王攘夷派なのか佐幕攘夷派なのか。 もし尊王攘夷派なら、なぜ尊王攘夷派でありながら幕府の募集に参加したのでしょうか? また、時と共に佐幕開国派になって行ったという解釈で間違っていませんか? あと、切腹した山南敬助ですが、諸説ある中で、近藤勇や土方歳三と思想の相違が原因というのがあると思いますが、山南敬助の思想はどういうものだったのでしょうか? 勤王?尊王攘夷? 伊東甲子太郎は勤王攘夷派ですよね? 頭がよくないので、わかりやすく教えていただけると嬉しいです・・・。
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こんばんは。 norikkotikinさんはおそらく歴史が好きで詳しいのでしょう。 ご存知の上での質問なのかな?と思わないでもありません。 NO4の回答者の方の回答がないようですから、 そちらの方のお話しをさせていただいてよろしいですか? >そもそも土佐は公武合体派なのでは? これはnorikkotikinさんの仰るとうりでしょうね。 容堂は春嶽と共に随分苦労もしております。 土佐藩は関が原以来、恩義こそあれ恨みはないのです。 ただ、武市半平太を首領とする土佐勤皇党が勝手な行動を始めましたから 容堂も苦々しい思いで眺めてはいたでしょう。 土佐勤皇党が壊滅の憂き目にあったのも当然と言えば当然です。 ここからが質問の回答になろうかと思うのですが、 幕府に攘夷などあろうはずがありません・・・開国です。 事実、下田条約に調印までしているわけですから。 当時の世界情勢で攘夷など出来ようはずがないのです。 ただ、時の孝明天皇がもう極端なほど攘夷です。 一昔前なら幕府も無視できたでしょうが、 時代の風は勤皇です、幕府も朝廷の意向を無視できないほどになってます。 その為、家茂は朝廷への説明のため上洛の必要に迫られました。 その警護のため、組織されたのが浪士組ですね。 清川八郎が山岡鉄太郎らに働きかけて結成されたものです。 norikkotikinさんは浪士組と言う言葉を使っておられるから、 良くご存知でしょう・・・。 浪士組が分裂して一方は新撰組となり、 一方は江戸に戻り新徴組となってますね。 長くなりましたので駆け足で・・・。 清川八郎はこれは尊王攘夷でしょうね! 試衛館の連中も勤皇の心ざしは勿論あったでしょう、当時は勤皇は流行です! それだけでしょう・・・。 佐幕開国は幕府の当初の方針です。 それを公武合体開国にもっていこうとしたのが、 越前春嶽であり山内容堂、島津久光だと思います。 結果は彼らの思いとは別のものになりましたが・・・。 長くなりましたので、山南は勤皇の人のように思います。
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- kurikuricyan
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norikkotikinさんのご質問への回答からは、少し外れますが 「若き獅子たち」早乙女貢著 (上)(下)を 是非、お読み下さい。 何故に、新選組が組織されたか、、、がわかります。 近藤勇たちの中には、○○派、、、、といった思いはなかったのではないでしょうか? ひたすら「武士になりたい」「一旗あげたい」という思いのみだったのでは? と思います。 それと、徳川幕府に「忠誠」を尽くす、、、という思いだけだったのでは?
お礼
回答ありがとうございます。 確かにそうかもしれませんね。 最近のう思うようになってきました。 おススメの書籍を読んでみたいとおもいます。
- tanuki4u
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>幕末ってのは、尊王だとか勤皇だとか攘夷だとか開国だとかってのは基本的には掛け声です。 主題はそれまで国政を主導してきた譜代大名家に対して、有力大名家が権力に参加させろという権力闘争。 朝廷側と幕府側の権力闘争で、攘夷も開国も関係ないということなんですね。 ↓ × 朝廷側VS幕府側 ○ 譜代大名VS有力大名(御三家もいれば親藩、外様もいる) 最後の関白二条斉敬などは、公武合体派あるいは、佐幕派です。
- tanuki4u
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日米和親条約や日米修好通商条約を結んでいるので開国派なのだと思っていました。 幕府は心は攘夷、行動は開国ということで、信用されなくなってしまったということなんですね。 ↓ 幕末ってのは、尊王だとか勤皇だとか攘夷だとか開国だとかってのは基本的には掛け声です。 主題はそれまで国政を主導してきた譜代大名家に対して、有力大名家が権力に参加させろという権力闘争。 また、1853年の黒船来航から1869年の戊辰戦争終結まで16年あります。その間○○藩は□□派だとか、○○さんは△△主義者とかと断定できるというのはおかしな話。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB 幕末の政治史 2.1 条約締結と将軍継嗣問題(1853年 - 1858年) 血統主義(南紀派≒譜代大名)と能力主義(一橋派≒有力大名)のぶつかり合い 2.2 安政の大獄と桜田門外の変(1858年 - 1860年) 譜代大名のチャンピオン(大老、井伊家)が御三家の水戸家、尾張家、親藩の福井松平家、外様の宇和島伊達家、土佐山内家などこれまで幕政に参加できず、参加しようとした大名家をぶった切った。 薩摩は斉彬が急逝していたので処罰対象にならなかった。 ※ 有力大名家との連携を図った譜代大名家もぶった切っています。 ところが桜田門外の変で井伊直弼が討たれたので、幕府の権威が失墜したので。 2.3 公武合体策と尊王攘夷派の擡頭(1860年 - 1863年) 幕府権威を朝廷と合体することで立て直し ≒ 幕府としての尊王 安政の大獄で不満がいっぱいで、桜田門外の変で「やれば、できるじゃん僕達」なんて考えた連中が、京都で大暴れ。これが尊王攘夷派の擡頭。 京都のテロリストを鎮圧して幕府の権威立て直しに家茂は京都にやっていく。 ※ この辺の尊王攘夷というのは、単に「反幕府」のスローガンのようなもので、近年の政治史で言えば「非自民連立政権」1992年の細川内閣の連立みたいなもので、自民じゃなければなんでもいい、反幕府ならなんでもいいという感じです。1992年の非自民は成功したが、幕末の反幕府は失敗した。 2.4 尊攘派の蹉跌(1863年 - 1864年) 尊攘派の蹉跌とか表題だけど、要は天皇の信頼の厚い会津と薩摩の勝利と攘夷策の放棄 2.5 薩長同盟と幕長戦争(1864年 - 1866年) 「攘夷派への配慮からわざと幕府が外交を停滞させているとみたパークスらは薩長が攘夷策を放棄した時点で障害はのぞかれたはずであるとして、兵庫開港か条約勅許を求めて威圧を行ったものである。」WIKIより引用 現実に政権担当者として急激な舵取りが出来ない幕府に対して、野党は政策を軽くひっくり返しましたよということ。そしてその野党(薩長)をイギリスが支持したということです。 2.6 大政奉還と王政復古(1866年 - 1867年) 2.7 戊辰戦争(1868年 - 1869年)
お礼
回答ありがとうございます。 >幕末ってのは、尊王だとか勤皇だとか攘夷だとか開国だとかってのは基本的には掛け声です。 主題はそれまで国政を主導してきた譜代大名家に対して、有力大名家が権力に参加させろという権力闘争。 朝廷側と幕府側の権力闘争で、攘夷も開国も関係ないということなんですね。
- herdranbo77
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ただ漠然と尊皇攘夷派と言っても二通り在る事を理解していれば間違いない、一つは尊皇とは名目ばかりで天皇を全く無視(反故、あわよくば殺害!)して戊辰戦争を起こした倒幕過激派(薩長土肥安芸連合)、もう一つは天皇にも国政に携わっていただき幕府と共に国内・国際情勢に対応するとした公武合体派(天皇家・幕府・会津藩・桑名藩等)に分けられる、この事を頭に叩き込んでおけば間違いないだろう、そして試衛館主・近藤と土方は同じ郷里(八王子)としての仲間である一方、山南は仙台藩出身のれっきとした武士、切腹したのは近藤達の仕業であり、途中から入隊した伊東甲太郎一派は新撰組を隠れ蓑に倒幕過激派に加わる事を目的とした一派である、大まかにこの事を把握しておけば理解出来るだろう。
お礼
ありがとうございます。 ということは、戊辰戦争は倒幕派と公武合体派の戦いで、 そこに攘夷か開国かというのは関係ないということですか? それなら、土佐藩は公武合体のような思想で大政奉還を示唆したと解釈してるので 矛盾が生じると思うのですが...。 そもそも土佐藩が公武合体派という解釈が間違っているのでしょうか?
- 108109
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山南敬助は勤王思想が強かった人物ではないでしょうか。 新撰組が結果的に佐幕派になった(京都守護職預り)ので、失望して脱走し、捕縛されて粛正されたと 私は解釈しています。 試衛館の主だったメンバーは、元々は尊皇攘夷を掲げていたかもしれませんが、思想的なものというより 「なんとなく流行に乗った」けれど、時の流れに身を任せているうちに、佐幕派になったのではないかと思います。 なので伊東甲子太郎と試衛館メンバーは思想が異なるようになってしまったのでは。 私もそれほど新撰組について詳しいわけではないので「じゃないですか?」程度の回答でゴメンナサイ。 新撰組はドラマ映えはするんですが、思想的な意味合いの強い集団ではなかったような気がします。 なので、今ひとつ私が興味を持てていないのかもしれません。
お礼
ありがとうございます。 山南さんの脱走は創作だという話はありますが、どちらにしても切腹したことにかわりはないので、すごく残念です。 個人的には、勤王思想が強いが為に、新撰組が佐幕よりになって行ったことと、天狗党の処刑で幕府自体に見切りをつけて切腹したのではないかなぁと、勝手に解釈しています(笑) 局中法度さえなければ、伊東さんについていった可能性もあったのかな? など想像して楽しんでいます。 たぶん新撰組人気は、農民の出から武士になり、更には幕臣になり最後まで幕府に命を懸けたことが人気の理由じゃないですかね。 あとは漫画やアニメでのイケメンぶりだとか...(笑) 新撰組は好きですが、私は坂本龍馬の思想に共感していますが。
- tanuki4u
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文久2年(1862年)、江戸幕府は庄内藩郷士・清河八郎の建策を受け入れ、将軍・徳川家茂の上洛に際して、将軍警護の名目で浪士を募集。 WIKIPEDIA 新撰組より では、その時の家茂の上洛とは? 文久3年(1863年)には将軍としては229年振りとなる上洛を果たし、義兄に当たる孝明天皇に攘夷を誓った。 同じくWIKIPEDIA 徳川家茂より 尊王攘夷派である徳川将軍の護衛のために募集されたのが新撰組の元となる浪士たち。 尊王攘夷の首謀者は「徳川将軍」です。 新撰組が組織化されたのは、尊王攘夷運動を鎮火させるためではなく、本来徳川幕府のみが国政を与っているのに、その権利のない連中が京都で暴れているので、それらのテロリストを鎮圧するためです。 尊王だとか佐幕とか攘夷とか開国だとか、そういったことは関係ない。
お礼
そうなんですか!! 日米和親条約や日米修好通商条約を結んでいるので開国派なのだと思っていました。 幕府は心は攘夷、行動は開国ということで、信用されなくなってしまったということなんですね。 ありがとうございました。
- trajaa
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攘夷に関しては確固たる思想や信念はなかった <-まぁどちらかと言えば、少なくとも積極的な開国派ではなかった 彼らの心中には、幕府への一定の忠誠心と時代の変化の中で一旗揚げてやろうという野心が占めていた >時と共に佐幕開国派になって行ったという解釈で間違っていませんか? 幕府の方針に対して異を唱えることなく従ったので、結果的にそう言う立場になった >伊東甲子太郎は勤王攘夷派ですよね? 彼らの一派は、元々勤皇派であってそれを心に秘めて上京した <- あわよくば同行した浪士組を一挙に勤皇派に寝返りさせようと画策したが、近藤らによって阻止された >山南敬助の思想はどういうものだったのでしょうか? さんなみさんですか? 最初は良い感じだったのに途中で主流から外れて切腹させられたぐらいしか記憶していません
お礼
勉強になります!! 個人的な解釈でしたが、蘭学医の松本良順と関わりがあったり、 西洋式武器を使ったりしていたので、かなり開国に好意的だったのだと思っていました。 あちがとうございました。
お礼
回答ありがとうございます。 読んで、なるほどなぁと納得できました。 歴史好きというよりも、一ヶ月程前から新撰組を知り、歴史に無知な状況から、 それに興じて幕末の歴史の流れについてはそれなりに知っている、という感じです。 学生の頃から歴史は苦手でしたので・・・。 私が高知出身なので坂本龍馬や土佐藩については興味本位で調べた程度で、 幕府や薩長のことはまだあまり詳しくありません。 ですから、勤王・攘夷・佐幕・開国などいろいろある上に、 目まぐるしく変わっていくので難しく、理解ができないのです。 長州や薩摩は戦争で海外の脅威に気づき開国派になったというのを読み、 戊辰戦争は尊王開国派と佐幕開国派の戦いなのか、 それとも、勤王と佐幕両者共に、攘夷派も開国派もいたのか、 というのが気になって仕方がないのです。 調べるほどこんがらがってきて、よくわからなくなってきました・・・。