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油小路事件
こんにちは。 伊東甲子太郎先生のご遺体を放置出来ないと、囮の遺体を引き取りに来た藤堂平助ら7名ですが、4名が戦死しました。 藤堂らの遺体もまた、御陵衛士残党を誘き出す為に3.4日道端に放置されたそうですが、当時に奉行所は京都にはなかったのですか。 現在の警察署の様な場所が遺体を検視したり、預かったりすれば、身内が引き取りに行き、油小路の変の様な悲劇は無かったのでは、と思うのですが。 教えてください。
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こんにちはjellyさん ああ これですか? 知りませんでしたが 別に 頓珍漢な 質問でもありませんでしょうが ただ この疑問を 解消するためには 当時の京都の情勢を知る必要がありそうです 京都町奉行は もちろん存在したわけですが それは平時の訴訟事などに限られのであって 大掛かりな 治安維持の 機動性は持っていなかった 簡単に言いますと 会津容保は幕府から 京都治安の 全権を委任される jellyさん よくご存知のように 京都守護職です 新撰組は 会津お預かりですから言わば 行動部隊 新撰組の行動は 京都守護職の意志であり ひいては それが幕府の意志でもある となれば 町奉行所が 口を出せるものではありませんでしょうし 余計なことは できるものではない 以下余談ですが jellyさんは 新撰組に興味がありそうです? 子母沢寛さんに「 新撰組始末記」の 三部作があります もしまだでしたら 是非一読を 明治に入ってからですが まだ 当時を知る 古老の方々が 残っておられて 子母沢寛さんが その方々を探し当てて 丹念に取材された 司馬遼太郎さんに 2冊 新撰組の小説がありますが 子母沢寛さんの「 新選組始末記」 これを下敷きにされておられる 良い話がありましてね 司馬遼太郎さん 子母沢寛さんにお願いに行ったそうです これから新選組を書きたいと思いますので 史料の 引用を お許し 願えませんか? 子母沢寛さん 快く許したそうです その話を 司馬さんから聞いた 海音寺潮五郎さんが そうだろう 子母沢さんは そういう人だよ そう言ってにっこり微笑んだそうです 海音寺潮五郎さんも 西郷隆盛をライフワークにした人ですから お互いに 通じるものがあったのでしょうね さて、 年内はこれでお話しするのも最後かもしれません どうぞご家族皆さん 良い年をお迎えください 私は「 鬼滅の刃 遊郭編」を お正月に見なければアハハハ
お礼
Kamejrouさん、こんばんは! 無理に回答して頂き、恐縮です。 そうですね。松平容保は新撰組の上司にあたるのですよね。全件監督?原辰徳の様ですね。アハ。 いえね、人の遺体をね、町中、道端に放置出来るものなのか、と疑問に思いまして。しかも3日も。傷みますし、日中は人の往来もありますでしょうし、夜は気味が悪いのではないかと…。 藤堂平助は美しい青年だったそうですね。 運命が少し狂っていたなら、命を落とさずに済んだものを。 仲間を逃がそうとしていた様子や、背中に刀を受けない様に壁を背に付けて闘っていた等…大の字に倒れていたそうですね。 何かと忙しい暮れに、お時間を頂きましてありがとうございます。 詳しく教えて頂き、助かります。 また、何時も温かいお礼をありがとうございます。 Kamejrouさんの、どなたにも同じ長さのお礼をなさる姿勢を尊敬しています。 見習いたいです。 大変お世話になりました。 家族の事も心配頂き、本当に嬉しいです。 寒くなりました。 どうかお身体にお気をつけになってくださいね。 来年もよろしくお願い致します。 回答を頂きまして、ありがとうございました。
補足
ありがとうございます。 女子会の帰りデス。 お礼は夜になりますが、必ず致します。