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殿様の移封
昔から疑問に思っていた事があります。それは、殿様の移封です。例えば、甲府の殿様が大和郡山に移封されたり、信州の殿様が兵庫の出石に移封されたり、それまで住んでいた土地と全く違う遠方に移封されるのには、何か特別な理由でもあったのでしょうか?
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>それまで住んでいた土地と全く違う遠方に移封されるのには、何か特別な理由でもあったのでしょうか? 一般的には、論功行賞と大名廃絶時の交代ですね。 豊臣恩顧の福島正則は、「お仕置き」として安芸広島50万石から信州内で4万5千石に減俸となりました。 出石藩は、出石藩の殿様が断絶(殿様不在)したので信州・上田から代わりに殿様が引っ越してきました。 信州から来た殿様は「蕎麦が好き」だったので、蕎麦職人も一緒に引っ越しをさせたので有名です。 「信州蕎麦と出石蕎麦は、同じ」なんです。^^; また、幕府に対して多大な功績を残したので「栄転」という武家もいますよ。 この栄転の為には、当然「引っ越し先の土地」が必要ですよね。 既に藩主がいた場合は、色々な難癖をつけて別の土地に飛ばします。 空いた土地に、栄転する藩主が引っ越してきます。 福島正則は、典型的な「豊臣温厚大名つぶし」です。^^;
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- eroero4649
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>あやふやですが、仙台あたりの殿様が愛媛あたりに移封されてますよね。 愛媛県の宇和島伊達藩のことですね。宇和島伊達藩の初代藩主秀宗はあの伊達政宗の息子で当初は政宗の跡継ぎでしたが、正室であるあのメゴヒメとの間で忠宗が生まれてそっちが(正室の子なので)跡継ぎになりました。秀宗は梯子を外された格好になったので政宗が「ウチの息子が可哀想すぎますやん。なんとかしてください」と徳川秀忠に頼み込み、ちょうどそのときに宇和島藩主だった富田氏が改易されて空き地になったので、そこに送られたのです。 経緯からすると「仙台伊達藩の支藩」扱いになるのですが、秀宗は本来は本家の跡継ぎになったはずなので支藩扱いではなく独立した藩の扱いになりました。 ですから転封ではないですね。仙台伊達藩は幕末まで続いていますね。あのサンドウィッチマンの伊達さんは伊達家の末裔(ご本人いわく本家筋ではなく分家の分家の・・・みたいな格だそうですが)なのだそうです。 >恐らく、幕府の老中か何かの役付きが、大名の名前が書かれた大きな日本地図とにらめっこしながら、コマを動かすようにして移動させたんでしょうね。 転封させられるならまだマシなほうです。徳川幕府はその威厳を保つため、藩の「取り潰し」を結構やっています。その数はなんと約200。江戸時代が約200年ですから、ほぼ1年に一度、どこかの藩が潰されている計算になります。でも実際は確か最初の30年か50年くらいのうちに集中しているのですけどね。福島正則の広島藩が取り潰されたのも、あの赤穂藩が取り潰されたのも江戸初期の話です。 「凸凹藩に謀反の恐れあり」なんて密告でもされようものならもうアウト。時代劇によくある「密かに幕府転覆を狙う」なんて命がいくつあっても足らない・笑。実際、江戸時代って一度しか反乱事件が起きていないんですよね。その唯一の反乱事件が「島原の乱」で、この島原の乱が「江戸時代最後の戦争」です・笑。はい、戊辰戦争は明治の戦争なのです。 一揆を起こされてそれが幕府に知れてもそれが「お前、統治能力ねえな」と取り潰しの口実になるので、我々のイメージと違って外様藩は意外に一揆や強訴にも弱いんです。財政難で諸藩の権威が落ちてきた幕末頃になると一揆が農民側の完勝(要求ほぼ丸呑み)もちょいちょい起きるようになります。 だからわざと鼻毛を伸ばしっぱなしにしてアホっぽく見せた殿様までいましたね。殿様はヘタをこいてもいけないし、切れ者過ぎて警戒されてもいけないのです。生き残るだけでも大変で、しかも養子で藩主になった殿様だと「だってアイツ養子じゃん」と家臣がちっともいうことを聞いてくれないケースもよくありました。田舎あるあるですよね。殿様も大変な時代でしたね。島津藩第二十七代藩主の島津重年は、幕府が島津潰しで仕掛けられた宝暦の治水工事を幕府に命じられて、その心労から工事が終わると共に27歳の若さで亡くなってしまいました。
お礼
…面白いですね…意外と、江戸時代であっても、世間は狭かったんですね。それにしても、情報はそれほど無かったでしょうから、仙台から愛媛に引越しをして、「あれ?冬なのに雪があまり降らないな」とか、色々と驚くことはあったでしょうね。江戸時代の殿様事情が分かり、面白かったです。ありがとうございました。
- eroero4649
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だいたいは「おしおき」というケースが多いと思いますよ。 例えば常陸の戦国大名、佐竹氏。関ヶ原合戦のときに東西どちらにもつかず中立しました(上杉氏と密約があったという説あり)。 関ヶ原が終わると「俺の味方をしなかったのはけしからん」と家康によって秋田にすっ飛ばされてしまいます。 ヘマをすると辺鄙なところに飛ばされるのは江戸時代も現代も変わらないってことですね。 中には「石高は増えたけど適切な場所がなかったから場所を移された」という事例もあるかもしれないです。
お礼
なるほど。そのようなケースもあったんですね。確かに、当時の感覚では秋田も愛媛も辺境の地だったでしょうね。ありがとうございました。参考になりました。
お礼
論功行賞ですか。そう言えば、あやふやですが、仙台あたりの殿様が愛媛あたりに移封されてますよね。恐らく、幕府の老中か何かの役付きが、大名の名前が書かれた大きな日本地図とにらめっこしながら、コマを動かすようにして移動させたんでしょうね。動かされた方は、地元と全く違う気候風土の土地に追いやられて、さぞかし不満タラタラだったでしょうね(笑) ありがとうございました。勉強になりました。