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浅野長政の甲府封入

いまTBSで甲府城が取り上げられているのを見てふと疑問に思ったのですが、 なぜ甲府は浅野長政が封じられたのでしょうか? 東海道をみると山内・中村・堀尾と家康の西上戦を阻止すべく明確に防衛を意識した大名が配置されています。 一方長政は官僚型の人材であまり防衛戦に向いた武闘派には向かないように思えます。 たまたまほかに土地が無く甲府なのでしょうか? 上杉家まで派手に転封した秀吉ならいくらでも鉢植えできたようにも思うのですが。

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noname#224207
noname#224207
回答No.2

戦術戦略の観点から封じた訳ではありません。 長政は、秀吉が諸大名から没収した金銀山の管理を任されていました。 当時関東では甲州金という武田信玄が発行した金貨が流通していました。 甲州一帯は当時関東最大の産金地帯でした。 佐渡の金山が主要金山になるのは家康が江戸へ下向した以降の江戸時代です。 甲州金は江戸時代にも引き継がれ文政期まで鋳造が続きました。 家康発行の最初の金貨である慶長小判も甲州産の金でした。 江戸時代の貨幣単位の両、分、朱も信玄の甲州金にならったものです。 長政は武将としての能力もさることながら行政手腕に長けた人で太閤検地の差配も任されていた人です。 秀吉としては財政の基本であった金の管理を任せるのには打って付けだったのでしょう。 産金量が衰退した後の、江戸時代の甲府山流しとは全く意味合いが違います。

jkpawapuro
質問者

お礼

甲州金、確かにそれが理由でしょう。合点がいきました。 御回答ありがとうございました。

その他の回答 (3)

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.4

1 息子は武闘派 これは No1の方のご指摘の通り 2 甲州の経済性 これは No2の方のご指摘の通り 3 横槍の位置 江戸=関西 では、いくつかの場所が何度も戦場になっています。地理的な戦略的な争奪の場所となります。 その中でも薩埵峠は、東から見て(箱根全域が徳川勢力なので)最初の戦略ポイントに成ります。  駿府城 = 薩埵峠 20キロ 甲州から富士川沿いに南下すると富士宮市芝川から扇状地となり平坦な土地になります。 この芝川から薩埵峠へと現在の国道52号経由で20キロ 富士川右岸 県道10号で薩埵峠へ20キロ 蒲原から由比にかけて西上軍がいた場合、52号経由で隠密裏に連絡することが出来、県道10号経由で隠密裏に背後に迫ることが出来るポイントです。 薩埵峠から庵原にかけての5,6キロは、渋滞情報とかで時々でますが、東名高速道路が海の上を走らざるをえないほど山が海に迫っています。 つまりここで東西から挟撃されたら危険な場所です。 あるいは 策源地と考えた時 甲府 → 富士市 は 70キロ 次の横槍の策源地は飯田になり 飯田 → 浜松市 130キロ 飯田 → 豊川市 120キロ 甲府の優位性がわかります。 この地に親戚筋で信頼が高い浅野家を置くのは至極当然のように思われます。 ※ 単なる家来筋の 中村一氏(駿府)山内一豊(掛川)堀尾吉晴(浜松)は甲府の浅野の比較で言えば捨て石で結構ということかなと。

jkpawapuro
質問者

お礼

東海道を攻め登るとしたら甲州に兵を送らないことは考えにくく、やはり甲州金が理由でしょうねえ。 御回答ありがとうございました。

回答No.3

関東への睨みでしょう ご存知長政は北政所とは縁者です

jkpawapuro
質問者

お礼

御回答ありがとうございました。

  • ithi
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回答No.1

jkpawapuro さん、こんばんわ。 東海道をみると山内・中村・堀尾と家康の西上戦を阻止すべく明確に防衛を意識した大名が配置されています。 一方長政は官僚型の人材であまり防衛戦に向いた武闘派には向かないように思えます。 それでも、息子の幸長は武将型の典型です。また、正室北政所の縁者ですから、対徳川の最前線におかれたのでしょう。 また、ほかの大名のように東海道という大動脈ではない甲府街道ですから、少し、外れた地域であることには変わりないでしょう。 詳細は下記のURLを参照ください。 浅野幸長 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E5%B9%B8%E9%95%B7

jkpawapuro
質問者

お礼

なるほど息子の存在ですか、御回答ありがとうございました。

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