- ベストアンサー
定冠詞の機能とは?全体を指し示すか
- 定冠詞の使用原則は、話し手が提示したあるものを聞き手が特定できると、そのように話し手が判断した時、話し手は定冠詞を使うという約束事です。
- 定冠詞の指示範囲についての議論はRussellが唯一のものを指し示すと主張し、Hawkinsが包括的な考えを提唱しました。
- 定冠詞が全体を表すかどうかは語用論的状況と関わりますが、全体を表すことをもって定冠詞の働きであるとするのは無理があると思われます。
- みんなの回答 (5)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
補足ありがとうございました。 @The whale is not a fish.においてthe whaleは明らかに種族を表します。Nakayさんは全体を表すとおっしゃりますが、その場合、全体は種族の成員(外延)の全体を表す場合しかありません。種族の一人一人の成員の全員を表す場合は、数えられるものなので複数形を使います。Nakayさんの考えでは全員だからthe whalesを使うわけですね。私の考えでは、theを使う理由は、文脈的にそのものの部分を全体から空間的・時間的に切り離して扱うことが困難(魚であるような鯨は存在しない)だからということになります。… ⇒お説は全面的に賛同申しあげます。ご教示ありがとうございました。 ただ、あの節、意図していながら言及しそびれたことがあります。それは、発話の際、文字面では(すなわち、表層構造では)The whale is not a fish. と種族を表しながら、構文上の意味(すなわち、深層構造では)All the individuals of the whale are not fish. のように種族の成員を念頭に描いきながらも前者のように発話する、というようなこともあり得る、発話者の気分によってはそういう修辞法を用いることもあり得るのではないか、ということです。このよう深層と表層が整合しない言表は、ある種「発話者的文法の誤り」であることは確かであるとしても、現実に起こり得ることでもあってみれば、それを許容するような解釈の機構を含み持つ文法があってもいいのではないかと思います。特に、翻訳文法や普遍文法のレベルでは、そのような「想定誤差」を吸収・処理できるような「柔軟対応型IC」が現下1つの課題でもあるようですね。 @文法的な観点からthe全体説は誤りだということを3回に分けて説明してきましたが、結論として言えることがあります。the全体説は意味素性分析においては有効であっても、文法説明のための手段としては無効だということです。素性が+であれば文法説明に使えますが、±だと使えないということだろうと思います。もちろん素性はより適切なものでなければなりません。ちなみに、ある文法専門書で定冠詞の素性として[definiteness±] と[genericness±]を採用している人がいました。 ⇒当のtheだけでなく、それと共起する他の環境条件と協働して、「相乗効果としてinclusiveness+になることがある」と考えればいいでしょうか。 @これまで、私自身の勉強(及び指導法)の基礎を固めようと様々な質問を投稿してきました。その度に丁寧にお答え頂いたこと、切に感謝しております。/そこで、次回、総決算というわけでもありませんが、自分が長年に携わってきた英語指導において関わってきた英文法について何かの形でコメントしてみたいと思います。 ⇒こちらこそ、楽しませていただきました。いろいろご教示いただいて、よい刺激を受けました。また、今後が楽しみです。 @おそらく、今後も(いろいろ問題はありながらも)伝統文法に準拠する形で実際の指導が行われてゆくものと思われます。ただ、昨今の現状を鑑みるに、文法指導そのものがすたれてゆく方向に進むのではないかという気がします。そうした懸念は別にして、生徒達に対する私自身の英語(文法・読解・作文)指導に際しては、常に伝統文法の枠組みが介在していました。そこで、今回、長年お世話になった伝統文法に対するささやかなオマージュとして、伝統文法の根拠(基礎)づけのようなものをやってみたいと思います。 @学校文法において基礎的な学習事項とされている文構造(語・句・節の働きの総体をその定義としておきます)について多少なりとも統一的な尺度でもって分析できれば、それでよしとしようと思います。これが次回の質問投稿の趣旨です。<文構造における存在基盤について>というタイトルにする予定です。よろしければ、又おつきあい下さい。 ⇒ぜひまた関わらせていただきたく存じます。おそらく、またぞろ、道楽のような回答になるかも知れませんが、なにとぞよろしくお願いします。
その他の回答 (4)
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10068/12612)
再々度の補足をありがとうございました。 @PQのteachersとthe teachers のケースが2つの間の区別が曖昧のままでもさしたる支障がないような場合だとは思いません。/<2つの間の区別が曖昧のままでもさしたる支障がない>とする判断はどこから生まれたのでしょうか。おそらく、teachersは一部を表すがthe teachersは全体を表している、どちらにしても、そのうちの一つ(one)が焦点になるわけだから、区別が曖昧のままでもさしたる支障がないという判断だと思います。だとすれば、teachersは一部を表すがthe teachersは全体を表しているとする判断はどこから生まれたのでしょうか。又、仮にP: Yesterday teachers of the school came here. Q: Yesterday the teachers of the school came here. だとしたらどうなるのでしょうか。区別がさらに明確なものになります。Qにおけるthe teachersが全体を表すとする根拠はどこにもないと思います。 <They are teachers of our school. が先生の一部を表すのに対し、They are the teachers of our school. が先生全員を表す>という主張の根拠を著者に聞いてみたいですね。私が思うに、文法書執筆当時に他の文法書の記述を参考にして、the nouns 全体説をそのまま採用したのではないでしょうか。その時点では、<包括説が唯一説に還元される>とする説は出ていなかった、あるいは既に出ていたとしても聞いたことがなかったのだろうと思います。そして、teachers とthe teachers を併置させたのは、その方が読者に違いを視覚的に示しやいと思ったからでしょう。私の知るかぎりでは、the nouns 全体説を採用した少数の文法書・解説書で、なぜそうなのかをきちんと説明したものはありませんでした。何の根拠もなくthe nouns 全体説を唱えれば、これは形而上学です。文法論とは言えません。もちろん、the nouns 全体説は論理的に支持されるものではありません。実際の言語事象においてthe nounsが全体を表す事例がそこそこあるという観察結果から帰納してthe nouns 全体説を仮説として打ち出すなら、それなりに有意味なことです。もちろん、その場合、実際の言語事象においてthe nouns が全体を表す事例がどのくらいあるかを検証しなければなりません。このことは前々回の返信にて指摘しました。でも、この問題をぶり返すつもりはありません。要は、the nouns全体説を論理的根拠なく提示するか、論理的根拠を重視してthe nounsの指示範囲を唯一のものであるとするかの違いだと思います。 私としては、これまで冠詞の理解はできるだけ論理的であるべきだという主張をネイティブにぶつけ、そのことで何度も議論してきました。論理で説明可能であるならそうすべきだと思うからです。ただし、これは私個人の主張にすぎません。主張をどこまでも通そうというつもりはありません。折り合いがつかないことがあってもいいと思います。冠詞の解説書の記述事項が本によって異なる、あるいは矛盾しあうことなど珍しくもありません。また、論理的根拠なしにいきなり結論じみたものから記述されることも珍しくありません。ですから、the nouns 全体説は私には論理的な根拠を持たない言説だと思えますが、私以外の方には論理以外のそれなりの根拠があるのでしょうから、それはそれでいいと思います。たとえば心理的な根拠もありますし、言語現象の説明やコンピューターを使った解析に素性分析が欠かせないという場合もあると思います。生成文法の研究者やその系譜に属するコンピューター解析者が論理的な根拠を示せと言われても、彼らは何を言われているのか(なぜ論理的根拠が必要なのか)さっぱりわからないでしょうね。彼らにとって必要なのは論理ではなくて、有効な手段なのだろうと思います。もし、論理的根拠が必要だと言うことになったら、彼らの学問的基盤を再構築しなければならないことになります。再構築が必要なのは、それまでのやり方が通用しなくなった時です。そのような機会は来ないと思います。理論面ではなく応用面のことですから、いかようにも修正が効きます。再構築は、大きなパラダイムチェンジの過程においてしかなされないと思います。Nakayさんとはこの問題に関しては大きな違いがありますが、それはそれで構わないと思います。ネイティブによく言われました。論理がすべてではないと。恐らく、私が理論面と存在論的な面を重視しすぎるのだろうと思います。 ⇒「the nouns 全体説」の実態は仰せのとおりかも知れませんね。ところで、数学の公式に、0!=1(ゼロの階乗は1)というのがあります。「ゼロまでの数を足し合わせたものが1になる」などということは、通常の感覚ではとうてい受け入れられるものではありません。ではなぜそれが公式になっているのでしょう。専門家に聞くと、「そうしておくと都合がよいから、そう決められている」とのことでした。本件もそれと似たところがあるような気がします。つまり、「定冠詞の意味機能の1つに全体を指示するというのがある、と想定できる」。この主張の根拠は、①「そう解釈すると、冠詞の体系的説明のために整合性が得られて具合がよい」、②「実用例がたくさんある」、③「(ある時期に冠詞を発生させた)他の印欧語でも、そういう体系をなしているものが複数ある」、④「英語発達史の観点から、今後そのような体系化が一層進展する可能性が予想される」、といったところでしょうか。 @-前回の返信でも触れましたが、いきなり、「意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません」というような言い切り型の文言にしたつもりはありません。おそらく誤解されているように思います。前前回の返信でこう記しました。<古くからある考えでは、語の意味は言語使用者から客観的な実体として独立しているとするものです。でも、その場合、語の意味を言語使用者から切り離して客体化してとらえることになるので、意味を正しくとらえることができません。意味をとらえようとすると、あるいは定義を行おうとすると、その正しさが問題にされる時に説明不可能です。説明しようとすると論理循環または無限遡及が起きます。この問題を解消しようとすれば、言語使用者が語に対して主体的な関わりを持ち、意味づけを行っていると考えるしかありません。--認知文法によれば語の意味は概念ではなく概念化です。すなわち言語主体による意味づけという面がクローズアップされてくるわけです。こうなると、もはや意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません>-これでおわかりと思いますが、「意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません」はいきなり出した言い切り型の文言ではありません。前回も言いましたが、意味素性分析は実際的な言語事象の研究・調査・新知識獲得といった場面では有効だと思います。そもそも客体的な調査対象として言葉の意味の考察を進めることが前提になっているわけですから。ただ、素性の設定に際しては巧妙かつ慎重に行うことが要求させると思います。 ⇒確かに、私の誤解でした。段落の冒頭を直前の段落からの続きから切り離して扱った結果、突然の断定と読み間違えた結果だと分かりました。お書きの「補足」に、 《…認知文法によれば語の意味は概念ではなく概念化です。すなわち言語主体による意味づけという面がクローズアップされてくるわけです。 こうなると、もはや意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません。実際、認知文法・認知言語学には意味素性といった発想はありません。主体から独立した意味などあり得ないからです。…》 とあるのを確認しました。この前後を分けてしまったことに起因する誤解だと分かりました。当方の手落ちでした。お詫びします。 @定冠詞に関しては素性はもっと多くてもよいと考えます。実は、私の場合同級生に生成文法の研究者もいますし、認知文法の研究者もいます。そのどちらでもない単なる語法研究者もいます。それぞれ立場が異なります。私はその3者とも異なる立場を取っています。だからといってそのことを問題視することはありません。考え方の異なる人が集まって面白いものやより豊かなものを生み出す可能性もあります。 今回は定冠詞の考え方においてNakayさんとの間に決定的な違いがあることがわかりましたが、それはそれでいいのではないかと思います。<They are teachers / the teachers of our school.>について、又もや自説を開陳しましたが、そうした考えもあるというふうに受け止めて下さい。流し読みしてくだされば結構です。 ⇒私も、互に異なることはむしろ歓迎です。その所論も納得できるものが大半です。普段は自説に執着していますが、それを覆すに足る所説に出会えた場合、それを捨てるもやぶさかではありません。私は、生来の夢想癖が災いして、実地観測の類をおろそかにし、勝手な妄想を巡らせてしまうところが弱点です。「木を見て森を見ず」になるまいと思うあまり、逆に「森を見て木を見ず」に陥っているかも知れません。これは、私の自省すべき点だと思っています。
お礼
残りです。 学校文法はいわゆる伝統文法と呼ばれるもので、その正当性の根拠や論理的整合性において矛盾や曖昧さを様々に含むものです。それでも、そうした枠組みに依拠した指導が続けられてきたのは、指導側の怠慢というより、主に指導の簡便さによるものだと思われます。実践的観点から言うと、指導における論理的整合性はそれほど要求されません。生徒が実際的な知識をおおざっぱに身につければそれでよいと考えられてきたと思うのですが、高校段階の英語指導という観点から見れば、私もそれでよいと考えます。 実際、Jespersenの考え方や構造主義文法、生成文法、認知文法のどれをとっても、教室での実践面での運用がうまくいったと聞いたことはありません。これらの考え方にそもそも欠陥があるということもありましたが、それより現場の生徒達にとってハードルが高すぎたということの方が大きいと思います。おそらく、今後も(いろいろ問題はありながらも)伝統文法に準拠する形で実際の指導が行われてゆくものと思われます。ただ、昨今の現状を鑑みるに、文法指導そのものがすたれてゆく方向に進むのではないかという気がします。 そうした懸念は別にして、生徒達に対する私自身の英語(文法・読解・作文)指導に際しては、常に伝統文法の枠組みが介在していました。そこで、今回、長年お世話になった伝統文法に対するささやかなオマージュとして、伝統文法の根拠(基礎)づけのようなものをやってみたいと思います。 根拠をどこに求めるかということですが、伝統文法の発想は自然科学の発想と軌を一にしています。ということは、ニュートン物理学の発想が根本にあるということです。すなわち私としては、時間及び空間的な制約がいかに言語対象に適用されるかを見ようというやり方を取ろうと思います。古めかしい存在論的なアプローチですが、古めかしい伝統文法においてこそ有効なのではないかと思います。 よって、客体的な見方を克服する試み-言語主体による言語対象に対する積極的な関わりという観点-は採用しません。現象学的、又は認知文法論的な見方は採用しないということです。なぜなら、現実に客体的な観点から作られそういう発想で日常的に運用されているものを、別の考え方でもってとらえ直すことに意味がないからです。ちょうど、日常生活における事象を相対性理論や量子力学的な視点で捉えることに意味がないのと同じです。 それゆえ、伝統文法の根拠づけは伝統文法の内部から行われなければならないということになります。すなわち、三次元空間と時間という認知形式において伝統文法を照らし出してゆくわけですが、細かい文法項目に言及するつもりはありません。学校文法において基礎的な学習事項とされている文構造(語・句・節の働きの総体をその定義としておきます)について多少なりとも統一的な尺度でもって分析できれば、それでよしとしようと思います。 これが次回の質問投稿の趣旨です。<文構造における存在基盤について>というタイトルにする予定です。よろしければ、又おつきあい下さい。
補足
回答ありがとうございました。 ●前回のNakayさんの返信にコメントし忘れたものがあります。今さらとは思いますが、一応、私の見解を述べておきます。 <定冠詞の「代表」機能も、全体を示す部類に入りますね。有名なのでThe whale is not a fish.というのがあります>とのことですが、「代表」機能が全体を示すかという問題について私なりの見解を記しておきます。よろしければ流し読みしてください。 The whale is not a fish.においてthe whaleは明らかに種族を表します。Nakayさんは全体を表すとおっしゃりますが、その場合、全体は種族の成員(外延)の全体を表す場合しかありません。 種族の一人一人の成員の全員を表す場合は、数えられるものなので複数形を使います。Nakayさんの考えでは全員だからthe whalesを使うわけですね。私の考えでは、theを使う理由は、文脈的にそのものの部分を全体から空間的・時間的に切り離して扱うことが困難(魚であるような鯨は存在しない)だからということになります。 The whales can die out in the near future. を例文としておきます。というわけで、The whale is not a fish. が全体を表すことはありません。 ではこの文が何を表すのかということですが、the whaleが種族というカテゴリーを表すことは明らかです。カテゴリーの成員(の集合体)を表すわけではありません。カテゴリーそのものを表します。具体的に言うと、鯨という概念の内包的な部分、すなわち典型的な属性を備えた個体を表すと思われます。種族の個々の成員の全体を代表する唯一の個体と言ってもいいはずです。これを全体と言うのはおかしいと思います。 繰り返しますが、the whaleがthe whalesと同じ意味を持つことはありません。The whale can die out in the near future. は成り立ちません。死ぬのは身体を持った個々の成員でなければならないからです。 以上です。「代表」機能が全体を示すことはないことを示しました。私としては、定冠詞の「代表」機能は<全体を示す部類に入る>のではなく<種族の成員全体を代表として唯一のものをさす>と言い換えたいと思います。 結局、特定表現においても総称表現においても、the+名詞が何かの全体を表すのは、文脈の要請によって、そのものの部分を全体から空間的・時間的に切り離して扱うことが困難な場合だと結論づけることができそうです。 ところで、実は、私を含む(たぶん)多くの文法指導者が陥る陥穽を紹介します。Most of ( ) are hardworking. -( )に入れるべき選択肢としてstudentsとthe students (theはmy でもtheseでも構いません)のうち正しいものを選ばせる問題がありますが、頻出問題です。英語教師の多くがこの問題に直面してきたはずです。 正解はthe studentsです。<不特定のより小さな集団がより大きな集団の中にある時、大きな集団は数量的の確定したものでなければならない>という原則がありますから、theが使われるのは明白です。ところが、たいていの先生はそのようなことを知りません。現場の指導者で冠詞指導に熟達している人はなかなかいませんから。でも、正解がthe studentsだということは解答書を見ればわかります。そこで、theがつく理由をひねり出さなければなりません。そこで、こう考えてしまいます。-より大きな集団は全体を表す(ここまでは正しい)。全体を表すものにはtheがつくはずだ。-これは、たしかに非常に魅力的な考えです。生徒にとってもわかりやすいので、ついその考えが正しいと即断しそのように教えてしまいます。the noun(s)全体指示説の誘惑に抗しきれなくなる瞬間です。 ところが、その後、Yesterday one / 5 of students came here yesterday. とか、Eighty percent of students agreed. といった文を何度か見かけた時点で、the全体説に疑問を持つようになります(ここでは、studentsもthe studentsもどちらも使えるのですが、その理由は<より大きなもののうちからより小さな具体的な数量のものを表す時、より大きなものは必ずしも数量的に確定したものである必要はない>という原則によるわけです。theが全体を指示するかどうかと無関係だったわけです。 たいていの先生はそのようなことを知りません。ですから、この時点においてもthe全体説を維持し続けた先生の中には、theをつけないのは間違いだとはったりをかました人もいました。生徒にしてみればそれで特に実害が生じるわけではありません。 ところがさらに追い打ちがかかります。「生徒達は全員出席していました」を英文に転換させたとします。the全体説を教わった生徒の中にはThe students were present. と書いて、これでOKだと思いこむ者がいます。<全員>はtheで表されていると思うわけです。 この時点で、たいていのthe全体説信奉者(私も含めて)はこの説を完全に放棄します。放棄しない人もいました。彼らはこう言ったそうです「大学入試の採点者はそれほど冠詞の知識を持っていないので、the studentsが生徒の全員を表すことを知らない可能性がある。その場合減点の可能性があるので、用心のためにallをつけておくように」。笑い話ではありますが、生徒には実害は生じません。珍妙な屁理屈を作り出した先生はall the studentsという言い方がなぜ可能なのかについても珍妙な屁理屈を考え出しました。でも、笑い事ではすみません。おそらく、かなり多数の文法指導者がこうした罠にはまっているものと推測されます。 私がthe全体説を放棄したのは相当昔のことですが、ではなぜthe名詞が全体を表すことがあるのか、については明確な考えをなかなか持てずにいました。それと、意味素性のinclusiveness(全体性)と文法との兼ね合いについても明確な規定ができませんでした。そうした問題について、数年前から自分なりの考えがまとまりかけてきたので、それで今回確認してみたいと思って投稿したわけです。 さて、文法的な観点からthe全体説は誤りだということを3回に分けて説明してきましたが、結論として言えることがあります。the全体説は意味素性分析においては有効であっても、文法説明のための手段としては無効だということです。素性が+であれば文法説明に使えますが、±だと使えないということだろうと思います。 もちろん素性はより適切なものでなければなりません。ちなみに、ある文法専門書で定冠詞の素性として[definiteness±] と[genericness±]を採用している人がいました。 今回もおかげでいろいろ勉強になりました。ありがとうございました。 ●<専門家に聞くと、「そうしておくと都合がよいから、そう決められている」とのことでした。本件もそれと似たところがあるような気がします。つまり、「定冠詞の意味機能の1つに全体を指示するというのがある、と想定できる」。この主張の根拠は、①「そう解釈すると、冠詞の体系的説明のために整合性が得られて具合がよい」、②「実用例がたくさんある」、③「(ある時期に冠詞を発生させた)他の印欧語でも、そういう体系をなしているものが複数ある」、④「英語発達史の観点から、今後そのような体系化が一層進展する可能性が予想される」、といったところでしょうか> -おっしゃることはよくわかります。私は哲学(特に現象学)に親しんできたので、そのような考えに最初に出くわした時は驚きました。でも、そうした考えが現実の暮らしや学問分野においてなくてはならないものになっていますし、すべてが論理的に整合しなければならないとするのも一つの考えにすぎないと私自身も思うようになってきています(ですから論理実証主義などというものがどれだけ薄っぺらなものかよくわかります)。 そもそも、論理的整合性を過度に求めると、科学の場合、それを放棄するしかありません。もちろん、そのようなことはあってはなりません。科学は現実に我々の生活の至る所に根を張り、現実を変えたり維持したりするのに巨大な力を持っています。これを無視することは誰にもできません。このことは科学以外の様々な学問分野についても言えます。 ●今回もありがとうございました。これまで、私自身の勉強(及び指導法)の基礎を固めようと様々な質問を投稿してきました。その度に丁寧にお答え頂いたこと、切に感謝しております。基礎と言っても哲学的な理解も含めたものでしたが、ここにきて、やっと自分なりに満足のいく基礎ができあがったように思います。 理解しきれずに残ったものは恐らく半端な内容だけだと思います。というわけで、昨年9月から続けてきた質問投稿をひとまず終了させ、また新たな一歩を踏み出そうと考えています。そこで、次回、総決算というわけでもありませんが、自分が長年に携わってきた英語指導において関わってきた英文法について何かの形でコメントしてみたいと思います。 残りはお礼に入れます。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10068/12612)
再度の補足をありがとうございました。 @自発的な意志によらなくても強制によっても共同作業は成立します。行き違いも共同作業の結果です。私が言う共同作業はコミュニケーションを成立させる基盤という意味で使っています。でも、舌足らずだったようにも思います。共同行為の方がよかったかも知れません。というわけで、Nakayさんの見解と私の見解は矛盾し合うものではないと考えます。 ⇒了解しました。 @<現実問題、発話者の文法はパロール・個人語寄りで、syntagmを重視し、斬新的表現に富む傾向がある一方、聞き手の文法はラング・標準語寄りで、paradigmを重視し、変化や逸脱表現を忌避する傾向があって>とのことですが、その通りだと思います。「聞き手の文法」と「発話者の文法」を一体のものだとしたのはコミュニケーションの成立のための基盤について考えたためです。内包的な部分について言おうとしたわけです。現実の外延的な事象で一体化が見えにくくなるのは当然のことだと思います。 <些細な表現の解釈をめぐって国際的な対立騒動>というのは、6日間戦争の後、占領地域からのイスラエルの撤退を決議した時の文面のことだろうと思います。英語ではterritoriesなのにフランス語では定冠詞がついていたのでしたね。有名な話ですから存じております。 ⇒そういうことですね。少しそれるかも知れませんが、突然頭に浮かんだ言葉があります。それは、古典的哲学用語のSolipsism(独我論)「何かを知ることができても他人には伝えられない」(ゴルギアス)です。悲観的に過ぎるとは思いますが、(このような奇怪な出来事を見るにつけて)気持ちは分からないでもありません。 @<例えばThey are teachers of our school. が先生の一部を表すのに対し、They are the teachers of our school. が先生全員を表すという場合も含めてのことです> -とのことですがコメントさせて頂きます。 P: Yesterday one of teachers of the school came here. He' s Mr. Nakamura. Q: Yesterday one of the teachers of the school came here. He' s Mr. Nakamura. Pにおいてone of teachers は教員全体のうちの一人を表していますが、teachersにtheはついていません。ある大きな集団のうちの部分を表す時は、大きな集団の方は全体を含意しているはずです。ところがtheがついていません。Qにおいてはthe teachers はその学校の教員全体を表しているわけではありません。もしそうならPと同じ文でよいはずです。ということは、特定の教員集団のうちの一人を表していると考えるしかありません。the teachersはその学校の教員の全体かも知れないし、部分かも知れません。一般に、より大きなもののうちのより小さなものを表す時、その小さなものが明確なもの(具体的な数字)である場合は、より大きなものは必ずしも数量的に確定したものである必要はありません。ですから、Pにおいてteachersにtheは不要です。oneでなくてmostやsomeだとthe teachers になります。より大きなものの中の不明確なより小さな部分を明確に表すには、より大きなものがあらかじめ(数量的に)確定したものでなければならないからです。 ⇒2つの間の区別を明確にすべき場合と、曖昧のままでもさしたる支障がないような場合がありますね。PQのteachersとthe teachersの対はそれに近いと思います。一方、冒頭に掲げた私の例文のteachersとthe teachersの対は区別を明確に要求します。なぜなら、PQでは、oneに焦点があるのに対し、私の例文のteachersとthe teachersでは、まさにそのもの自体の区別(一部か全員か)が焦点になっている場合だからです。(なお、私の例文は、文法書での本件説明の例から取ったものです。) @<ただ単純に、定冠詞は、ひとことで言えば限定を表すが、その特異点として「そのものの全体を限定する」ことがあるので、それを称して「定冠詞は全体を表すことがある」と言える、と考えています> -文脈次第でという但し書きつきであればもちろん了解できます。 ⇒ご趣旨は分かります。ただ、「全体を表す《ことがある》」にいろいろ込めたつもりでした。ついでに補足させていただきますと、定冠詞の「代表」機能も、全体を示す部類に入りますね。有名なので、The whale is not a fish.というのがあります。 @<語の最終的な意味は発話にかかって初めて確定されるものですね。一方、意味素性分析は、当事者(主体)が語とその意味を選択して発話表現に織り込む際の母体となるもの、つまり語彙的パラダイムの可能態の研究であると同時に、それと、主体による意味確定との関係の研究でもありますよね。「何の意味も持たない」とは考え難いです> -「何の意味も持たない」という発言がなされた前後の文脈はこうです。<すなわち言語主体による意味づけという面がクローズアップされてくるわけです。こうなると、もはや意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません。> <意味づけという面がクローズアップされてくると意味素性分析は何の意味も持たない>と発言しました。逆に言えば、もっと後で行われる議論におけるように、実際的な指導、あるいは学習活動においては意味を認めています。<意味素性分析は、当事者(主体)が、語とその意味を選択して発話表現に織り込む際の母体となるもの、つまり語彙的パラダイムの可能態の研究であると同時に、それと主体による意味確定との関係の研究でもあります>とのことですが全くその通りだと考えます。私が指摘したのは、主体による意味確定という出来事において、意味と主体の分離が前提とされているために正しい判定が原理的には不可能だということです。ですから、この事態を現象学的な観点から改善した方がよいのではないかと言ってるわけです。もちろん実際的な観点からはそれほど正確な判定が行われる必要がないので、特に問題にならないだろうと言いました。そういう手法が必要だと思う人はやればよいと思います。 ⇒了解しました。ただし、僭越ながら個人的観点からひと言:「最初に否定的な命題を掲げて、続きでそれを緩和する」筆法は誤解を生みやすいかも知れません。なぜなら、「最初に命題を掲げ、続いてそれを補強したり傍証を添えたりする」のが自然な流れと感じられるからです(そういう流れ図が頭に焼き付いているからかも知れません)。いきなり、「意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません。」というような言い切り型の文言を目にすると、それが否定されない限り、単独に断言されたものとして網膜に残ります。 @<私は素性分析の手法も認知文法・認知言語学の方法論も必要だと考えています。それはくだんの研究対象に肉薄するための、異なる切り口だと考えるからです。あたかも心理学における行動分析学と脳神経学、認識論における経験論と観念論、語法論におけるラング・標準語の考察とパロール・個人語の調査などのように、互に競い合い批評し合い対立し合いながらも、補い合い協力し合う「相棒」のような関係ではないかと考える次第です>-全く同感です。現実の学問的状況を見るとそうとしか言えないと思います。認知文法の方法にしたって、このようなものが方法なのかと思うことがあります。実は、メタファーの研究くらいしか私には評価できるものはありません。その哲学的(存在論的)基盤についても疑問を持っています(この件はこれまでにもお話ししました)。実際的な観点から言うと、今必要とされることは現場指導のための方法論だと思います。素性分析の手法も認知文法の方法も、それらが現場指導を改善したという話を聞いたことがありません。両者共に、こうした面での努力が必要だと思います。 @<巨視的に見ればお互いの主張が大きく対立することはないと思います。ただ関心・重点の置き方が若干異なると言えるかも知れません。feedersさんは新しい語用論に、私は言語の体系論(的把握)などに関心の的があるように感じました> -確かにそうですね。でも私としては一番重視したいのは存在論的観点です。今回もありがとうございました。Nakayさんの返信を待ってスレッドを締めたいと思います。 ⇒同感です。ときどき「剣もほろろに」突っかかってすみませんが、それもこれも、まさに「互に批評し合い、協力し合う相棒と思えばこそ」のことと思し召して、どうぞご寛恕くださいますよう、お願いします。以上、ご返信まで。
お礼
ありがとうございました
補足
再々度の回答ありがとうございました。 ●<2つの間の区別を明確にすべき場合と、曖昧のままでもさしたる支障がないような場合がありますね。PQのteachersとthe teachersの対はそれに近いと思います。一方、冒頭に掲げた私の例文のteachersとthe teachersの対は区別を明確に要求します。なぜなら、PQでは、oneに焦点があるのに対し、私の例文のteachersとthe teachersでは、まさにそのもの自体の区別(一部か全員か)が焦点になっている場合だからです。(なお、私の例文は、文法書での本件説明の例から取ったものです)> ---PQのteachersとthe teachers のケースが2つの間の区別が曖昧のままでもさしたる支障がないような場合だとは思いません。 P: Yesterday one of teachers of the school came here. He' s Mr. Nakamura. Q: Yesterday one of the teachers of the school came here. He' s Mr. Nakamura. Pにおいては、聞き手は「そうか、中村さんはその学校の先生だったのか」と思うでしょうね。Qにおいては、聞き手は、「そうか、中村さんはその学校の先生だったのか」と思うでしょうけど、先生はすでに話題に出ている先生です。ああ、あの時の先生達の一人なのかとか、うわさになっている例の先生方の一人なのかと思うのではないでしょうか。聞き手は、teachersとthe teachersをはっきり区別していると思います。 それにしても、<2つの間の区別が曖昧のままでもさしたる支障がない>とする判断はどこから生まれたのでしょうか。おそらく、teachersは一部を表すがthe teachersは全体を表している、どちらにしても、そのうちの一つ(one)が焦点になるわけだから、区別が曖昧のままでもさしたる支障がないという判断だと思います。だとすれば、teachersは一部を表すがthe teachersは全体を表しているとする判断はどこから生まれたのでしょうか。 又、仮にP: Yesterday teachers of the school came here. Q: Yesterday the teachers of the school came here. だとしたらどうなるのでしょうか。区別がさらに明確なものになります。Qにおけるthe teachersが全体を表すとする根拠はどこにもないと思います。 <They are teachers of our school. が先生の一部を表すのに対し、They are the teachers of our school. が先生全員を表す>という主張の根拠を著者に聞いてみたいですね。私が思うに、文法書執筆当時に他の文法書の記述を参考にして、the nouns 全体説をそのまま採用したのではないでしょうか。その時点では、<包括説が唯一説に還元される>とする説は出ていなかった、あるいは既に出ていたとしても聞いたことがなかったのだろうと思います。そして、teachers とthe teachers を併置させたのは、その方が読者に違いを視覚的に示しやいと思ったからでしょう。 私の知るかぎりでは、the nouns 全体説を採用した少数の文法書・解説書で、なぜそうなのかをきちんと説明したものはありませんでした。何の根拠もなくthe nouns 全体説を唱えれば、これは形而上学です。文法論とは言えません。もちろん、the nouns 全体説は論理的に支持されるものではありません。 実際の言語事象においてthe nounsが全体を表す事例がそこそこあるという観察結果から帰納してthe nouns 全体説を仮説として打ち出すなら、それなりに有意味なことです。もちろん、その場合、実際の言語事象においてthe nouns が全体を表す事例がどのくらいあるかを検証しなければなりません。このことは前々回の返信にて指摘しました。でも、この問題をぶり返すつもりはありません。 要は、the nouns全体説を論理的根拠なく提示するか、論理的根拠を重視してthe nounsの指示範囲を唯一のものであるとするかの違いだと思います。 私としては、これまで冠詞の理解はできるだけ論理的であるべきだという主張をネイティブにぶつけ、そのことで何度も議論してきました。論理で説明可能であるならそうすべきべきだと思うからです。ただし、これは私個人の主張にすぎません。主張をどこまでも通そうというつもりはありません。折り合いがつかないことがあってもいいと思います。 冠詞の解説書の記述事項が本によって異なる、あるいは矛盾しあうことなど珍しくもありません。また、論理的根拠なしにいきなり結論じみたものから記述されることも珍しくありません。 ですから、the nouns 全体説は私には論理的な根拠を持たない言説だと思えますが、私以外の方には論理以外のそれなりの根拠があるのでしょうから、それはそれでいいと思います。たとえば心理的な根拠もありますし、言語現象の説明やコンピューターを使った解析に素性分析が欠かせないという場合もあると思います。生成文法の研究者やその系譜に属するコンピューター解析者が論理的な根拠を示せと言われても、彼らは何を言われているのか(なぜ論理的根拠が必要なのか)さっぱりわからないでしょうね。彼らにとって必要なのは論理ではなくて、有効な手段なのだろうと思います。 もし、論理的根拠が必要だと言うことになったら、彼らの学問的基盤を再構築しなければならないことになります。再構築が必要なのは、それまでのやり方が通用しなくなった時です。そのような機会は来ないと思います。理論面ではなく応用面のことですから、いかようにも修正が効きます。再構築は、大きなパラダイムチェンジの過程においてしかなされないと思います。 Nakayさんとはこの問題に関しては大きな違いがありますが、それはそれで構わないと思います。ネイティブによく言われました。論理がすべてではないと。恐らく、私が理論面と存在論的な面を重視しすぎるのだろうと思います。 ●<個人的観点からひと言:「最初に否定的な命題を掲げて、続きでそれを緩和する」筆法は誤解を生みやすいかも知れません。なぜなら、「最初に命題を掲げ、続いてそれを補強したり傍証を添えたりする」のが自然な流れと感じられるからです(そういう流れ図が頭に焼き付いているからかも知れません)。いきなり、「意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません。」というような言い切り型の文言を目にすると、それが否定されない限り、単独に断言されたものとして網膜に残ります。> -前回の返信でも触れましたが、いきなり、「意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません」というような言い切り型の文言にしたつもりはありません。おそらく誤解されているように思います。前前回の返信でこう記しました。 <古くからある考えでは、語の意味は言語使用者から客観的な実体として独立しているとするものです。でも、その場合、語の意味を言語使用者から切り離して客体化してとらえることになるので、意味を正しくとらえることができません。意味をとらえようとすると、あるいは定義を行おうとすると、その正しさが問題にされる時に説明不可能です。説明しようとすると論理循環または無限遡及が起きます。この問題を解消しようとすれば、言語使用者が語に対して主体的な関わりを持ち、意味づけを行っていると考えるしかありません。--認知文法によれば語の意味は概念ではなく概念化です。すなわち言語主体による意味づけという面がクローズアップされてくるわけです。こうなると、もはや意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません> -これでおわかりと思いますが、「意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません」はいきなり出した言い切り型の文言ではありません。 前回も言いましたが、意味素性分析は実際的な言語事象の研究・調査・新知識獲得といった場面では有効だと思います。そもそも客体的な調査対象として言葉の意味の考察を進めることが前提になっているわけですから。ただ、素性の設定に際しては巧妙かつ慎重に行うことが要求させると思います。定冠詞に関しては素性はもっと多くてもよいと考えます。 実は、私の場合同級生に生成文法の研究者もいますし、認知文法の研究者もいます。そのどちらでもない単なる語法研究者もいます。それぞれ立場が異なります。私はその3者とも異なる立場を取っています。だからといってそのことを問題視することはありません。考え方の異なる人が集まって面白いものやより豊かなものを生み出す可能性もあります。 今回は定冠詞の考え方においてNakayさんとの間に決定的な違いがあることがわかりましたが、それはそれでいいのではないかと思います。 <They are teachers / the teachers of our school. >について、又もや自説を開陳しましたが、そうした考えもあるというふうに受け止めて下さい。流し読みしてくだされば結構です。 Nakayさんの返信を待って閉じさせて頂きます。 今回もありがとうございました。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10068/12612)
質問者からの補足を拝見しました。 @「聞き手の文法」と「発話者の文法」とを区別することにどのような意味があるのでしょうか。/(それらは)表裏一体のものだと思います。定冠詞使用に際しての主導権はもちろん話者にありますが、コミュニケーションの原理に立てば、定冠詞の使用は発話者と聞き手の共同作業によるものだと思います。 ⇒突然反発して恐縮ですが、共同作業が即一体とはならないでしょう。現実問題、発話者の文法はパロール・個人語寄りで、syntagmを重視し、斬新的表現に富む傾向がある一方、聞き手の文法はラング・標準語寄りで、paradigmを重視し、変化や逸脱表現を忌避する傾向があって、しばしば行き違いが起こり得ます。かつて、些細な表現の解釈をめぐって国際的な対立騒動が起こったこともありました。古くは、solipsismの悲観的な所説もありましたが、そこまでこだわらないとしても、コミュニケーションの原理に立てばこそ、入力側と出力側で文法や解釈上の規則に関して齟齬や軋轢の類が生じる可能性のあり得ることは、念頭に留めて置くに如くはないと思います。 @<指示範囲について定冠詞が全体、不定冠詞が部分を表し>についてですが、<指示範囲について不定冠詞が部分を表す>ことは不定冠詞の成り立ちから論理的に導くことができます。でも、<指示範囲について定冠詞が全体を表す>ことは定冠詞の成り立ちから論理的に導くことはできません。もし、I bought a book at the store, but the book was uninteresting. におけるthe bookの有り様を全体というのであれば、確かにお説が成り立ちます(おそらく要素が一つしかない集合のすべてということだと思います)が、ただ一つのものを全体という言い方でもって表現することに、日本語の使い方として若干の違和感を覚えます。 ⇒またも逆らうようですみませんが、定冠詞は全体を表す「ことがある」と言っているだけです。ただ一つのものだけを全体と言うわけではありません。例えば、They are teachers of our school. が先生の一部を表すのに対し、They are the teachers of our school. が先生全員を表すという場合も含めてのことです。 @Russellの唯一説においては単数可算名詞だけが該当することをHawkinsが指摘しました。たしかに、Russellは存命中に他に不可解な見解を披瀝することもありましたが、定冠詞の特性を単数可算名詞だけにあてはめて、物質名詞・抽象名詞・複数可算名詞の場合を放念したとはまさか考えにくいことです。もしかしたら、彼は唯一性ということを定冠詞を使った定名詞句全体に当てはまるものとして説を唱えたのではないかという気がします。だとしたら、Russellの欠陥をついたと思ったのはHawkinsの勇み足ということになります。/the+名詞が指し示す範囲は全体であるとするHawkins説は、何らかの前提から導かれたものではなく、論理上の要請によるものでしかありません。その場合、その仮定がthe+名詞のすべてのありようにおいて成り立つのであれば問題ありませんが、語用論的にしか成り立たないし、成り立つケースも多くないとすれば、その説の信憑性に疑問符がつくのではないかと思います。 ⇒正直、私は(上記所説の)冠詞をめぐる語用論はよく存じません。ただ単純に、定冠詞は、ひとことで言えば限定を表すが、その特異点として「そのものの全体を限定する」ことがあるので、それを称して「定冠詞は全体を表すことがある」と言える、と考えています。 @<指示範囲について定冠詞が全体、不定冠詞が部分を表し、指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表す>に関して言えば、全体+ではなく全体±だということです。また、限定+ではなく限定±です。なぜなら、I bought a book at the store. The book was uninteresting. におけるthe bookと、The Browns go to the sea for vacation in the summer. におけるthe seaは限定と言うより間接的な指示と言った方がふさわしいものだからです。限定という言い方が成り立つのは、話題に出ていない名詞に形容詞(句・節)や同格句(節)が付与される時くらいなものだと思いますが、指示方法全体のうちのどのくらいの割合を占めるのかは不明です。だとすると、<指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表す>において、限定ではなく、限定又は間接指示とすべきだと思います。Chestermanは意味素性としてlocatabilityを追加しています。同定可能ということです。これなら不定冠詞の場合の任意という言い方と対照的に使えそうな気がします。 ⇒なるほど、お説のご趣旨、十分納得がいきます。 @私が議論の対象としたかったのは、そもそもこのような意味素性分析に意味があるのかということです。Nakayさんのおっしゃる「現在の共時態」の解析も同じものだと思いますが。ここで語が持つと考えられている意味がどのようなあり方をしているのか考えてみます。古くからある考えでは、語の意味は言語使用者から客観的な実体として独立しているとするものです。でも、その場合、語の意味を言語使用者から切り離して客体化してとらえることになるので、意味を正しくとらえることができません。意味をとらえようとすると、あるいは定義を行おうとすると、その正しさが問題にされる時に説明不可能です。説明しようとすると論理循環または無限遡及が起きます。この問題を解消しようとすれば、言語使用者が語に対して主体的な関わりを持ち、意味づけを行っていると考えるしかありません。これまで何度も紹介した現象学の考え方です。この考え方を引き継いだのが認知文法・認知言語学です。認知文法によれば語の意味は概念ではなく概念化です。すなわち言語主体による意味づけという面がクローズアップされてくるわけです。 ⇒意味素性分析に意味がないとは思いませんが、後半のお説は了解です。「論理循環または無限遡及」は、その昔(英語ではありませんが)ある辞書作りに携わった折、大いに問題となって、ずいぶん議論を交わした記憶があります。(後者に相当することは「無限後退」と呼んでいました。) @意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません。実際、認知文法・認知言語学には意味素性といった発想はありません。主体から独立した意味などあり得ないからです。現在の言語学研究者は多かれ少なかれ認知文法・認知言語学の影響を受けていますから、素性分析が関心の対象から外れてきているのではないかと思います。定冠詞の特性についての議論(指示範囲が全体か唯一か)にしても無視されているのかなという気がします。⇒語の最終的な意味は発話にかかって初めて確定されるものですね。一方、意味素性分析は、当事者(主体)が、語とその意味を選択して発話表現に織り込む際の母体となるもの、つまり、語彙的パラダイムの可能態の研究であると同時に、それと、主体による意味確定との関係の研究でもありますよね。「何の意味も持たない」とは考え難いです。 @今後、認知文法・言語学を含む多くの研究者が意味素性分析にますます関心を示さなくなると思われますが、実践的な指導に当たる人たちの中にはその方法を続ける人もいると思います。それと、生成文法のように、他に主たる分析手段を持たない研究者は素性分析を放棄するわけにはいかないと思われます。ちなみにChestermanは比較言語が専門でしたから素性分析は必携の道具だったはずです。 ⇒私は、素性分析の手法も認知文法・認知言語学の方法論も必要だと考えています。それは、くだんの研究対象に肉薄するための、異なる切り口だと考えるからです。あたかも、心理学における行動分析学と脳神経学、認識論における経験論と観念論、語法論におけるラング・標準語の考察とパロール・個人語の調査など…のように、互に競い合い、批評し合い、対立し合いながらも、補い合い、協力し合う「相棒」のような関係ではないかと考える次第です。 @Nakayさんの御説が実践的配慮に基づくものであるなら、私としては否定することも修正することも行いません。/いくつか疑問点を提示しましたが、学習者に対する実際的な観点からすれば、そのような疑問点も取り立てて提起するようなことではなさそうに思えてきました。よって、特に回答が必要だとも思えません。後はお任せします。 ⇒巨視的に見ればお互いの主張が大きく対立することはないと思います。ただ、関心・重点の置き方が若干異なると言えるかも知れません。feedersさんは新しい語用論に、私は言語の体系論(的把握)などに関心の的があるように感じました。ですから、feedersさんのお尋ねに十分答えられないくせにしゃしゃり出たことを申し訳なく思います。とはいえ、いつものように情報交換そのものは大いに楽しませていただきました。お礼申しあげます。
お礼
ありがとうございました
補足
再度の回答ありがとうございました。 ●<突然反発して恐縮ですが、共同作業が即一体とはならないでしょう。現実問題、発話者の文法はパロール・個人語寄りで、syntagmを重視し、斬新的表現に富む傾向がある一方、聞き手の文法はラング・標準語寄りで、paradigmを重視し、変化や逸脱表現を忌避する傾向があって、しばしば行き違いが起こり得ます。かつて、些細な表現の解釈をめぐって国際的な対立騒動が起こったこともありました。-コミュニケーションの原理に立てばこそ、入力側と出力側で文法や解釈上の規則に関して齟齬や軋轢の類が生じる可能性のあり得ることは、念頭に留めて置くに如くはないと思います> -<共同作業が即一体とはならない>と言える場面があることはもちろん承知しています。私としては原則論的なことを言おうとしたにすぎません。現実の言語使用場面においては共同作業などしたくない人もいるでしょうし、自分のやってることを共同作業だと思わない人もいることでしょう。<しばしば行き違いが起こり得ます>ということですが当然だと思います。 例えば、(聞き手が当然了解しているはずだと思って)話し手がthe bookを使ったのに、たまたま聞き手が了解していなかったということもありえます。その場合、聞き手がWhich one?と聞き返すことでしょう。聞き手が知ってるはずだと、話し手が勝手に思いこんでtheを使うこともあり得ます。それどころか、聞き手が知らないとわかっていながら、話し手がtheを使うこともあり得ます。 例えば、どこかの国で、冤罪を仕立て上げようとする警察が被疑者に対して、身に覚えのない殺人事件のことでこう言うかもしれません。Admit you're guilty of the murder. ここでは共同作業が行われていないかに見えます。被疑者にしてみればthe murderではなく、an unknown murder caseですから。でも、やはり共同作業は行われます。この後、例えば拷問などによって、被疑者はthe murder case he might have committedについて自白させられるかもしれません。自発的な意志によらなくても強制によっても共同作業は成立します。行き違いも共同作業の結果です。 私が言う共同作業はコミュニケーションを成立させる基盤という意味で使っています。でも、舌足らずだったようにも思います。共同行為の方がよかったかも知れません。 というわけで、Nakayさんの見解と私の見解は矛盾し合うものではないと考えます。 <現実問題、発話者の文法はパロール・個人語寄りで、syntagmを重視し、斬新的表現に富む傾向がある一方、聞き手の文法はラング・標準語寄りで、paradigmを重視し、変化や逸脱表現を忌避する傾向があって>とのことですが、その通りだと思います。 「聞き手の文法」と「発話者の文法」を一体のものだとしたのはコミュニケーションの成立のための基盤について考えたためです。内包的な部分について言おうとしたわけです。現実の外延的な事象で一体化が見えにくくなるのは当然のことだと思います。 <些細な表現の解釈をめぐって国際的な対立騒動>というのは、6日間戦争の後、占領地域からのイスラエルの撤退を決議した時の文面のことだろうと思います。英語ではterritoriesなのにフランス語では定冠詞がついていたのでしたね。有名な話ですから存じております。 ● <例えばThey are teachers of our school. が先生の一部を表すのに対し、They are the teachers of our school. が先生全員を表すという場合も含めてのことです> -とのことですがコメントさせて頂きます。 P: Yesterday one of teachers of the school came here. He' s Mr. Nakamura. Q: Yesterday one of the teachers of the school came here. He' s Mr. Nakamura. Pにおいてone of teachers は教員全体のうちの一人を表していますが、teachersにtheはついていません。ある大きな集団のうちの部分を表す時は、大きな集団の方は全体を含意しているはずです。ところがtheがついていません。 Qにおいてはthe teachers はその学校の教員全体を表しているわけではありません。もしそうならPと同じ文でよいはずです。ということは、特定の教員集団のうちの一人を表していると考えるしかありません。the teachersはその学校の教員の全体かも知れないし、部分かも知れません。 一般に、より大きなもののうちのより小さなものを表す時、その小さなものが明確なもの(具体的な数字)である場合は、より大きなものは必ずしも数量的に確定したものである必要はありません。ですから、Pにおいてteachersにtheは不要です。 oneでなくてmostやsomeだとthe teachers になります。より大きなものの中の不明確なより小さな部分を明確に表すには、より大きなものがあらかじめ(数量的に)確定したものでなければならないからです。 ●<ただ単純に、定冠詞は、ひとことで言えば限定を表すが、その特異点として「そのものの全体を限定する」ことがあるので、それを称して「定冠詞は全体を表すことがある」と言える、と考えています> -文脈次第でという但し書きつきであればもちろん了解できます。 ●<語の最終的な意味は発話にかかって初めて確定されるものですね。一方、意味素性分析は、当事者(主体)が語とその意味を選択して発話表現に織り込む際の母体となるもの、つまり語彙的パラダイムの可能態の研究であると同時に、それと、主体による意味確定との関係の研究でもありますよね。「何の意味も持たない」とは考え難いです> -「何の意味も持たない」という発言がなされた前後の文脈はこうです。 <すなわち言語主体による意味づけという面がクローズアップされてくるわけです。こうなると、もはや意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません。> <意味づけという面がクローズアップされてくると意味素性分析は何の意味も持たない>と発言しました。逆に言えば、もっと後で行われる議論におけるように、実際的な指導、あるいは学習活動においては意味を認めています。 <意味素性分析は、当事者(主体)が、語とその意味を選択して発話表現に織り込む際の母体となるもの、つまり語彙的パラダイムの可能態の研究であると同時に、それと主体による意味確定との関係の研究でもあります>とのことですが全くその通りだと考えます。 私が指摘したのは、主体による意味確定という出来事において、意味と主体の分離が前提とされているために正しい判定が原理的には不可能だということです。ですから、この事態を現象学的な観点から改善した方がよいのではないかと言ってるわけです。もちろん実際的な観点からはそれほど正確な判定が行われる必要がないので、特に問題にならないだろうと言いました。そういう手法が必要だと思う人はやればよいと思います。 なお、無限後退という言い方ですが、昔はその言葉を使っていました。そのうち無限背進に変え、今は無限遡及にしています。後退や背進だと論理が自立的に働くみたいなイメージがあるので遡及に変えました。要するに、演繹的な推論に根拠はない、ある命題と別の命題間に限った推論は有効でも、推論の最終的な正しさをうんぬんすることはできないというふうに理解しています。でも、現実の学問的状況において、厳密な正確さが要求される場面はそれほどないと思われるので問題はないと考えます。 ●<私は素性分析の手法も認知文法・認知言語学の方法論も必要だと考えています。それはくだんの研究対象に肉薄するための、異なる切り口だと考えるからです。あたかも心理学における行動分析学と脳神経学、認識論における経験論と観念論、語法論におけるラング・標準語の考察とパロール・個人語の調査などのように、互に競い合い批評し合い対立し合いながらも、補い合い協力し合う「相棒」のような関係ではないかと考える次第です> -全く同感です。現実の学問的状況を見るとそうとしか言えないと思います。認知文法の方法にしたって、このようなものが方法なのかと思うことがあります。実は、メタファーの研究くらいしか私には評価できるものはありません。その哲学的(存在論的)基盤についても疑問を持っています(この件はこれまでにもお話ししました)。 実際的な観点から言うと、今必要とされることは現場指導のための方法論だと思います。素性分析の手法も認知文法の方法も、それらが現場指導を改善したという話を聞いたことがありません。両者共に、こうした面での努力が必要だと思います。 ●<巨視的に見ればお互いの主張が大きく対立することはないと思います。ただ関心・重点の置き方が若干異なると言えるかも知れません。feedersさんは新しい語用論に、私は言語の体系論(的把握)などに関心の的があるように感じました> -確かにそうですね。でも私としては一番重視したいのは存在論的観点です。 今回もありがとうございました。Nakayさんの返信を待ってスレッドを締めたいと思います。
- Nakay702
- ベストアンサー率79% (10068/12612)
以下のとおりお答えします。 @定冠詞の指示範囲についての議論はもともとRussellが始めたものです。彼は、定冠詞は唯一のものを指し示すと主張しましたが、その主張が有効なのは単数普通名詞においてのみでした。単数普通名詞のみならず物質名詞・抽象名詞・複数可算名詞に対しても成り立つ包括的な考えを提唱したのがHawkinsです。彼は、それらに付与された定冠詞の指示対象は、それらの語の総体であると主張しました。the waterやthe booksはその場で話題になったwaterのすべて(総量)を、及びbooksの総数を表すとするわけです。 ⇒Hawkinsですか。古いH. SweetやO. Jespersenくらいしか触れたことがないのに定冠詞の総体指示機能を知っていたのは、日本の文法書のおかげだったことに気づきました。 @A: Would you come to New York with me? No thank you. The people are unfriendly, and talk too fast for me. B: In autumn the leaves turn yellow and red. Aにおいて、the peopleがその国の人たち全員を表すとは思えません。また、Bにおいてもthe leavesが全部の葉々を意味することはありません。でも、the+複数名詞が実際に全体を表す場合があることも確かです。C: The water dried up. D: I gave back the CDs I borrowed from my friend. これらの文中ではthe+複数名詞が確かに全体を指しています。A, Bと違って、Cにおいてはupによって全体が含意されています。Dにおいては、借りたものを返す時は普通は全部返すものだという一般常識が働いていると思います。 ⇒そうですね。聞き手の立場から見る限り、「the peopleがその国の人たち全員を表すことも、the leavesが全部の葉々を意味することもない」のは実に確かですね。 @The book is on the table.においてthe bookは全体という意味を持ちません。I read the book, but it wasn't interesting.はその本を全部読み終えていなくても成り立ちますが、 E: I read the book through.は全部読み終えた時の発言です。この時、全体の意味が出ます。finish readingやhave readを使っても完了の意味が出て本全体を表します。このように、あることが完了する、といった文脈が全体性と関わっているように思います。状況・文脈と無関係に、もともと分離不可能なものとして作られている名詞句もあります。F: The United States was against the proposal.において、The United States はアメリカの各州の結束力の強さを前提とした表現です。空間的な認知において分離不可能あるいは結束性ということが全体性と関わっているように思います。結局、C, D, E, Fの例から推定できることですが、the+名詞が何かの全体を表すのは、文脈の要請によってそのものの部分を全体から空間的・時間的に切り離して扱うことが困難な場合だと言えそうです。だとすれば全体を表すことをもって定冠詞の働きであるとするのは無理があるように思います。 ⇒定冠詞は「全体を表す」というより、「全体を表すこともある」というべきですかね。 @Aのthe peopleは話者がNew Yorkで出会った人たちです。状況による限定があります。Bのthe leavesは秋の風物としての葉々です。ここでも状況による限定があります。Cのthe waterはすでに話題に出ているはずです。Dのthe CDs の場合は、既に話題に出ているか、そうでないとすれば関係詞節によって限定されているからです。後者の可能性の方が大きいと思います。Eのthe bookはすでに話題に出ているはずです。Fは固有名詞だからそうした存在が言語共同体によって承認されているという説明が可能ですが、別の説明も可能です。The United Statesはアメリカ国籍所持者という特定の属性を共有する集団です。このことが定冠詞の使用を要請するものと考えます。 ⇒お説は、大いに納得できますが、少し別の観点を加えることもできそうですね。「聞き手の文法(解釈)」と「発話者の文法(発話手順)」に違いがあって、我々は当然ながら前者に沿って考えてきたわけですが、ここで、例えばAとBについて後者の立場から考えてみましょう。まず、theなどによってある種の限定をつける:「ニューヨークの人たち、秋の葉」。次に名詞の種類(普通名詞かそれ以外か)および数(単数か複数か)などを表示することによってsyntacticな意味が確定される:「ニューヨークの人で複数(全体とは限らない)」、「秋の葉・複数(同じく全体ではない)」。ということで、発話者はある種の限定や数を示した、すなわち、1人・1枚ではなくそれぞれが数人・数枚と指定しただけで、「全てのニューヨーカー」とか「すべての葉」のように全体を指す意図など、最初からなかった、ということが分かりますね。 @theがつく理由が定冠詞の本来の機能から説明されるのでなく、全体を表すからだという言い方が成立するのであれば、全体を表すものには必ずtheがつきますよ、という約束事が言語共同体によって共有されていなければなりません。そのような約束事は存在しません。全体だからtheがつくとは言えないことになります。ここで、全体を表す名詞句には必ず定冠詞がつくのかという問題をさらに考えてみます。G: Yesterday one / 5 of teachers of the school came here. He' s Mr. Nakamura. 文中のone of teachers は教員全体のうちの1/5人を表していますが、teachersにtheはついていません。ある大きな集団のうちの部分を表す時は、大きな集団の方は全体を含意しているのにtheがついていません。このことからもわかるように、全体を表す名詞句に必ずしも定冠詞がつくとは言えません。 ⇒一部既述のとおり、定冠詞は全体を表す「こともある」、または、全体を暗示する語句や形式と「共起し、同期することもある」というのが実態ですね。 @H: The dinosaurs died out long ago.においては、確かに全体を表していますが、died out という語句から全体の意味が出たと思われます。先ほどのThe United Statesと同じく、文脈から集合的な意味合いが出ているように思います。I: Hey, the dinosaurs are rushing towards us. Let's run away. においては眼や耳で確認できる特定の恐竜集団を指しています。集合的な意味合いが出ていないと思います。J: The dinosaur is a large reptile that lived in prehistoric times. においては、恐竜という種族全体に及ぶ属性が示されていますが、これは定義を表す一般的な文だからです。総称表現においても、定冠詞は文脈次第で全体を表すとしか言えないと思います。そもそも、定冠詞が使われる原理は<聞き手がこれだと同定できるはずだと話し手が考える時にtheを使う>です。Jにおいて、聞き手はこの文が恐竜という種族を表していると考え、種族は一つしかいないから、あるいはThe dinosaur が種族の代表を表すから定冠詞がつくと判断するのではないでしょうか。聞き手がJの文を聞いた時、思い浮かべるのは種族の代表であって種族の全体ではないと思います。is a large reptile と単数形が使われているわけだから単数のものを想起するのが自然だと思います。定冠詞の指示範囲についてのHawkins説は成立しないと思います。だとすれば、Russellの唯一説をそれら3つの名詞に適用するやり方を考えつけばよいことになります。すなわち、物質名詞又は抽象名詞にtheがつくとき、指し示されるものは話し手と聞き手の共有知識内の唯一の物質又は抽象観念である、あるいは共有知識内で話題になった物質又は抽象観念の特定の唯一的な部分だと言えばよいはずです。以上、定冠詞が全体をも示すという考えに反証めいたものをあげました。 ⇒原初的構造原理を考えれば、あるいは、定冠詞と不定冠詞が出現してその機能分担が明確に定義付けられ、定着する以前の語法を分析すれば、そのような解釈に収斂させることはできるかも知れません。しかし、今は状況が違います。現代語法は、これまでの歴史の後追いをしつつ、「現在の共時態」の解析をすることになりますね。つまり、指示範囲について定冠詞が全体、不定冠詞が部分を表し、指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表すという構図です。このような役割分担があって一体系を成しており、他の語との共起関係によってそれぞれの働きが強められたり弱められたりする、というところが実態でしょう。総括として言えることは、聞き手の文法と発話者の文法、定冠詞と不定冠詞の機能分担、構文上の環境による相互影響関係などを考慮するという複眼的な見方が求められる、と集
お礼
続きです。 それがなぜなのかを考えてみましたが、その前に指摘しておくべきことをまとめておきます。 <指示範囲について定冠詞が全体、不定冠詞が部分を表し、指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表す>に関して言えば、全体+ではなく全体±だということです。また、限定+ではなく限定±です。なぜなら、I bought a book at the store. The book was uninteresting. におけるthe bookと、The Browns go to the sea for vacation in the summer. におけるthe seaは限定と言うより間接的な指示と言った方がふさわしいものだからです。 限定という言い方が成り立つのは、話題に出ていない名詞に形容詞(句・節)や同格句(節)が付与される時くらいなものだと思いますが、指示方法全体のうちのどのくらいの割合を占めるのかは不明です。 だとすると、<指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表す>において、限定ではなく、限定又は間接指示とすべきだと思います。Chestermanは意味素性としてlocatabilityを追加しています。同定可能ということです。これなら不定冠詞の場合の任意という言い方と対照的に使えそうな気がします。 ●実は、私が議論の対象としたかったのは、そもそもこのような意味素性分析に意味があるのかということです。Nakayさんのおっしゃる「現在の共時態」の解析も同じものだと思いますが。ここで語が持つと考えられている意味がどのようなあり方をしているのか考えてみます。古くからある考えでは、語の意味は言語使用者から客観的な実体として独立しているとするものです。でも、その場合、語の意味を言語使用者から切り離して客体化してとらえることになるので、意味を正しくとらえることができません。意味をとらえようとすると、あるいは定義を行おうとすると、その正しさが問題にされる時に説明不可能です。説明しようとすると論理循環または無限遡及が起きます。 この問題を解消しようとすれば、言語使用者が語に対して主体的な関わりを持ち、意味づけを行っていると考えるしかありません。これまで何度も紹介した現象学の考え方です。この考え方を引き継いだのが認知文法・認知言語学です。認知文法によれば語の意味は概念ではなく概念化です。すなわち言語主体による意味づけという面がクローズアップされてくるわけです。 こうなると、もはや意味素性分析は何の意味も持たない飾りでしかありません。実際、認知文法・認知言語学には意味素性といった発想はありません。主体から独立した意味などあり得ないからです。現在の言語学研究者は多かれ少なかれ認知文法・認知言語学の影響を受けていますから、素性分析が関心の対象から外れてきているのではないかと思います。定冠詞の特性についての議論(指示範囲が全体か唯一か)にしても無視されているのかなという気がします。 実際、大学などで定冠詞の説明を行う時、<話し手がある物・事・人についての情報を聞き手に伝える時、それを聞き手が了解しているはずだと話し手が判断した時、これから提示する情報がそのようなものであることを聞き手に伝えなければならない。それがコミュニケーションにおける原則だから。そして、そのことを聞き手に伝えるためのしるし・合図として定冠詞を使う> と言ってしまえば十分いこと足りているように思います。というわけで、実践的な観点からも意味素性という考え方は、こと冠詞に関しては大して意味のないものになっているように思います。 上の説明においては、指示方法と指示範囲についての個別の説明がありません。この2つはそもそも分離不可能なものだと思います。それを無理矢理分離して分析手段として使おうとすると、かえって実相が見えなくなるのではないかと思います。限定したり、間接的に指示したりすることによって指示範囲が確定されるわけですから、両者は不可分のものです。 では、意味素性という観点が全く意味のないものかということですが、この問題は先ほども言ったように意味が言語主体から独立したものであるとする考えにどう対処するかという問題でもあります。例えば、学校現場で、ある言葉の意味を問われた時、私なら主体による意味づけとか概念化などどという言葉を使いません。そんなものは生徒にはちんぷんかんぷんでしょうし、基本からわからせようとすれば、別個に哲学の授業を数時間分用意しなければなりません。その授業についてくる高校生はいないでしょう。よって、私ならその言葉の意味は辞書で調べろと指示することになります。これが現実です。ニュートン物理学が原理的に問題を抱えているからと言っても、所詮、この地上ではニュートン物理学に頼らなければ生死に関わることにさえなります。 だったら、実際的な指導という観点からは意味素性分析もありかなと思います。そもそも意味素性という発想は、個別の性質を多く集めるとそのももの本質に近づくという古めかしい発想をもとにしたものですが、本質に近づくかどうかの保証はありませんし。性質要素に分断することによってかえって本質を見えにくくする可能性もあるわけですが、有効に使える局面もあると思います。例えば、語の識別に際しては威力を発揮するのではないかと思います。また、知識を概念化しやすいといったメリットもあると思います。 学校(大学)現場での指導という実際的な局面を想定すると、意味素性を活用は方法的な問題があっても学習者にとって有意義なものかも知れません。意味素性のメニューが多いほど豊かな理解につながるかも知れません。ただし、それが正しいやり方であるとか真理に近づく方法であるといった放言は慎むべきだと思うし、使用する素性の選択にも注意を払わなければならないことは言うまでもないことです。 今後、認知文法・言語学を含む多くの研究者が意味素性分析にますます関心を示さなくなると思われますが、実践的な指導に当たる人たちの中にはその方法を続ける人もいると思います。それと、生成文法のように、他に主たる分析手段を持たない研究者は素性分析を放棄するわけにはいかないと思われます。ちなみにChestermanは比較言語が専門でしたから素性分析は必携の道具だったはずです。 ●さて、滔々と持論を展開してきましたが、結論として言えることですが、Nakayさんの御説が実践的配慮に基づくものであるなら、私としては否定することも修正することも行いません。その場合に問われるのはそのやり方が実際的な観点から有効であるかであって、論理的な厳密さではないはずです。もちろん、そうしたやり方が有効であるかは実践の結果わかることです。その上で、調整してゆけばよいのではないかと思います。 というわけで、Nakayさんのお考えは尊重したいということです。いくつか疑問点を提示しましたが、学習者に対する実際的な観点からすれば、そのような疑問点も取り立てて提起するようなことではなさそうに思えてきました。よって、特に回答が必要だとも思えません。後はお任せします。 もし、わたしが意味素性分析を重視する立場にあって、しかも実践的な指導を志す者であれば、Nakayさんと論争を続けることになるでしょうが、そうではありません。よって、これ以上の論争は必要なさそうに思います。 一方、私の考えも取り立てて間違っているとも思えませんし、(もし、誤りだと思える点があれば遠慮なくご指摘下さい)これまで通り、素性分析には関心を持たず、次のように言うだけで十分だと思います。<話し手がある物・事・人についての情報を聞き手に伝える時、それを聞き手が了解しているはずだと話し手が判断した時、これから提示する情報がそのようなものであることを聞き手に伝えなければならない。それがコミュニケーションにおける原則だから。そして、そのことを聞き手に伝えるためのしるし・合図として定冠詞を使う>---高校生にはこれで十分でした。 長くなりました。Nakayさんの返信を待ってスレッドを閉じたいと思います。今回もありがとうございました。
補足
回答ありがとうございました。 回答文の最後が切れていました。 <相互影響関係などを考慮するという複眼的な見方が求められる、と集>となっていましたが、恐らく、<と集訳される>と続くものと解釈させて頂きます。 ●<お説は、大いに納得できますが、少し別の観点を加えることもできそうですね。「聞き手の文法(解釈)」と「発話者の文法(発話手順)」に違いがあって、我々は当然ながら前者に沿って考えてきたわけですが、ここで、例えばAとBについて後者の立場から考えてみましょう。> -「聞き手の文法(解釈)」と「発話者の文法(発話手順)」とを区別することにどのような意味があるのでしょうか。両者は一体化したものだと思います。 話し手がある物・事・人についての情報を聞き手に伝える時、それを聞き手が了解しているはずだと話し手が判断した時、これから提示する情報がそのようなものであることを聞き手に伝えなければなりません。それがコミュニケーションにおける原則だからです。そして、そのことを聞き手に伝えるためのしるし・合図として定冠詞を使うのだと思います。-これが、指示詞から分化・独立してコミュニケーションのための道具として歩みを始めた定冠詞の有り様だったと考えます。ですから、「聞き手の文法(解釈)」と「発話者の文法(発話手順)」は表裏一体のものだと思います。定冠詞使用に際しての主導権はもちろん話者にありますが、コミュニケーションの原理に立てば、定冠詞の使用は発話者と聞き手の共同作業によるものだと思います。 ●<しかし、今は状況が違います。現代語法は、これまでの歴史の後追いをしつつ、「現在の共時態」の解析をすることになりますね。つまり、指示範囲について定冠詞が全体、不定冠詞が部分を表し、指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表すという構図です。このような役割分担があって一体系を成しており、他の語との共起関係によってそれぞれの働きが強められたり弱められたりする、というところが実態でしょう。> -<指示方法に関しては定冠詞が限定を、不定冠詞が任意を表す>ということは、定冠詞と不定冠詞の成り立ちの経緯から論理的に導くことのできるので問題はないと考えます。ところが、<指示範囲について定冠詞が全体、不定冠詞が部分を表し>についてですが、<指示範囲について不定冠詞が部分を表す>ことは不定冠詞の成り立ちから論理的に導くことができます。でも、<指示範囲について定冠詞が全体を表す>ことは定冠詞の成り立ちから論理的に導くことはできません。 もし、I bought a book at the store, but the book was uninteresting. におけるthe bookの有り様を全体というのであれば、確かにお説が成り立ちます(おそらく要素が一つしかない集合のすべてということだと思います)が、ただ一つのものを全体という言い方でもって表現することに、日本語の使い方として若干の違和感を覚えます。これが一つ目の疑問点です。<指示範囲については定冠詞が唯一のものを表す>というのであれば納得できます。または、<指示範囲については定冠詞が全体を表すこともある>でも納得です。 ところで、<指示範囲について定冠詞が全体を表す>ことは論理的に導かれたのではないとしたら、このことをどう考えればいいのでしょうか。定冠詞が全体を表すそうした事例を集めてそこから帰納的に仮説を立てたとしか考えられません。(もし、そうでなければ、いきなり<指示範囲について定冠詞が全体を表す>と宣言することは形而上学的な手法です。必ず、存在論的な裏付けが必要です) この仮説が正式な理論として提示されるためには、あらかじめ正しいものとして実証されていなければなりません。 この仮説は言うまでもないことですが、論理的に検証されることはありません。そのような企ては必ず無限遡及に陥ります。だとすると、仮説が実際の言語的状況において実証されるしかありません。もちろん、すべての事例において実証することは不可能ですが、できるだけ多くの実証例を獲得しなければなりません。 仮説が成立しないことを示す事例があっても、その仮説を放棄する必要はありません。なぜなら、言語的な事象は(パロールにおいては特に)すべてが論理的に整合するとは限らないし、その必要もありません。要は、大体において仮説が成り立てばよいのであって、その点で科学と同じ意味合いを持ちます(科学理論をすべて放棄するわけにはいきませんから)。もちろん、補助仮説の設定も(度を過ぎたものにならなければ)有効です。 ただ、仮説が成立しないことを示す事例より仮説が成立することを示す事例の方が圧倒的に多数でなければならないはずです。要するに、「~という事象が起こりやすい」という確率・統計的判断が行われればいいわけですから。不確実であっても実際的な指針になるのであれば妥当とすべきだと思います。 今、言ったようなことはNakayさんも当然ご存じのはずと思いますが、僭越ながら、私自身の思考の整理がてらに以上のようなことを書き連ねました。 <指示範囲について定冠詞が全体を表す>ことが論理的に導かれたのではないのであれば、意味論的に仮説を満たす事例は見つからないと思われます。有効な事例として発見されるのは、語用論的に仮説を満たす事例だけだと思われます。実際、私の分析が正しければそういう結果が出るはずです。仮説を満たす事例が語用論的なものだけであっても仮説の妥当性は保証されるのかというのが新たな疑問点ですが問題ないような気もします。 さらに言うと、the noun(s)の全集合のうち、「全体」を表す事例の割合がどの程度かという問題があります。大体において仮説が成り立てばよいのだとすれば、その割合は相当多くなければならないと思います。定冠詞名詞句が全体を表す事例は常識的に考えてみても、その割合がそれほど高いとは思えません。それでも統計学的にみて仮説として有効なのかというのがさらなる疑問点です。 先ほど、<指示範囲について定冠詞が唯一のものを表す>という仮説を提示しましたが、この仮説はすべてのthe noun(s)について言えることです。そのことは、投稿文で示しました。ということは、<指示範囲について定冠詞が全体を表す>という仮説より整合性があることになります。 元はと言えば、ラッセルの説(指示範囲については定冠詞が唯一のものを表す)から始まった議論です。HawkinsはRussellの説が有効なのは単数普通名詞においてのみだと判断しました。 そして、単数普通名詞のみならず物質名詞・抽象名詞・複数可算名詞に対しても成り立つ包括的な考えを提唱しました。その後、彼の考えをさらに発展させた学者(Chesterman)も現れましたが、基本的な考えはほとんど変わりません。 恐らく日本の冠詞の研究書に<指示範囲について定冠詞が全体を表す>という記述が出るようになったのはこの頃だったと思います。その後、<指示範囲について定冠詞が全体を表す>という説に疑義が提出されました。その説が当てはまらない事例が多かったためと思われます。最近発見した論文(2001年発表)に、私と同じような考えを述べている研究者の考えが記載されていました。彼によれば、例えば、複数形の定名詞句の場合は、複数の対象からなる唯一のグループを指すことを意味する、とのことです。 この場合、<指示範囲については定冠詞が唯一性を示す>ということになります。これで一応整合します。この考えが正しいとすれば、ここからHawkins説(定冠詞全体指示説)を再検証すべきだということになります。Russellの唯一説においては単数可算名詞だけが該当することをHawkinsが指摘しました。たしかに、Russellは存命中に他に不可解な見解を披瀝することもありましたが、定冠詞の特性を単数可算名詞だけにあてはめて、物質名詞・抽象名詞・複数可算名詞の場合を放念したとはまさか考えにくいことです。もしかしたら、彼は唯一性ということを定冠詞を使った定名詞句全体に当てはまるものとして説を唱えたのではないかという気がします。だとしたら、Russellの欠陥をついたと思ったのはHawkinsの勇み足ということになります。ちなみに、Russellの死去はHawkins説発表より以前のことです。 the+名詞が指し示す範囲は全体であるとするHawkins説は、何らかの前提から導かれたものではなく、論理上の要請(Russell説の欠陥を補うため)によるものでしかありません。その場合、その仮定がthe+名詞のすべてのありようにおいて成り立つのであれば問題ありませんが、語用論的にしか成り立たないし、成り立つケースも多くないとすれば、その説の信憑性に疑問符がつくのではないかと思います。 ところが、ややこしいことに、上述の論文(2001)の発表者の弟子にあたる研究者は最近の著書(2012年刊行)の中で、複数形の定名詞句the Nsはその文脈においてNsにあてはまるすべてのものを表すと言っています。こうしたことから考えるに、この問題に関して研究者間で明確なコンセンサスが形成されていないようです。コンセンサスが形成されない理由として考えられるのは、この問題が定冠詞にまつわる主たる問題ではなく、周縁的な問題にすぎなくなっているのではないかと思われます。 これ以降をお礼に回します。
お礼
回答ありがとうございました。 ●<当のtheだけでなく、それと共起する他の環境条件と協働して、「相乗効果としてinclusiveness+になることがある」と考えればいいでしょうか。> -おそらくそういうことだろうと思います。あるいは、inclusivenessを素性として残すなら、もう少し素性を増やして、複数の素性の協働した働きを考えればいいのかも知れません。いずれにしても、定冠詞の素性選択は簡単ではないと思います。定冠詞のついた名詞句が生起する条件をずばり言い切るのは難しいのでしょうね。いまだに学説が一つにまとまらないようです。 ●またもや大失策をしでかしました。いつもは読み返してから投稿するのですが、今回、読み返しが投稿後になり、ミスを発見したのが投稿後になりました。 <私の考えでは、theを使う理由は、文脈的にそのものの部分を全体から空間的・時間的に切り離して扱うことが困難(魚であるような鯨は存在しない)だからということになります。 The whales can die out in the near future. を例文としておきます。> -においてですが、<文脈的にそのものの部分を全体から空間的・時間的に切り離して扱うことが困難(魚であるような鯨は存在しない)だから>というのは、the whalesが全体を表す理由であってtheがつく理由ではありません。では、theがつく理由はというと、the whalesが文中で使われても不自然でないような記述が先行文脈にあるはずだということです。例えば、ずばり鯨の話だったり、南氷洋の捕鯨の話とか、海洋食糧資源の話とか、哺乳動物のうち絶滅危惧種に指定されるものの話とか、そういったものだろうと思います。 以上です。失礼しました。今回もありがとうございました。