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定冠詞の全体を表すという説について
- 定冠詞は唯一のものを指し示す働きがあります。
- 数えられない名詞や複数名詞の場合には、全体を表すという言い方がされますが、それは文脈や状況によって決まるものであり、必ずしも全体を指すわけではありません。
- 定冠詞を用いた総称表現も、唯一のものを指し示すという解釈が合理的です。
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かねてお知らせをいただいた疑問点に関するご投稿を拝読しました。 ご指摘そのものは、局所的に見れば概ね妥当な内容とお見受けしますが、その局面だけに限定せず、もう少し広い視点から俯瞰すると、幾分異なる解釈像が浮かび上がってくる可能性があると思います。例えば、 >I gave back the CDs I borrowed from my friend. においてはたしかにthe CDsは全部を表します。 ⇒と、このように仰せですが、失礼ながら、この場合の定冠詞theは「全体」というよりはむしろ「友人から借りた(CD)」という「限定」を表しているように見えます。このような限定・特定の機能が優先していることによって、友人から借りたCDの全部を返すのか一部を返すのかといった区別などには言及しない、つまり「全体とか部分とかということには関知しない」表現だと思います。この前後の文も、「その水瓶に入っている(水)」・「ニューヨークの(人々)」という限定がかかる表現なので、大同小異これと類似の状況内容と感じられます。ひと言で言えば、「これらの文のtheは、限定(だけ)を表している」ということになると思います。 このことから、《ある構文におけるtheが「限定」を表すと確定される場合、パラダイムとしてのtheが可能性として持っていた幾つかの意味機能から1つが選択されたということで、同時にそれは、他の機能が排除された、ということも意味するのであことになる。いったん「限定」というに意味機能が確定したら、そのtheは、それ以外の、例えば、「全体」とか「部分」の区別などには関わらない。要するに、theが二重の意味機能を同時に満たすことはない。たまたま2つの意味が重なっても、それは単なる結果に過ぎない》と言えるわけで、これ錯覚を起こしやすい事柄なので、よく認識することが必要だと思います。 >結論として言うと、どこまでも<唯一のものを指し示す>という言い方で押し通せばよいのではないかと思います。 ⇒なるほど、上記の「友人から借りたCD」などでのtheの用例は、(下記〔表1〕の)限定系のうちの用法(2)に該当しますね。この〔表1〕で分かるとおり、theの機能としては「限定」が大部分を占めるので、この状況を見れば「唯一のものを指し示すという言い方で押し通す」ことが絶対不可能とは申しませんが、他方、用法が多様化した現代英語に鑑みれば、かなりの無理ないしこじつけが出てくることも懸念されます。 文法書によると、定冠詞theの用法は大ざっぱに分けて、(1)前に一度出た名詞を「その~」と繰り返す場合、(2)前後関係などからそれが何を指すかはっきりしている場合、(3)ただ1つしかないと考えられるもの、(4)形容詞の最上級や序数の前で、(5)同じ種類のものを代表して表す場合、(6)習慣的に定冠詞をつける固有名詞がある(海・川・山・公共施設、国家・民族など)、(7)後に続く句や節で特に限定されている場合、(8)the+形容詞等で複数名詞や抽象名詞の意味になる、(9)複数名詞の前について特定のものの全体を表す場合、(10)慣用句の中で用いられる場合、などに区分されます。―〔表1〕 これらのうち、(1)(2)(3)(4)(6)(7)は「限定」系で、(5)(9)は「全体」系、(8)(10)は特殊系ということになると思います。英語史上、定冠詞theは中世のころ指示詞から派生したとされるだけあって、限定系が多いのは道理、というところですね。とはいえ、定冠詞と不定冠詞とが一対になって相関し、用法が多様化し、体系化してきている現代、すべてを限定機能に集約できる状況でもなくなっている、ということもまた事実です。 >It is said the Americans are friendly people. において、the Americansが全体を表すか尋ねるとこれまた反応が割れました。all of the American people とmost of the American peopleとAmerican people in generalとがありました。the複数名詞が全体を表すという見解を、少なくともネイティブ達の全員が共有しているわけではないと感じました。 ⇒この英文は、上で見た表1の用法(6)の「限定」用法で、all of ~やmost of ~などの違いは個人的な印象の違いで、theの語法とはさほど深い関係はないと思います。このような文法論・意味論を考察する際、個人語すなわち、個人間のパロール的な誤差を無視せよなどとは言わないとしても、その前に、言語の社会慣習から見たラング的冠詞体系をしっかりおさえておく必要があるとは言えるでしょう。重視すべきは、むしろこの観点ではないでしょうか。 英語史上、定冠詞に遅れて不定冠詞が数詞から派生するに及んで、この両冠詞が組み合わさって作る「限定:非限定、全体:部分」という相対性や対照性の図式が成立するに至りました。その構造は、〔定冠詞対不定冠詞×指示範囲対指示方法〕を縦横に配置した表を描くと、枡が4つでき、その一つ一つに意味機能の中味が入る、という格好になっています。 ................................................................................................. 左上〔定冠詞×指示範囲〕:全体「~というもの」。 左下〔定冠詞×指示方法〕:限定(特定・既知)「例の・その」。 右上〔不定冠詞×指示範囲〕:部分「一つ(幾つか*)の」。 右下〔不定冠詞×指示方法〕:非限定(不特定・未知)「ある~」。 ―〔表2〕 .................................................................................................. 画面上の制約の関係でうまい図表にできなくて残念ですが、2行×2列の市松模様というか格子縞の図表をイメージしてください。 >theを使った総称表現においても、theが全体を表すと言うより、唯一のものを指し示すと言った方がよいと思います。 ⇒お言葉ですが、このThe lion is a wild animal.のTheは「代表」という形で全体を表す用法だと思います〔表1中の(5)〕。この用法の典型例が、有名なThe whale is not a fish.です。 ちなみに、全体を表すもう一つの用法、表1(9)複数名詞の前について特定のものの全体を表す場合の例として、ある参考書に、They are the teachers of our school.は先生の全部を指し、They are teachers of our school.は一部を指す、という説明が載っていました。 蛇足的補足:英語には不定冠詞の複数形はありませんが、英語以外の印欧語のほとんどにはそれがあります。その歪形というか非対称性を補って考える形態論学者は、例えば上例文の後者をThey are φ teachers of our school.のように書くことがあります。この「φ」は「ゼロ形態」といって、「無形の」不定冠詞複数形がここについている、と想定するのだそうです。そうすると、表2の3行目で示した「一つ(幾つか*)の」のカッコ内が生きてくるので、均整がとれる、ということのようです。 >以上、定冠詞が全体を表すという説に反論を示しました。結論として、定冠詞は何かを唯一的に指し示す働きがあるということになりました。 ⇒定冠詞が限定を示すとするのは結構ですが、それだけに焦点化することには若干抵抗感があります。文法説明というのは実際の運用状況を後追いして、規則化や体系化を計ります。ということは、古英語の時代ならまだしも、定冠詞の用法が多様化した現代にあっては、少なくとも2つの機能(限定と全体を表す)を認めるのが文法の体系的理解のためにはより具合がよいと思います。 文法論は共時言語学の下位分野ですので、現行の言語状況を「論理的に、包括的に、首尾一貫させて、全体的整合性をもって、疎漏なく、かつなるべく経済的に」体系づけなければなりませんが、その意味から言っても、この(定冠詞theの意味機能)の定義問題は、「表2に立脚して、2つの機能(限定・全体)を措定する」のが最も妥当な判断である、と言えるものと考えます。 ご期待に添えなくてすみませんが、以上ご回答まで。
お礼
ご丁寧な回答、ありがとうございました。 <いったん「限定」というに意味機能が確定したら、そのtheは、それ以外の、例えば、「全体」とか「部分」の区別などには関わらない。要するに、theが二重の意味機能を同時に満たすことはない。たまたま2つの意味が重なっても、それは単なる結果に過ぎない》と言えるわけで、これ錯覚を起こしやすい事柄なので、よく認識することが必要だと思います。> --私の迷妄でした。ご指摘ありがとうございました。 <このような文法論・意味論を考察する際、個人語すなわち、個人間のパロール的な誤差を無視せよなどとは言わないとしても、その前に、言語の社会慣習から見たラング的冠詞体系をしっかりおさえておく必要があるとは言えるでしょう。重視すべきは、むしろこの観点ではないでしょうか。> --おっしゃるとおりだと思います。 <定冠詞の用法が多様化した現代にあっては、少なくとも2つの機能(限定と全体を表す)を認めるのが文法の体系的理解のためにはより具合がよいと思います。> --納得です。というか、自分の勉強不足ぶりを痛感しました。 英文法の勉強は市販の文法書を渉猟しただけなので(といってもかなりの分量でしたが)生半可な理解と知識しか得られていないのだろうと思います。当方は大学受験の教科指導に必要なレベルをそこそこ超えた水準までは習得しておこうと、授業その他の合間を縫って労力を文法学習にかけてきました。もちろん、本格的な勉強に取り組む余裕はありませんから、音韻論にしても、統語論にしても、意味論にしても、どれも一定の知識を得た時点でそれ以上踏み込まないというやりかたをとってきました。それゆえ、獲得知識が生半可なものとなって、独断と思いこみを排除できない事態になっている可能性があると思っていましたが、案の定でした。 私の迷妄を正して頂き、ありがとうございました。 ところで、最近の私の質問投稿は冠詞と関わることが多いのですが、私の文法学習において最大の難関だった冠詞について、一度総整理を行ってみようと思い立ち実行しているところです。 ところが、自分でも不分明なところがあることに気づいて、不分明さを解消できるものならそうしようと思ったわけです。専門家の方に指導して頂いてラッキーでした。今回のご指摘を受けて、冠詞の体系的理解に少し時間をかけてみようと思います。 なお、近いうちに、前置詞atの働きについて質問を投稿します。よろしければ、またおつきあいして頂けるとありがたいです。私には、前置詞は冠詞の次に難物なのです。ありがとうございました。