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遣唐使の渡航ルートの変更について

西暦662年、百済が滅亡し、その後日本の遣唐使渡航のルートが大きく変わったと聞いた事があります。 それまでは百済に先導され、朝鮮半島づたいに現在の山東省の港を目指しています。 これだと当時の船でも安全に旅する事はできます。  ところが百済滅亡後はこのルートは取れず、東シナ海を横切るルートに変わっています。 これでは台風をまともに受け、とても危険なものとなります。  百済は旅の先導だけでなく、中国に着いた後も遣唐使と同行し、中国皇帝謁見の手配、通訳等至れり尽せりの援助をしています。 百済と奈良王朝はどんな関係にあったのでしょうか。 百済滅亡によって日本は大陸との交渉のルートを失い、長い鎖国状態に入ったと見ることもできます。  百済と日本の関係について教えて下さい。 

みんなの回答

noname#80537
noname#80537
回答No.3

うろ覚えですが、仏教は百済を通じて伝わったと思います。 日本にとって先進の文明は中国から百済を通じて来たみたいですね。

  • Tacosan
  • ベストアンサー率23% (3656/15482)
回答No.2

一般的な解釈では 「百済が滅亡したときに王族が日本に亡命した」 「その王族に対し百済王 (くだらのこにきし) の姓を与えた」 ですね. その系統の高野新笠が桓武天皇の生母でしたっけ. ちなみに朝鮮の三国時代は最終的に新羅が統一して終結するわけですが, そのときに滅んだ高句麗の王族も「高麗王 (こまのこきし)」という姓を受けています.

IXTYS
質問者

お礼

>「百済が滅亡したときに王族が日本に亡命した」 日本に固有のものと思われていた『天孫民族』という思想は百済が起源のようです。  百済が朝鮮半島から日本に移住してきたと考えると、その後の万葉集や古事記にも違った解釈ができるでしょう。 これらの歴史書(万葉集は歌集と解釈されていますが)を日本と韓国の有識者が共同で研究できればすばらしい成果も期待できるでしょう。  どう解釈すると自分たちに有利になるかではなく、何が真理なのかを探ろうとする真摯な姿勢が大切ですね。 西暦662年の白村江の戦いで百済が滅亡して以来、日本の朝鮮半島と中国(唐)への足がかりが失われてしまったように見えます。 韓流ブームによって日本に朝鮮半島の歴史を知りたいという思いが強くなっているのは良い事ではないでしょうか。  

  • Toshi0230
  • ベストアンサー率51% (836/1635)
回答No.1

伊沢元彦さんは、「逆説の日本史」の中で、「天皇家は百済出身」というようなことをことを書かれてました。 だから、百済が滅んだ後、「防人」として九州沿岸防衛を行う必要があったのだとか。

IXTYS
質問者

お礼

貴重な情報ありがとうございます。 奈良は『ナラ』という朝鮮語。 百済(クダラ)は『クンナラ』という朝鮮語の訛ったものだと聞いたことがあります。 因みに『クンナラ』とは『偉大な国』という意味です。  西暦662年、白村江の戦いで滅亡した百済王朝ですが、一部の人達が日本に亡命し、王朝を再興した。 そして奈良に都と造ったという解釈はじゅうぶんに成り立つものでしょう。 

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