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鳥羽伏見の戦いで敗走した旧幕府軍の兵士。

歩兵隊、伝習隊とか会津藩兵などの兵士は、どんなルート(海路か陸路か)で江戸へ戻ったのですか。 海路では問題ないでしょうが、陸路では、銃を携えた、賊軍とされた集団が移動するわけですから、あちこちで戦い・衝突があったのでは、と思います。 事例があれば教えてください。 よろしくお願いいたします。

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  • eroero4649
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回答No.1

戊辰戦争でどんな戦いがあったか、時系列で見ていきましょう。 1868年1月 鳥羽伏見の戦い 1868年3月 甲州勝沼の戦い(甲陽鎮撫隊全滅) 1868年3月 江戸城無血開城 1868年4月 市川・船橋で新政府軍と旧幕府軍との間で戦闘 1868年4月 宇都宮城を巡る攻防戦 1868年4月 庄内藩が新政府軍(仙台藩など)を撃退 1868年4月 奥羽越列藩同盟が成立 1868年5月 上野戦争(彰義隊全滅) 1868年5-7月 白河口の戦い(戊辰戦争の天王山) 1868年7-9月 秋田戦争 1868年7-9月 北越戦争 1868年9月 会津戦争終結(会津藩・庄内藩降伏) 1868年12月~1869年6月 函館戦争(戊辰戦争終結) はい、こちらを見て分かるように、鳥羽伏見の戦いの後は甲州勝沼の戦いまで戦闘はありません。甲州勝沼の戦いでの幕府軍は近藤勇らに率いられていましたが、主なメンバーはずーっと江戸城にいた「過激派(徹底抗戦派)」です。既に江戸城無血開城を考えていた勝海舟は近藤らに「甲陽鎮撫隊」というもっともらしい名前を与えて、体よく甲州に送ってしまったのです。その甲陽鎮撫隊は、あっさり新政府軍に撃破されてしまいます。 敗走っていうのは、武器も何も投げ出して身ひとつで逃げるのを敗走といいます。例えば新撰組は大阪に撤退する途中でてんでばらばらになってそのまま行方不明になる隊士が続出しました。 自分が敗走する兵士であったと想像してください。混乱の中で誰が生きてるやら死んでるやらになるのですから、アイツがいないとなったところでどこかで死んじゃったかもしれないから構っている場合ではないですよね。あと、自分の上官とかも離れ離れになって一緒にいた仲間から「おい、この戦争はもう負けだ。今のうちにずらかろうぜ」といわれたときに「いいや、俺は最後まで戦う」って気持ちになりますか。銃も捨てて服も着替えてそのへんの一般市民のフリしてこっそり逃げちゃおうと思いませんか。どのみち負けているのです。 鳥羽伏見の戦いでも甲州勝沼の戦いでも上野戦争でも、意外に兵士って死んでないのです。負けたとなって敗走したら文字通りの「蜘蛛の子を散らすよう」になってみんなどっかに行っちゃうのです。 上野戦争も、みんな上野の山で最後まで戦って死んだんじゃないんですよ。大村益次郎は包囲網の北側をわざと空けていました。「どうも敗色濃厚だ」となったときに北側が空いていることに彰義隊士らは気づいて、そこからみんな逃げ始めたのです。だって死にたくないじゃない?そしてみんな逃げたら「俺も連れてけェ」ってなるじゃないですか。 これを孫子の兵法書で「囲む師は欠く」といいます。「全方向を包囲するともう死ぬしかないから必死になって戦われるからこっちの犠牲も多くなる。一方を空けておくと包囲されている兵も『もしかしたら助かるかも?』と思ってそっから逃げるようになるから完全包囲はするな」と孫子に書いてあるのです。 鳥羽伏見の戦いから函館戦争まで主だった戦いに顔を出して最後まで戦いぬいたのは有名人では土方歳三だけといっていいでしょうね。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 確かに「鳥羽伏見の戦いの後は甲州勝沼の戦いまで戦闘はありません。」ね。 鳥羽伏見の戦いにおける旧幕府軍の主力は、幕府陸軍だと思います。 幕府陸軍のうち、どれほどの兵が参加したのか、ちょっと調べてみたのですが、分かりませんでした。 おそらく、数千人の兵が参加したと思いますが、戦死者は、wikiによれば百人ほどです。 どんな様子で“敗走”したのか、江戸に無事帰りついたのか、疑問でした。 なにしろ、時の老中を出している淀藩の淀城ですら幕府軍には開門してくれず、また、27万石の津藩が戦闘の最中に、中立の立場を捨て、新政府軍を攻撃していますから。 まあ、しかし、京・大坂を離れるにつれ、戦争色は薄れ、東海道筋に入ると、かっての親藩・譜代藩の領地になるので、問題なく通過できたということでしょうか。 江戸に着くまでの記録を探したのですが、見つからず、質問しました。 新選組については、永倉新八の日記によれば、新選組と会津藩兵は、慶喜公の御沙汰により幕府軍艦で江戸へ帰っています。

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