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黒船は幕府軍に勝てたのか
強気なことをペリーさんは言ってたけど上陸して地上戦をしたとしたら江戸だけでも日本を制圧できましたか
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- jkpawapuro
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もし戦ったらどうなるかの想定は大事ですよ。 おたがい戦争にならない範囲で交渉するわけで、裏を返せば戦争における被害より少ない要求は通る可能性が高いし、戦争したほうがマシだという要求なら突っぱねるわけですから。 ペリーにしてみれば最大の要求である通商は通らないものの開港・最恵国待遇までは認めさせたわけですし、逆に幕府からしたら即時通商は拒否したわけで、これはペリーからしたら戦争を起こしてまでの通商要求は認められていなかった、幕府(あるいは政権担当者)からしたらたとえ江戸を壊滅させてでも通商を認めるわけにはいかなかったことの裏返しともとれます。
- IXTYS
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こんにちは。 #8の再入場です。 ご質問は幕府軍が黒船に戦争を仕掛けた場合を想定なさっていますが、それは先ず起こりません。 当時の幕府老中は阿部正弘ですが、彼にはそんな命令権はありません。 当時の将軍は13代家定ですが、彼は病弱で癲癇(てんかん)持ちだったと言われています。 とても一軍を率いる大将の任務には就けません。 14代の家茂も結局将軍に就任してすぐに病気で亡くなっています。 要するに徳川幕府の最後は将軍になれる人物がいなかった。 最後の切り札であった15代の慶喜(よしのぶ)は頭脳明晰で時代を読める器だったので政権を天皇に返還した。 ですから江戸を舞台にして地上戦が行われる可能性は皆無だったと見るべきでしょう。 ● それでも地上戦があったとそうていするとどうなるか? 幕府軍は各藩に『御触書』を出して兵を集め、戦いに備えます。 その数、実に十万。 でもそのいでたちたるや関ヶ原のまま。 先陣は井伊家の赤備え。 こう言う時代遅れが実際に幕府の第二次長州征伐で行われ、高杉晋作の奇兵隊にコテンパンにやられています。 ですから幕府軍が江戸で地上戦をやれば、間違いなく大惨敗を喫しています。 一日で降伏の白旗でしょう。 江戸時代の末期、幕府の石高は440万石、薩摩藩は77万石、長州藩は29万石でした。 しかし、薩摩は琉球王国を経由して三角貿易をして清国や東インド会社と交易をし、富を蓄積していました。 長州も清や李氏朝鮮と密貿易をして財を蓄えていました。 石高では5分の1にも達しない薩摩藩がその経済力では幕府を遥かに凌いでいたのでした。 これを暴くため、幕府は密偵を薩摩藩に次々と送り込むのですが、すぐに見つかり殺害される羽目に。 薩摩藩はお国言葉を隠語のように難解にして、他藩からの侵入者をすぐに見つけ出して殺害していたのです。 幕府は最後まで重農主義に依存していました。 しかし、薩摩藩は早いうちから重商主義にシフトした国造りに励んでいたのです。 当然、西郷隆盛や大久保ら若い武士たちも西洋事情には精通していたのです。 これだけ視野が違っていたのです。 幕府軍などまるで取るに足りないほどに弱体した軍隊でしかなかったのです。
- IXTYS
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こんにちは。 とても良い指摘です。 19世紀に入り、世界の情勢は大きく変化しています。 18世紀末のフランス革命、同じく18世紀末からのイギリス産業革命によって市民が台頭し、ヨーロッパの列強による世界進出、いわゆる帝国主義時代が訪れます。 先ず、アフリカ大陸を植民地支配。 続いて中東、インド、中国と植民地支配が進み、日本が標的となります。 ● 19世紀中葉に於ける日本列島の価値 同じアジアであってもインド、中国大陸、インドシナに比べ、領地としての面積も小さく、産業的な価値は低いものでした。 ただ捕鯨の中心が小笠原諸島でしたので、ここに隣接した日本列島は価値がありました。 薪と水の補給基地として重要と考えられたのでした。 誰か欧米列強の国のいずれかが鎖国をしている日本の扉を開放し、薪、水を補給出来る道筋をつけてくれる。 それだけのこと。 日本ってその適度の役割と意義しかなかったのです。 ● ペルリは日本を武力で制圧する気があったのか? 1840年英国が中国と戦争し、圧倒的な武力の差を見せつけて勝っています。 アメリカもこれを知っており、日本が抵抗するとは思っていなかった。 四門の大砲の威力に日本政府(幕府)も屈服するだろうと読んでいました。 1853年、最初に浦賀沖に姿を現す前に琉球王国に滞在し、琉球王国ー薩摩藩経由で書簡を幕府に送って、訪問の目的を細かく知らせています。 当時、琉球は薩摩藩の領地であり、薩摩藩の役人が常駐しており、彼から幕府の担当者の名前、人柄、権限等も細かく情報を入手しています。 ペルリが幕府と薩摩藩や長州藩との産業育成政策の違いまで認識していたかどうかは定かではありません。 幕府は依然として重農政策一辺倒であったのに対し、薩摩や長州は貿易を通して農業以外の産業をも育成しており、実質的には幕府よりも経済規模は薩摩の方が遥かに大きかったのです。 ● 老中の安部正弘には広く世界を見通す眼力はありませんでした。 当時の幕府には広く世界を見通せる眼力の持ち主などおりません。 九州の外様大名には優れた大名が多く、彼らは優れた藩の子弟を長崎に留学し、広く世界の情勢を学ばせていました。 しかし、幕府の旗本の子弟は堕落し切っていたようです。 ですから幕府が浦賀沖の黒船と一戦を交える気概も、能力もありません。 『もし一戦を交えたら』との質問ですが、当時幕府軍にはその気概などありません。 安部正弘は『ご説拝聴した。 来年、ご返事する。』と言ってぺリルにお帰り戴く。 そうすれば来年もう一度日本へくるなんてないだろう。 その程度の認識しかなかった。 ところが、ペルリもさる者。 ちゃんと日本側の気持ちを先読み。 香港に停泊し、年が明けるのを待ってすぐにやって来た。 これで勝負あり。 ● これが結論 : 徳川幕府の眼力、意欲、戦闘能力、どれを取っても戦争になる可能性は皆無だった。 それほどに当時の幕府は腰抜けになっていた。 初めから日本側の政府代表である幕府には戦闘能力などなかった。 だから一戦まじえたらどうなるのか。 それを検討する価値はないと思うのです。
- jkpawapuro
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制圧なんて夢のまた夢ですね、当時の日本人はまだ篭城戦大好きです。 ヨーロッパで壁に囲まれた城塞都市は衰退してました、理由は攻城砲の攻撃に耐えられないからです。 逆に言うと満足に攻城砲がなければ城は落ちません。 江戸城の場合は石壁ではなく堀ですが同じことです。 当時最初に来たペリー艦隊で江戸城に届くのは20.3cmパロット砲二門のみ、こんなんで城が落ちるわけがありません。 いくら種子島よりはるかに長い射程のライフルを持っていても、堀の内側から種子島構えられては城に踏み込めるわけではないですからね。 できることは上陸して町を焼き払って撤兵、それがせいぜいです。 おそらく陸戦をやっても当時の武士には逃げることしかできないでしょう。 ですが立てこもったゲリラを掃討するような兵力は当然ペリー側にはありません。 あとペリー艦隊ですが、日本に対する交戦権を大統領から禁じられて派遣されました、そもそもが威嚇任務です、十分な戦備があるかも怪しいでしょう。 上記の理由ですが、当時の蒸気船は週に一度は釜に火を入れないと壊れるといわれています。もし日米が交戦状態に陥れば、第三国は局外中立を取るでしょう。 第三国というかこの場合イギリスです。当時極東で満足に石炭の補給ができるみなとはイギリスの香港のみです、ここで戦端を開くとペリー艦隊は鉄屑と化します、戦争なんてできるわけありません。
- oska2
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>強気なことをペリーさんは言ってたけど 質問者さまがご存知か否か分かりませんが・・・。 幕府が米国の要求を拒否した場合、「琉球占領」を計画していました。 つまり、琉球を武力で侵略して「植民地化」を計画していたのです。 当然、清国と(形式上の)属国である琉球の関係を米国は理解しています。 ※日本に向かう前に、艦隊は琉球に測量・上陸しています。 充分、清国との衝突に備えて武装の準備は行っています。 アヘン戦争でイギリスに敗れたといっても、未だ朝鮮半島(朝鮮国)の支配権を維持していますからね。 蒙古襲来と同じで、清国の命令次第で朝鮮国部隊が琉球に参戦する事も可能です。 ※蒙古襲来は、元皇帝の命令で「高麗軍が日本を侵略」しました。 ※韓国の正しい歴史には、一切記述がありませんが・・・。 >上陸して地上戦をしたとしたら江戸だけでも日本を制圧できましたか 艦砲射撃を行うだけでも、江戸市内は充分制圧可能です。 当時の幕府・諸藩は、「お寺の鐘を大砲に見せかけた」という笑い話も残っています。 冗談の様ですが、海岸線には多くの「大砲に見せかけた鐘」が並んでいました。^^; 大坂の陣以降平和な世ですから、幕臣の多くは「質屋から鎧兜を受けだした」様です。 既に、戦闘員としての幕臣は存在していません。 第一、南北戦争で余った大量の銃・弾薬を積んだペリー艦隊に「槍・刀で勝負を挑む」結果は明らかですよね。 還付射撃を行った後で、銃で武装した戦闘員が上陸。 槍・刀・火縄銃・小火器を持った幕臣舞台では、相手になりません。 結果は、火を見るよりも明らかです。 東京湾不覚に入って艦砲射撃を行うと、江戸城は射程距離内です。 この艦砲射撃だけでも、幕府・幕臣・江戸っ子は戦意を失います。 江戸を占領されると、実質的に幕府崩壊。 その後、米国は「朝廷に対して、色々な要求を武力で求める」でしようね。 結果的に、日本は「アメリカ合衆国日本州」になったかも?
- ichikawa2017
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非常に難しいというか余程短期間に制圧しない限り不可能だったでしょう。 大砲などの武器の性能や兵員の戦闘能力という点からであれば上陸戦は成功していたと考えられますが上陸軍を維持できません。 ペリー艦隊は武器弾薬や食料を補給する兵站を持っていませんでした。 再度交渉が決裂すれば威嚇の砲撃をしていったん退去して体制を立て直して攻撃してくると思います。 現に当初は4隻だったのが一年後には7隻で現れています。 ペリーも江戸幕府を侮っていた訳ではなかったということです。 幕府が開国を決意したのは江戸市民の犠牲が大きすぎることです。 江戸の人口は百万人と言われますが半数が町人です。 江戸の街は武家地が約70%寺社地が約15%で町人地は全体の15%程度でした。 町人地は江戸湾に面した地域に集中していました。 これを人口密度にすると町人地は1km2あたり約6万人となります。 現在の東京で人口密度が高い地区でも1km2あたり約2万人です。 ペリー艦隊が上陸作戦を敢行すれば戦場となるのはこの人口密集地である町人地です。 家屋は全て木造です。 戦場となればおそらく第二次世界大戦の際の東京空襲と同じような事態になるでしょう。 たとえペリー艦隊の上陸軍を撃退していても壊滅に近い都市が残さるだけです。 このような状態を日本近海にいた諸外国の軍艦が見逃すとは期待できません。 連合艦隊を組んで襲い掛かってくるでしょう。 現に数年後に行われた薩英戦争や馬関戦争でも連合艦隊を組んでいます。 こうなれば到底防ぎきれません。 幕府は幕臣の戦闘能力が著しく低下していることを熟知していました。 これを改善しようとしてペリー来航の数年前に高島秋帆に命じて西洋式の砲術訓練を行っています。 後年京都の治安維持に幕臣が当てにならないので郷士集団の新選組を派遣しています。 手元の戦闘集団である幕臣が当てにならない上に町人の犠牲が多大なものになることを予想すればペリーの要求をのまざる得ません。
- eroero4649
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ゲームではどちらかが全滅するまで殺し合いますが、実際の戦争はどちらかの心が折れたらそれで決着がつくんですね。稀に寡兵が大軍を相手に大勝利する戦いがありますが、それは負けた側の軍隊の心が折れたからです。 だから最初の黒船来航時に日本側には有効な軍事的対抗手段が存在していなかったので、もし黒船側から攻撃を受けて江戸城が消失するようなことになったら日本側の心が折れて和平交渉を求める、つまり敗北するということは十分に起こりえたと思います。 その根拠となる戦いがあります。黒船来航から11年後に起きた長州藩と米仏連合軍との間で行われた馬関(下関)戦争です。 このとき、長州軍は大砲を所持していましたが米仏連合軍にアウトレンジされ、陸戦隊が上陸して長州軍の砲台を占領、また民家のいくつかに焼き討ちをしました。 このときに上陸した兵力が、陸戦隊がわずかに70名、水兵が180名だったといいます。この兵力に対して長州軍は蹴散らされてしまいました。ペリー艦隊にどれだけの陸戦隊がいたか分かりませんが、馬関戦争の兵力とペリー艦隊の兵力を比較するとペリー艦隊のほうが数も多く砲数に至っては倍くらい違うので、はるかに強力です。 しかも馬関戦争における長州軍の損害の内訳は、武士が5名の死者を出したのに対して、町人・農民は26名の死者を出しています。死者を多く出しているということは、それだけ戦ったということです。この当時の武士部隊というのは練度も士気も低いというヘタリアだったのです。また各藩が連携して戦うという思想も全くなかったので、烏合の衆となるのが関の山だったのではないかなと思います。 この当時の戦争は、第二次大戦型の相手を完全屈服させるようなものではなく、戦役に勝利したら相手から巨額の賠償金をせしめるものでした。アヘン戦争も、南京条約が結ばれて香港島の割譲と巨額の賠償金、港の開港と貿易自由化が行われることとなりました。そしてこれをきっかけに様々な不平等条約を清王朝は結ばされました。 だから江戸を焼かれた上で、その軍事力を背景に領土の割譲や巨額の賠償金を払わされる講和条約を結ばされるようになった可能性が高いのではないかなと思います。
- ithi
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pontan58 さん、こんばんは。 可能性はあります。砲数が少ない分、アヘン戦争の時より強力になったと佐久間象山は喝破していますアメリカ艦隊の大砲は炸裂弾です。江戸城など100発もあれば炎上してしまうでしょうね。日本側は17世紀以来使用していない青銅砲です。有効射程距離はパロット砲4kmに対して青銅砲は1kmそしてさく裂しない。被害がい小さくて済むわけです。薩英戦争のようにアメリカ艦隊がミスを犯さない限り、確実になるでしょう。ただ、夜になったら、どうなるか分かりません。ゲリラ戦が戦われる可能性があるからです。でもその質問は洋学者佐久間象山や勝海舟、大村益次郎位なら簡単に想像がついたでしょうね。 薩英戦争 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89 佐久間象山 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%B9%85%E9%96%93%E8%B1%A1%E5%B1%B1 大村益次郎 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E7%9B%8A%E6%AC%A1%E9%83%8E 勝海舟 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E6%B5%B7%E8%88%9F
たぶん人員が4000人にも満たないので、せいぜい船の砲撃で街を焼き払うのが精一杯かと。
- nekosuke16
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ペリーの日本来航は4隻の軍艦によると言われていますから、もし、上陸して地上戦を繰り広げていたならば、当然、日本に鎮圧されたのでしょうね。 何せ、多勢に無勢ですから。 要は、海上からの砲撃だったからこそ、その攻撃力や破壊力に日本人が恐れをなし、自国と世界との技術革新の進度の差を肌身で感じたのでしょうね。 要は、本質的な技術の差は別として、突然現れた特大のハッタリに、無条件に負けたということだと思いますよ。