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光秀と石谷文書について
光秀が本能寺の事件を起こした動機については諸説ありますが、近年は「石谷文書」が発見されたことにより、「四国説」が有力視されてきました。 ところが石谷文書と光秀の関係性から、四国説を証明する証拠にはなり得ないとの理由で否定する学者もいます。 その関係性とは何なのでしょうか?例えば光秀に親しい人、または逆に敵対する人が残した文書なので、信憑性が担保されないとかの利用を想像しているのですが…。 よろしくお願いいたします。
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- D-Gabacho
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本能寺の変を起こした動機というのは、結局、光秀自身に聞いてみないとわからないわけですから、動機についての光秀自身の発言が書かれたものでない限り、四国説を証明する証拠になり得ないのは当然です。 石谷家文書から明らかになったのは、光秀が長宗我部元親と信長との同盟関係をなんとか維持しようと家臣の石谷頼辰(養父光政が元親の義父)らを通じて交渉を重ねていた事実です。信長はそれを無視して三男の信孝を総大将とする四国征伐を決定しており、そこから光秀の信長政権内での立場が危うくなったと推測できるので、四国説が有力視されているわけです。 つまり、石谷家文書は四国説を状況証拠の面で補強するものといえます。
- fujic-1990
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「直接関係がなかった」という「関係性」なのではないでしょうか。 石谷某氏が長宗我部氏と明智家を往来していたというような関係がないただの「長宗我部家の1家臣」に過ぎないとしたら、現代の小説家が書いたのと一緒で、彼が何を書こうと「想像」に過ぎないぜ、ということなんじゃないでしょうか。 どなたかの歴史小説で、「四国を任す」と言っていた信長が変心して長宗我部から四国を取り上げようとした上、自身も四国担当からはずされたから、長宗我部担当で奮闘していた光秀はいたくメンツを失ったという話を読んだことがあります。それが謀反の原因だとまでは書いて無かったような記憶ですが。