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明智光秀と天海
明智光秀と南光坊天海は同一人物という説 山崎合戦で秀吉に敗れ落ち武者狩りで死んだはずですが生きていたんですね? 天海が光秀とする証拠は天海は後に徳川幕府のブレーンになりますが、二代将軍が秀忠(この場合の秀は秀吉から一字もらった)なので後継の竹千代に自分の名を一字とって家光とつけさせた という話 家光は後に なぜ自分の名は 祖父家康と父秀忠からとった家忠ではないのか? と秀忠に尋ねた際に秀忠は 公家に家忠と言う人がいてかぶるから…と苦しい言い訳をしていましたね
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私、その話はできれば信じたいのですが、天海の没年を光秀の年齢から計算すると100歳くらい生きたことになるらしいので、さすがにそうなると信憑性は低いかなーと思っています。 信長生存説は、まあないでしょうね。なぜ二度と表舞台に登場しなくなったのか上手い説明がつかないですからね。秀頼生存説はあってもいいように思いますが、あまり聞かないですね。秀頼といえば、よく徳川埋蔵金を探す人がいますが、幕末の徳川家にはお金なんてありませんでした。大阪城が落城したときにかなりの金銀が押収されたなんて話もありますから、豊臣埋蔵金のほうがありそうな気がしますが、なぜかそれもあまり聞かないですね。
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- TANUHACHI
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架空のエンタテイメントならば面白いけれど、歴史学の立場からみれば「何を考えてんのじゃ」と一笑に付される程度ですね。 桔梗紋ならば京都には安倍晴明をを祀る晴明神社も同じ紋を使いますし、この紋が兜に付いている意味は障害をよけるまじないとの意味です。 もし天海と光秀が同一人物であるなら、天海は明智家の菩提寺である妙心寺に何らかの形で寄進などの行為をしていることになりませんか?また徳川のブレーンである天海がなぜ家康を封じ込める形で日光に祭り上げたのかも疑問となります。井沢元彦などの俗説を読みすぎですね、少し頭を冷やしましょう。
お礼
ちなみに家康の遺体は日光にも久能山にもありません
日光東照宮には明智光秀の家紋がありますからね。 明智光秀=天海は十分あり得ますね。
お礼
ですよね ありがとうございました
- cleodc
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天海の前半生に不明な点が多い事なども理由に挙げられているようですが、本能寺の変当時の光秀の年齢と、天海の没年を考え合わせると、同一人物と考えるのには無理があるようです。 山崎の合戦後に奉納された石塔に光秀の銘がある事、東照宮に桔梗紋がある事、日光に明智平という地名がある事、春日局についての事等々、もっともらしい理由付けがされていますが、決定的な裏付けにはなり得ません。 ただし、天海が光秀にゆかりのある人物である可能性は十分にあると思います。 また三代将軍家光についてですが、家康は大坂の陣で豊臣家を滅ぼすのを待って、竹千代を元服させています。当時としては随分遅い元服です。 徳川家は豊臣家の家臣という立場上、豊臣家が存続していれば、秀頼から偏諱を受ける事になり、家康はそれを避け、光秀からの偏諱を受けようとしたのではと考えられます。 信長が天下統一する場合、最後の邪魔者が家康でした。早晩滅ぼされる運命にあった徳川家を救った光秀に、家康が恩義以上のものを感じていても、不思議はないと思います。
お礼
ありがとうございました
- trajaa
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ま、飲み屋のうんちく話としては面白い。 義経=チンギスハーン説と五十歩百歩かな。
お礼
義経はチンギスハンではないですな あと 信長生存説もありますよね
お礼
とうじ100歳まで生きてても不思議はないよ 一栗放牛も95ぐらいまで生きたし 信長は表舞台から消えて 裏で天下を操ったかな 秀頼生存説はあるでしょ 秀吉の子孫がいるぐらいだし 一番は家康が大阪夏の陣で死んでたこと