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僧侶とお経の意味を理解するのは必要?
- 僧侶にはお経の漢文や漢語を理解する必要があるのか、疑問に思っています。亡き義父の3回忌の法要で、自分がお経の意味を知りたいと質問したところ、抽象的な説明をされてがっかりしました。漢文をきちんと理解することは本当に必要なのか、知りたいです。
- 私は僧侶に来ていただいたからには、お経をあげる意味をきちんと理解しているものだと思っていました。しかし、実際は漢文の意味を理解していないようで、そのことに嫌悪感を抱いています。これからもお経を聴き続けなければならないので、このままでは辛いです。お経をあげるためには漢文を理解する必要があるのでしょうか?
- 一般的には、僧侶になると言葉の意味をすべて調べ上げて理解する必要があると思われます。しかし、実際には漢文を理解していない僧侶も存在するようです。私の考えは間違っているのでしょうか?お経の意味を理解しなくてもいいのか、教えてください。
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こんばんは 僧侶の人に 質問をしたら 自分の求める回答ではなく 抽象的な説明を受けた のですね。 抽象的な説明を されたのは 1.その 僧侶の人が まだ 全て 知らないから(修行中だから) そう云う説明しか出来ない 2.抽象的な回答をしたのは それだけで 分かる人には 理解できるから 3.とても 長くなるから 4.僧侶は 全てを 知った上で 敢えて 抽象的な説明しか しなかった (優しさ に よる物) 答えは 人から 教えてもらうのではなく 自分で 辿り着くもの だから 等 ありますよ。 (実際 どれかは 謎ですが「どれも」 1を除いた方がいいかも知れませんね しかし 1を 書いたのにも 意味は きちんと あります。 悪い意味ではなく 「知っていずも 知っていても 同じ 修行中の身」) あなたの 言う通り 全ての事を 本当の意味で 本当に理解し お経を 読むこと が 一番 理想的ですが 彼らも まだ 修行中の身なのかも知れないし 既に その理想形に居る 若しくは それ以上 の 形に あるのかも知れませんよね (それでも ずっと 修行中だと 云う事ですしね) 少し 分かりずらい文章に 成ってきていますが ここまでの 2.3.4.だけでも 理解して 続きを 読んでみて下さい。 全てを 知らずして 僧侶の人に 対して 嫌悪感を持つ これは いけませんね (全てを 知れば 邪心など 芽生えなかったかも 知れませんね 仮に 全てを 知っても(何か あっても) 「この位で」 邪心を 持つことは いけない事です 基本 邪心は いけないことなのですしね) ( 全てを 知らずも 同じ事です ) あなたが 知りたいのであれば 人に(僧侶に) 頼るのではなく ご自分で 勉強 修行する事です 真の意味を 探し 理解するだけでなく それを 本当に 実践出来るかどうか (この世の悪影響により 崩れる、崩されることなく事無く 保ち続ける事が出来るか 継続する事が出来るか) 等 頭で 分かるだけでなく (学問を 学ぶだけでなく) 心で 分かっているか 等 意味は 必要だが 意味に こだわり、とらわれ過ぎて 本当に 大切な事に 気づけない 等 知識と心 A 知識あり 心あり (一番 理想的) B 知識なし 心あり (人に 「上手く」説明は 出来ないが 心では 良く 理解している) C 知識あり 心なし (全てを 修めて居る様で 心が 足りていない) D 知識なし 心なし ある 基準で 考えると 上から A.B.C.Dに 良い順番に成る それだけでなく AとBは 同じ と云える し CとDは 同じだと 云える こと (心 魂 の 重要性。 どんなに 学問を修める事が出来ても 一番 大切な 心 魂 が きちんと していなければ 意味が 無いのですよ と云う事です。) (そして 心 魂が 真っ直ぐ していれば 「時には 人は 過ちなども してしまう時もあるけれど」 どんな 環境に あっても 真理に 辿り着くことが 出来る と云う事) 分かりずらい 文章の形に 成っていますが 意味を 理解して みてください。 がんばってください。 (人は 皆 修行中であり(出来る人も 出来ない人も) 助け合いながら 歩んでいる (目には 見えない物も ある→ 分かりずらい物) 「何かを 知っていても 知らずも 理解する心 理解しようとする心 悪く 思わない 心構え (簡単に 決めつけない事) 寛容な心 (優しさ、思いやり、愛 等)」 色々 ある 人生の中で 普段 出来る事も 出来ない状態に 成る事なども ある (がんばって 調子が悪い時も ある物でしょう 調子が良い時が ずっと 続かないかも 知れない) まあ 色々 ある訳ですが 意味が 分からなくても 真心で 動くことにより そこに 真の意味が 生じる (意味での 説明で 言えば) 上の AとBは 同じですし 結局は 形に こだわる事は 大切だが それだけでなく 他の 形も 認めるべきだと云う事 一番 大切な物を 忘れては いけない と云う事 一番 大切なのは 心 だと云う事です
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- oska2
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>僧侶の方にお経のことを尋ねてみたんです。 >そうすると、お経全般における、抽象的なご説明をされました。 至極、当然の説明だと思いますね。 坊さんは、漢文学者ではありません。 あくまで、宗教学者です。 ※宗派にもよりますが、多くの坊さんは文学部卒業。 ※私の近所の坊さんは、東北大学大学院を卒業して僧侶になっています。 同じお経でも、宗派によって解釈が変わります。 同じ阿弥陀如来信仰の浄土宗・浄土真宗でも、解釈が異なりますよ。^^; >私はそんな全体的な意味を訊いたのではなく、たくさん書かれてある漢文の意味を知りたかったのです。 この場合は、坊さんに訊ねた事が間違いです。 先に書いた様に、坊さんは漢文学者ではありませんからね。 僧侶の資格を得るための修行でも、漢文検定試験はありません。 >わざわざ僧侶に来ていただかずとも、自分でお経をあげても、全く問題ないのではなかろうか・・と 別に、問題はありません。 檀家制度が確立したのは、江戸時代初期ですからね。 クリスチャンを排除する目的で、領民は「どこかの寺の檀家」となったのです。 要は、戸籍管理や役所の仕事はお寺が行っていました。 通行手形を発行するのも、坊さんの署名が必要でした。 「この者は、〇〇山〇〇寺の檀家です」 話がそれましたが・・・。 創価学会は、日蓮宗本山から破門されていますよね。 ですから、葬式などでも坊さんを呼べないので地域の創価学会幹部が読経を行います。 >漢文をきっちりと理解すること、というのは大切なこととは違うのでしょうか・・ 文学としてのお経は、一言一言が重要です。 >僧侶になられる方の意図するところは、そんなものではないのでしょうか・・・ 坊さんになろうとする方は、お経本来の意味を知る事目指しています。 哲学的な思考回路が優先するのですね。 >私のこの考えは違っていますか? 決して、間違ってはいません。 日本では、宗教戒律・解釈は自由ですからね。 例外的に、坊さんの資格を得た宗派で坊さんとして活動するには「その宗派の解釈」を信じるしかありません。 「極楽浄土は、何憶光年先の西にある」とお経に書いていたとします。 坊さんの多くは「物凄く遠い彼方に、極楽はある」と信者に説明します。 「当時の1光年は、今では何年です。西とは、何処を基準とした方角なのかは未だ不明です」とは、説明しません。 信者の方も、そこまでは期待していません。^^; まぁ、質問者さまの考え方も正常です。 疑問に思った事は、自分で経典を入手して日本語訳をする事ですね。 本屋で販売している経典の日本語訳は、宗派によって解釈が異なっていますから・・・。
お礼
とても丁寧なご回答ありがとうございます! >・・・坊さんに訊ねた事が間違いです。 >・・・坊さんは漢文学者ではありません・・ >僧侶の資格を得るための修行でも、漢文検定試験はありま>せん・・・ そうなのですね。 私はそこのところを一緒に考えてしまっていました。 >僧侶の方は、お経本来の意味を知ることを目指してい >る・・・ お経の本来の意味と、漢語の意味を理解するのとでは 確かに違いますね。 僧侶は宗教家であって、学者ではない、ということ・・・ なんとなく理解できました。 漢語を知りたいなら、経典を入手して、 自分で調べる・・・ そうですね。 そうしたい、と思います。 ひとつひとつ、丁寧にご回答頂いたおかげで、 とても勉強になりました。 心の中のモヤモヤが、晴れてきたように思います。 いろいろと難しいですが、 これからは自分なりに調べてみようと思います。 本当にありがとうございました!
- stmim
- ベストアンサー率24% (57/236)
間違っているかと言えば、個人の考えは自由ですから間違っているとは思いません。ですが、ずいぶんと極端な考え方だなと思います。 相手が完璧に知っていると思い込み、少しでも知らないことがあると、全然知らないのだなと思い込む、そんな100か0で考えるのはどうかな?と思います。把握することの精度が低いと思います。 お坊さんだったら、経文の意味は習っていると思いますが、全部わかってないかもしれないし、その聞かれた部分について忘れてしまっているのかもしれません。 そもそも、漢文の経はサンスクリット語を翻訳したものです。経文にはもともと意味のない部分もあります。はやし言葉、掛け声みたいな部分です。そこは近い音で、サンスクリット語から漢語に置き換えられていますが、意味がありません。もし、そのような部分について聞かれても意味がないとしか答えられないです。 どのように考えるのもあなたの自由ですが、物事の理解の精度を高めるようにしてはいかがでしょうか?
お礼
ご回答ありがとうございます! 少しでも知らないと、全然知らないと思い込む・・ 100か0か・・・ ・・そんなつもりは全然なかったのですが でも、ご指摘を受けて、確かにそうであったと 反省致しました・・・ これは、他の方へのお礼にも書かせていただきましたが、 その担当の僧侶に支払う法要の金額も高額であったため 私の中で、どこかこの僧侶を否定的に見ている部分が あったのではないか、と思います。 そこに気づかせて下さって 本当にありがとうございました。
- tiltilmitil
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チベット仏教ではマニ車という経文を書いた円柱がありまして、これをぐるっと回すと経文を一回唱えたと同じとされています。意味を知るどころか文字を読めなくても、発声しなくても大丈夫だと。
お礼
ご回答ありがとうございます! チベット仏教をここで知り得るとは 思いもしませんでした。 経文の書かれた円柱を回すだけで 一回唱えたと同じとされているのですか・・! そんなのがあるとは・・・ いろいろな形があるのですね。 教えてくださり、ありがとうございました。 ちょっと得した気分です(^^)
- kappa1zoku
- ベストアンサー率29% (334/1137)
ずい分ときっちりとした性格の方のようにお見受けしました。 <門前の小僧習わぬ経を読む> お坊さんの修業がどのようなものかは分かりませんが、経典のおおよその内容については勉強されているでしょうが、経文の中の語を吟味してというのは、よほどの学者さんじゃないと難しいのではと思います。 経本の訳本というか解説本を出されている宗派もあります。 僕は京都の本願寺で行った際に、時々購入します。 仏教は、インドでお釈迦様が開かれた教えですが、僕らが接するのは中国語に音訳・意訳されたものです。しかも経本はお釈迦様が亡くなった後、数百年後に弟子によって書かれたものなので、ニュアンスというか思いこみが加わっている可能性だって否定できないのです。 それに、お釈迦様は、自分のお葬式を弟子である僧侶がすることにダメ出しをしています。自分の葬式は信者に任せて、僧侶である弟子たちは修業に専念しなさいと言ったという話になっていますから、お葬式にお坊さんがくるのもおかしな話といえなくもないのです。 僕は自宅でお経を読んでいます。 お墓に行った時も、自分で読んでいます。 何が書かれているか、正直よく分かりません。 親鸞というお坊さんにであったということに感謝して読んでいます。
お礼
ご回答ありがとうございます! >経文の中の語を吟味してというのは、よほどの学者さんじ>ゃないと難しい・・・ やはり、そうなのですね・・ 僧侶の方に、学者を求めるのは違っていましたね。 お経の解説本を出されている宗派もあるのですか。 それは一度読んでみたいな、って思います。 ご自宅でお経を読まれているのですか? いつも心が澄み渡るような経験をされていらっしゃるのですね。 親鸞について、調べてみたくなりました。 ありがとうございました。
- Sakura2568
- ベストアンサー率42% (2135/5050)
お経は漢文ではないですよ? 元はサンスクリットによるもので その音声に漢字をあてはめたものです。 分かりやすく言うと 良くある落書きの よろしく=夜露死苦 と同じです。
お礼
とてもわかりやすいご説明、ありがとうございます! そうなのですね。 意味を考えること自体、違っていたのですね。 皆さんからの多くの回答を頂き、 少しずつですが、理解してきました。 ありがとうございました。
- SPS700
- ベストアンサー率46% (15297/33016)
とても考えさせられるいいご質問だと思います。僕は僧侶ではありませんがお経は乳のみ児の頃から聞きました。 読んだのは父で、赤ん坊の僕がむずかって、寝つきが悪い時、お経を読んでもらったそうで、その声の響きにスヤスヤと寝ついたそうです。 学生になって、サンスクリットの原文を『西遊記』に出てくる三蔵法師が中期中国語に訳し、それを日本式音の棒読みにした物と知りました。 その日本語訳を読むと、「私の聞いたところでは、仏陀は、どこどこで何千人を前にしてこんなことをおっしゃった」と始まるようです。 で最初の印象はあの朗々とした読経の響きからくる物憂さと荘厳さのない、平易なお話ということでした。今ではそれもいいと思っています。
お礼
ご回答ありがとうございます! お経は赤ちゃんのむずかるときにも 良いものなのですね。 私は時として、お経は魔法のようだと思うことがあります。 イライラしているときや、 悲しみに打ちひしがれているときなども 不思議とお経を唱えれば、 心が落ち着いてゆくのがわかります。 意味がわからずとも お経とはそういうものなのでしょうね・・・ 僧侶の方のお経の理解力を図るということなど まったくもって、関係のないことなのだと 少しですが、わかってきたように思います。 ありがとうございました。
- nekosuke16
- ベストアンサー率24% (903/3668)
根本の部分で違うと思いますよ。 そもそも、お経は漢字の羅列ではあるけれども、漢文ではないでしょう。 お経は、簡単に言えばお釈迦様の説法を文字に表し、それを千年単位の長きに亘って口伝、つまり、読むことによって音として伝えられてきたもの。 また、日本の仏教の歴史から考えても、平安時代からの長年に亘る飢饉や、ときに襲ってくる天変地異などの中で苦しみもがきながら生きる民衆に救いの手を差し伸べる意味で「称名念仏」という考え方が登場し、お経に書かれている文字の羅列を理解することではなく、ただ、一心にお経を唱えることで救われるとした。 つまり、お経にはたしかに解読すれば意味も浮かび上がるのかもしれないけれども、そもそものお経の目的が、単に唱えることであり、また、同時に、例えば、禅の世界では「只管打座」という言葉があるけれども、これもまた座禅をする中で瞑想にふけるとか、精神を統一するとかという複雑な意味はなく、ただただひたすら座ること。 つまり、お経の目的が読解することではなく、唱えることである以上、坊さんがその意味を深く知り尽くして解説できるというものではないと思いますよ。 たしかに、今の坊さんは昔とは違い仏教大学や駒沢などの坊さん養成大学で学んできているとはいえ、そうしたお経の意味を深く追求し、理解する者があるとしたら、お経を研究する学者ぐらいでしょうね。 そういう意味では、お経は理解するものではなく、唱えることを目的として作られた文字列に過ぎないということだと思いますよ。 日本に仏教が渡来したのは500年代ですが、平安に入ってから最澄や法然、親鸞、道元などといった今に名を残す高僧たちがそれぞれの宗派を確立しながら現代に繋がる仏教の基礎を築いてきた、今とはまったく違う1000年以上も前の時代背景というものを考えてみては如何ですか?
お礼
ご回答ありがとうございます! >お経は・・・音として伝えられてきたもの・・・ >お経の目的は、読解することではなく、 >唱えること・・・・ この言葉は、すんなり心の中に入ってきますね・・・ お経は確かに、意味が分からなくとも ただ静かに聴いたり、読んでいるだけで 心に染み入るものがあります。 それだけで良い、ということなのでしょうね。 僧侶の方が、 法要などのお経をあげられているときの 心の在り方がどのようなものであるか、というのは 仏教の歴史をひもといていけば、 理解できていくのかもしれませんね・・・ 私にはとても難しい世界ですが・・・ 勉強になりました。 ありがとうございました!
- g27anato
- ベストアンサー率29% (1166/3945)
宗教の目的は、 文章を翻訳する事ではない筈。 「法の理を説く」ことと、 「教えを伝え導く」こと。 …ではないかな。 漢文を理解するのは、 文章の意味を探る「学問」の分野であり、 説法、伝導を旨とする「宗教」とは、 …別物だろうと思う。 仏教においても、 仏陀が漢文を残したという話は聞いたことが無い。 宗教と学問の混同と思しき「嫌悪感」については、 「捉え方の違いではないか?」 としか答えようがない。
お礼
ご回答ありがとうございます! >宗教の目的は >文章を翻訳することではない筈・・・ 確かに、それはそうですよね・・ お経の文章、漢字などに あまり捉われる必要はないのですね・・・ 嫌悪感については、 宗教と学問を混同しているから 抱いてしまう気持ちなのだとわかりました。 ただ、こんなふうに嫌悪感を抱いてしまったのは 担当してくれているうちの僧侶に対してだけです。 法要の料金もかなり高額である、というのも 入っていて、そのうえでのことでしたので つい、そんな気持ちを持ってしまいました・・ 色々と考えさせられました。 ありがとうございました。
- fujic-1990
- ベストアンサー率55% (4505/8062)
きわめて正常なお考えかと思います。 私も一度、翻訳を試みたことがあるのですが、仏教用語は我々一般の字義とは異なるので、うまく訳せず、すぐ断念しました。 釈迦自身が書いたお経は存在しておらず、弟子たちそれぞれが釈迦から聞いた言葉を書き記して持ち寄っただけ。で、「如是我聞」=「私はこのように(お釈迦様から)聞いた」という言葉でお経が始まるのだと知りましたけど。その程度 (^_^;; 。 「あから」だったかな、仏典にのる「数」に由来するコンピューターソフトがでたとき、うちの坊さんになんという仏典に書かれているか尋ねたことがありますが、知りませんでした。お経を聞いていると数と思える「恒河沙(ごうがしゃ):10の52乗」「那由他(なゆた):10の60乗か72乗」という発音が混じっているように感じていたので、尋ねてみたのですが、残念なことでした。 そんなものですよ。永平寺を尋ねたことがありますが、掃除をしたり座禅を組んだりそれぞれに修行していても、仏典について座学しているわけではないようでした。 さてお経ですが、 宗派によって考えが異なるとは思いますが、我が家は浄土真宗大谷派なんですが、よその宗派のお坊さんが、 「お経はお経それ自体がありがたい功徳を持つものなので、意味はわからなくてもお経を上げる、親類縁者が法事に集まってそれを一緒に聞くことだけで意味が分かったのと同じ功徳があるのだ」 というようなことを言っているのをテレビで見た気がします。法事かなにかの時だったかもしれません。 とにかく、お経は膨大ですし、独特の字義を持った言葉の羅列ですので、自分で分かろうとするのは…お坊さんにわかることを期待するのも諦めたほうがいいかもしれません。
お礼
ご回答ありがとうございます! 正常な考えと仰って頂き、安心しました。 >お経はそれ自体がありがたい功徳を持つもの・・・ >意味はわからなくてもお経をあげたり、聴くことで >意味がわかったのと同じ功徳がある・・・ このお言葉、胸にしみました。 確かにそうなんですよね。 お経は聴いているだけで、 自分で唱えているだけで、 心が落ち着いたり、心が洗われるような、 そんな気持ちになります。 僧侶の方に、漢字などの意味を求めるのではなく 素直に心を委ねて聴く姿勢が大切なのでしょうね・・・ あまり漢字の意味や文字の羅列に気を取られるのは やめていこうかな、と思います。 ありがとうございました。
お礼
ご回答、ありがとうございます! 何度も何度も読み返しました。 何度も何度も読んでいくうちに、 なぜか感動し、涙が溢れて止まりません・・・ そして、 心の中に抱いていた嫌悪感が、 どんどん消えていくのがわかりました。 なんていうか・・・ 天上の人の言葉を聞いたような気がしています・・ 嫌悪感は邪心でした・・ うまく言葉にできませんが、 私は大切なことを忘れていたような気がします。 zen368d4nt8さんのお言葉が、 それを思い出させてくれたような・・・ そんな感動が今、私の心の中にあります。 たくさんの皆さんから 良い回答を頂き、心がどんどんたおやかになっていくのがわかりました。 そして、最後にzen368d4nt8さんからのこの回答は 私の気持ちをすっかり晴れさせてくれました。 教えていただいたこと、 教訓にしていきたいと思います。 素晴らしい言葉の数々を、 本当にありがとうございました。