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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:狗奴国)

狗奴国とは?南九州以外に位置する可能性は?

このQ&Aのポイント
  • 狗奴国は邪馬台国と対立していた倭国で、南九州以外に存在する可能性もある。
  • 纏向遺跡が邪馬台国であり、狗奴国が南九州だとした場合、北部九州まで支配していたと考えられる。
  • 纏向遺跡が邪馬台国かどうか、狗奴国が南九州以外に存在するかは、さらなる研究が必要である。

質問者が選んだベストアンサー

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  • eroero4649
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回答No.1

「くな」と「くま」は音が似ていますから、くな国じゃなくてくま国だったとか言い出せば熊野すなわち和歌山県から三重県にかけての辺りとなります。 ただ、ここは現在に至るも修験者が修行する山深い場所です。いくら古代とはいえ国家が成立するような場所ではなかったと思います。 纏向遺跡が邪馬台国だとしたら(私はそうだと思っていますけれども)、魏志倭人伝は方角を間違えているので、他の国の位置に関しても方角を間違えていてもおかしな話ではないと思います。 >纏向遺跡が邪馬台国であり、しかも、狗奴国が南九州だとした場合、纏向の邪馬台国は、北部九州まで支配していたと理解してよいのでしょうか? 纏向遺跡は全国の土器が出土していることで話題になっていますが、九州系の土器は少ないことを考えると、九州への支配力は弱かったと考えるのが自然かなと思います。 そしてそれが、もしかしたら邪馬台国(卑弥呼)の思惑だったのかもしれません。九州に大規模な反邪馬台国系の勢力があったとしたら、超大国である魏(中国)と結ぶことで大和側と中国側で九州勢力を挟み撃ちにしようと考えたかもしれません。魏からの軍事派遣というのは現実的ではなくても、魏のお墨付きをもらうことは中国本土や朝鮮半島とも交流があったであろう九州における政治的な影響力というのは大きくなると期待できたのではないかなと思います。

noname#247736
質問者

お礼

ありがとうございました。 幾多の学者先生が研究しても、結論の出ないものを、今更素人の私が、追及したいと考えたわけではないのですが、最も有力視されているという纏向遺跡も、「どうも、邪馬台国じゃないんじゃないか???」という漠然とした疑問が。

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