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赤穂浪士ってただのテロリストですよね?
タイトルの通りです。毎年この時期になると思います。 赤穂浪士ってただのテロリストやん。 アスペ気味のすぐにキレる坊ちゃん殿様がキレて殿中で刃傷沙汰を起こした、法に従って幕府が処分したら、それに不満を持つ残党が法を無視して一年以上もかけて準備をして、凶器を持って吉良邸に乱入、暴力で吉良の首をはねた、計画的犯行ですやん、 名誉の切腹どころか、打ち首獄門モノですやん。それを何で毎年ドラマ仕立てで美化するの?吉良公は地元では心優しい名君だったそうです。その吉良公を守ろうとして浪士どもと戦い力尽きた吉良公の部下達の無念は一体どこに?全無視ですか? そろそろ日本人こんなのやめたら?と思うのは、私だけでしょうか?
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- eroero4649
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>「じゃ何で逆に47人しかいなかったわけ?」 >とは思いますね。 おっしゃるとおりで、四十七人しかいなかったんです。逆にいうとね。そもそも大石内蔵助自身がそこまでやる気があったのか微妙なのです。大石内蔵助は義憤でやったというより「誰かがやらないと、武士の体面が保てない」という理由で「他に誰もやりそうにないから、俺がやらないといかんのだろうな」というある種の責任感でやったんじゃないかと私は思っています。 だから大石内蔵助は「ちゃんとやった」のだと思います。収支報告書もちゃんと残っているんですよね。「武士としてやらなければならない事業」として討ち入りを行ったのです。 >討ち入りに加わらなかった浪士の中には、 >「ありゃウチの殿様が悪いわ。あれじゃ仕方ない。あれで討ち入りに参加したら、ただの逆恨みにしかならん」 >と思った人たちも、それなりに居たんじゃないかなあ? 討ち入りに参加した浪士以外はおおむねそう思っていたんじゃないかなと思います。 ただ、当時の武士の価値観としては「喧嘩両成敗」ですから、赤穂藩だけが一方的に処分されるのは「それは不公平だ」という不満はあったと思います。 あとね、あまり知られていないですが、実は討ち入りの数日前に行方をくらました人が2人いるんですよ。もしかしたら「四十九人だと縁起が悪いから遠慮した」かもしれませんけど・笑。やっぱり土壇場になって怖くなったのでしょうね。 どちらかというと元赤穂藩士の多数派としては「仇討ちより御家再興」だったのです。そっちのほうが現実的ではありますね。 実際、討ち入りなんていう物騒な手段をとったのは赤穂浪士が「最後」でしたからね。個人レベルの仇討ちはありましたけれど、集団レベルの仇討ちは起きませんでした。 でね、討ち入らなかった元赤穂藩士にとっては、その後は地獄だったようです。 「あちらの人たちは立派に本懐を遂げたのに、アンタは討ち入りに参加しなかったんでしょう?赤穂藩士なのに」 いかにも田舎の日本人がいいそうなことじゃないですか・笑。「それでも武士か」って滅茶苦茶批判されたらしいです。もちろん、そんな「意気地なし」を雇ってくれる藩などあるはずもなく。だから討ち入らなかった人たちは四十七士を「余計なことをしてくれた」とかなり恨んでいたようです。それが外でいえないぶん、恨みもまた大きかったでしょうね。
- head1192
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まあ実際微妙なんだけどね。 彼等にも名分があった。 「亡主の仇を引き継ぐ」 仇討ちは尊属殺人だけでなく主人の意思によっても成り立つ。 上意討ちのケースである。 浅野が討とうとした時点で吉良は家来にとっても仇となり、是が非でも討つべき対象となった。 実際赤穂浪士の内入り前の口上書にもそう書かれている。 それによると。 彼らはなぜ浅野が刃傷沙汰に及んだのか分かっていなかった。 しかし幕府の沙汰だから主人の切腹は認めたし改易にも従った。 しかし吉良が仇であるというのはそれとは別の話である。 亡主が討とうとして果たせなかったのだから家来はその遺志を継がなければならない。 だから仇を討つ。 大衆も武士もそれが分かったから彼らの行為をもろ手を挙げて称賛した。 歌舞伎のネタにまでなった。 いわば、制度と制度の隙間にはまり込んだ事件と言える。 実際、赤穂浪士の討ち入りから49年後、城中で板倉が細川に切りかかるという事件が起こった。 その時は綱吉や家重が手を回し、板倉が細岡輪に討ち入る可能性を摘み取ったと言われる。
- yaasan
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>「嫌なら見るな、好きに解釈しろ」 >そう言われちゃったら、何の議論も発生しませんね。 悲しいかな、それなら私がわざわざ書く意味がないじゃないですか。まったく逆の話ですよ。 私はあなたと違ってこういう風に解釈しています。あなたがそれを見て、どう感じるかは自由です。なるほど、と思っていただけるなら嬉しいですが、テロリスト呼ばわりまでして毛嫌いされているようですから、無理に同調してくれとは言いません。考えを変えないようでしたら、後は個々の自由なので、見たくないと言うなら、見ないほうがいいのではないでしょうか、って話です。議論はしていますよ。強制をしないだけ。あなたの意見に強制されるのもごめんです。 議論になるための材料は用意しました。それを見て、どう思うか、です。私はあなたの意見には同調できないので、反対材料を並べました。後はお好きにどうぞ、って持っていってるのですよ。あなたがおかしいと言ってもいいですが、その言い方のほうが議論にならないでしょう?
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- yaasan
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テロリストの意味はテロリズムを信奉する人、となっています。では、テロリズムとは政治的目的を達成するために、暗殺・暴行・粛清・破壊活動など直接的な暴力やその脅威に訴える主義。テロ。と書かれています。赤穂浪士に政治的目的はなかったと思いますので、テロリストとは違うと思います。純粋に復讐者でしょう。 すぐキレる坊ちゃんがキレて刃傷沙汰を起こした、というのは解るように吉良に煽られて、です。我慢しなければならないのが侍なら、そこまで馬鹿にされたら、法を犯してでも面子を保たなければならないのも侍です。そういうジレンマに落として、いずれを取っても武士の恥になるような道を作った吉良に怒って復讐しようとしたのは主人の敵を討つのも侍の道だからですね。 そして、当時は復讐は罪にならなかったのですよ。仇討ちは正確には届けが必要だったと思いますが、復讐する事は推奨されていた時代でした。だから、仇討ちして立派だという事になったんです。正式な仇討ちじゃないので、全員切腹して責任取りましたけど。 吉良の部下も仇討ちしたければすればよいのですが、死んだ人も多いし、現に相手はしばらくして切腹したから、相手がいないってだけです。連鎖が途切れたんですから、どうしようもないですね。 後は物語ですから、個人の勝手な解釈で好き嫌いを言ってればいいだけかと思います。見たくないなら見なければいいだけだと。三匹の子豚で、襲いに来る狼が悪いのか、惨殺する子豚はどうなのか、好きに解釈していいと思いますよ。
お礼
ありがとうございます。 「嫌なら見るな、好きに解釈しろ」 そう言われちゃったら、何の議論も発生しませんね。 以前出張で兵庫県に行き、播州赤穂駅の赤穂浪士のモザイクを見ました。 見て正直、引きました。 この町の人は子どもらに、赤穂浪士を一体どう教えてるのだろう?と思いました。 まあ、 「嫌ならその町に行くな、好きに解釈しろ」 そう言われるのでしょうね。
- eroero4649
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確かに現代の我々の感覚ではテロリストなのですが、「武士」の価値観というか、当時の人々の正義感からするとあれは「忠義」なんですよね。 まず当時の価値観で「仇討ち」は絶対正義だったのです。江戸時代には仇討ちって時に無理矢理やらされることもあったんです。「武士なら仇討ちするもんだろうよ」と半強制的に仇討ちの申請をさせられて「よしッ、仇討ちに行ってこいッ!」ってやらされた人が結構いたんですよ。それで仇討ちの名目で江戸をウロウロして(ロクに相手も探さずに)一生を終えたり、中には遠く離れた場所で町人になってしまった人なんかもいたのです。一度仇討ちに出たら、本懐を遂げるまで帰国は許されませんでしたからね。 赤穂浪士の皆さんも、そんな感じで「なあ、お前らも仇討ちするんだよな?な?」と迫られた一面もありました。 なにしろ、そもそもが吉良邸が江戸城に近い場所から、辺鄙な郊外に引っ越しさせられています。元の場所は江戸城のすぐ目の前で、さすがに将軍の目と鼻の先で戦さをするわけにはいかないじゃないですか。わざわざ幕府がおぜん立てまでしてくれています・笑。 それで当時の江戸市民も「討ち入りはやるのかな」とか「どうも赤穂浪士が江戸に入ったらしいぞ」と噂をしあっていたのです。「いよいよか」「来るか、来るか」って楽しみにしていた。 しかも当時の江戸というのは今でいうと戒厳令みたいなもので、夜間の大規模な外出は禁止されていたんです。木戸という門が閉められて、夜は木戸番に鍵を開けてもらわないと通れないようになっていました。 赤穂藩は江戸火消しをやっていたことがあるので、一度に集まらずに各地から「火消しの見回りだ」という名目で数人単位で集まってきたから木戸番に怪しまれなかった、という体になっています。 でもね、木戸番だって一目見れば火消しじゃなくて武装してるって分かります。みんな鎖帷子を着ていたから歩いたらジャラジャラ音がするしその音が何であるかは当時の人なら「鎖帷子を着ているな」と分かるわけです。槍を持ってる人もいたわけで、なんで火を消すのに槍を使うんかなわけですよ。だけどみーんな「ご苦労さまでございます」とかなんとかいって、通しちゃったわけです。心の中で「キターーーーーー!」とか思ってるわけですよ。 おまけにお隣の土屋主悦さんは討ち入りが始まると提灯を掲げました。芝居でも提灯を掲げて「逃げてくる者があれば射殺せ」と家臣に命じる場面がありますが、提灯を掲げたのは本当らしいです。 急に提灯なんて用意できるわけがないんだから、土屋さんとこではわざわざ提灯を準備してたわけですよ。 また討ち入りを果たした後で一行が泉岳寺に向かう途中、ある店が浪士たちに甘酒を振舞っています。 早朝にね、ガスもない時代に暖かい甘酒を四十名分なんてすぐ用意できないですよ。「吉良邸から泉岳寺に向かうならウチの前を通るだろう」と用意して待っていたってことですよね。 なお、吉良上野介は打ち首にはされていません。負傷して捕まっており、そのときに小刀を出されて切腹を迫られています。切腹以外に選択肢はないのですけれど、これによって武士の価値観としては吉良上野介の名誉は保たれたことになります。 赤穂浪士が全員切腹になったのも、彼らの名誉を保つためです。 >その吉良公を守ろうとして浪士どもと戦い力尽きた吉良公の部下達の無念は一体どこに? 真冬の早朝のことでございましょ?布団から出るのは億劫じゃないですか。当時の吉良家では用心棒として多くの腕の立つ武士を雇っていたのですが、討ち入りが始まったら怖いし寒いしでみんな布団から出てこなかったんですよ(本当)。 そして浪士は助太刀を防止するために雨戸にカスガイを打って出られないようにしました。どうやらそれをいいことに「いやー、助太刀に出ようと思ったのですが、雨戸にカスガイを打たれていたので開けられなくて助太刀に行けませんでしたー(棒読み)」とみんな出てこなかったのです。 ついでにもうひとつ面白いお話を。 幕末の戊辰戦争のとき、千葉県の木更津あたりにあった請西藩という藩に林忠崇という二十歳の若いお殿様がいました。鳥羽伏見の戦いで幕府軍は敗北し、徳川幕府は敗色濃厚。藩は恭順するか抗戦するかで意見が割れます。 林忠崇は青年なので「主家である徳川家に忠義を尽くすのが武士である」と思いましたが、抗戦すると最悪藩は戦場になり、領民が苦しむ。しかし恭順すると武士道が立たない。 悩んだ忠崇は、なんと「藩主が脱藩する」という前代未聞の行為をしました。脱藩し、武士道を貫くことにしたのです。 忠崇はその後各地で転戦しますがご存知の通り戊辰戦争は徳川幕府の敗北。忠崇も辞世の句を用意して切腹を覚悟しますが、周囲のとりなしなどもあって新政府に降伏することになりました。 さて、困ったのは新政府です。敵軍の指揮官なのだから、本来ならば殺さないと収まらない。けれども「最後まで忠節を貫いた」わけですからこれが武士の鑑といわずなんというかでもあるわけです。結局武士道を曲げるわけにいかず、忠崇は紆余曲折の末に華族(元武士)として名誉が回復されることになります。 忠崇はその後明治、大正どころか昭和まで生き、なんと「最後まで生き残ったお殿様」となりました。数え年94歳で大往生を遂げましたが、辞世の句を求められると「明治元年にやった。今はない」と返したそうです。シビレるほどカッコいいですね。
お礼
うーん、なるほどなあ・・・という感じです。 ただ、赤穂には当然47士と同じように禄を失い浪人になった家来が一杯いたわけで、赤穂浪士も引くに引けないとはいえ、 「じゃ何で逆に47人しかいなかったわけ?」 とは思いますね。 討ち入りに加わらなかった浪士の中には、 「ありゃウチの殿様が悪いわ。あれじゃ仕方ない。あれで討ち入りに参加したら、ただの逆恨みにしかならん」 と思った人たちも、それなりに居たんじゃないかなあ? とは思いますね。そんなに討ち入りが武士の正義なら赤穂47士じゃなくて、赤穂1,000士くらいになってもおかしくない、でも事実はたったの47士だった。 大石内蔵助が、 「我らは討ち入りなどせぬ!笑いたくば笑え!」 と言い放って実際に討ち入りをしなかったら、歴史は彼をどう見ただろうなあ?とは思います。
- staratras
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この討ち入りの発端となった江戸城内の刃傷沙汰については、現在に至るまで動機がよくわかっていません。義央が長矩に賄賂を贈らなかったから意地悪をされたなどというのは想像で作られた話らしく、当時の確実な史料にはなく、大石らもそのようなことは主張していません。 しかし当時の武士は自分が直接仕えている主君に対する忠誠を何より重んじていました。この立場からは、理由のいかんを問わず主君浅野長矩が吉良義央に切りつけて殺そうとしたが果たせなかったことが重要であって、その主君が「果たせなかったこと」を家臣が代わって実行したのが討ち入りです。 これはいわゆる「敵討ち」というにはあたらず、むしろ一種の「自力救済」(喧嘩の延長)と見るべきでしょうけれど、当時の幕府内でも在野の学者の間でも浪士の評価が分かれました。主君浅野長矩に対する忠義という立場からだけ見れば「立派な行い」で、この点を高く評価する者がいたことは当然です。 しかし時はすでに戦国の世ではなく、幕府という日本全体を治める中央政府が存在していました。幕府の立場から見れば、主君の私怨のために、集団で幕府高官の屋敷に押し入って吉良義央らを殺傷したのは、この時代なりの「幕府による法と秩序」に対する挑戦に他ならないと、ご質問者さまのように冷静に考える者もいました。 結局浪士に切腹を命じることになったのは、吉良家の断絶とあわせて遅まきながら(当初の刃傷沙汰の際には実行されなかった)「喧嘩両成敗」の慣習法を尊重する態度を示したものと考えることができますが、江戸の人々が浪士の討ち入りという行為を高く評価したことも背景として無視できません。江戸時代であっても時の政権は「世論」を無視することはできなかったとも考えられます。 結論としては、事件当時も現在も「美談」と考える者もいれば、そうは考えない者もいるということになるでしょう。テロリストと呼ぶかどうかは定義次第ですが、「主君の恨みを晴らすための殺害」というだけでは「政治的理由による暗殺」とはいえず、これをどう考えるかでしょう。 またその後「仮名手本忠臣蔵」のお芝居をはじめ多くのフィクションが人気を博したため、ますます「史実」と「創作」が渾然一体となって事件そのものの評価を難しくしてしまいました。ただし回答者個人は「美談」ではなく、時代の転換期にその流れからやや遅れた者たちが亡き主君に忠義を尽くしたが故の「悲劇」ではないかと考えます。とりわけ被害者であるはずながら悪役視されている側にとってはご指摘の通り悲劇そのものです。三田村鳶魚は次のように述べています。(以下引用) …『忠臣蔵』の勢力は実に偉大なもので、赤穂浪士復讐に関係のある人物及び事柄の批評観察は、一切ここから打算される。自分が吉良義央の事跡を稽査するについても、世人は芝居の『忠臣蔵』から観察して、予断的に吉良義央を品騭するのを遺憾とする。…(「『忠臣蔵』の師直」)
お礼
ありがとうございます。 うーん、 他の方への回答にも書いてしまいましたが、法や秩序を超えて、そこまで仇討ちが正義であったなら、 「じゃ何で逆に47人しかいなかったわけ?」 とは思いますね。 思うに討ち入りに加わらなかった浪士の中には、 「ありゃウチの殿様が悪いわ。あれじゃ仕方ない。あれで討ち入りに参加したら、ただの逆恨みにしかならん」 と思った人たちも、それなりに居たんじゃないかなあ? とは思いますね。さすがに赤穂3,000士は無理でも、赤穂1,000士くらいになってもおかしくない、でも事実はたったの47士だった。 大石内蔵助が、 「これは甚だ遺憾ながら我が殿の落ち度である!我らは討ち入りなどせぬ!笑いたくば笑え!ワシを恨むならワシを斬ればよい!!!」 と言い放って、実際に討ち入りをしなかったら、歴史は彼をどう評価しただろうなあ?とは思います。
- 戦艦みかさ(@mikasa1905)
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同感です! ただ、武家同士の揉め事で他の人には危害を加えてないので、テロリストとは違うと思いますが、おっしゃる通りだと私も思います。 仇討ちに関しては当時の武家の習わしとして認められていたし、推奨されるものでしたが、浅野内匠頭は吉良に殺されたわけじゃないし、動機はともあれ一方的な刃傷沙汰に及んだのは浅野だし、ケンカ両成敗にならなかった不満から家臣達が吉良を襲うのもおかしい。だってケンカにすらなってないのだから。 と、この話しが事実かフィクションか、それらが混ざっているのかわからんけども、物語として江戸時代にはエンタテイメントとして成立したかもしれないけど、現代の感覚ではサッパリ共感できません。 まぁ最近の忠臣蔵の描かれ方は、単純な勧善懲悪的なものではなくなってると思いますが。 ちなみに、是枝監督の「花よりもなほ」で描かれる赤穂浪士の仇討ちの描かれ方と主人公の生き様がすごく面白くて大好きな映画です。
- 2012tth
- ベストアンサー率19% (1893/9468)
61歳男 > 赤穂浪士ってただのテロリストですよね? 時代的な背景も…テロリストなのに英雄に祀り上げられた 人かな? > 法に従って幕府が処分したら コレも…当時の法だと処罰対象に為らなかったので特殊法 まで作り無理矢理に処分したが正解です。 当時の赤穂って "国の塩" を独占製造して、価格も設定して 何かに付けて国に文句を付けていた事から政府が目の敵に していた。国の政治を影から操っていた。 なので無理矢理に刑罰を作り、処分したが正解です。 但し、この後…諸侯から政府は突き上げられ、更にミカド 当時の天皇陛下から…自身の作った法律を無視したとして 幕府 (当時の政府) は、糾弾されて将軍 (当時の指導者) は、 処罰されて強制的に代替わりさせられました。 一応、当時の将軍は病気持ちだったので生前中に強制的に 首切り、息子 (未成年者) を跡目にしています。
お礼
ありがとうございます。 幕府が赤穂の塩の権益を狙って吉良を利用したとか、吉良が赤穂の白い塩の秘密を探ろうとした、とかありますね。 まあ、複雑に絡み合ったものも、あったのでしょうね。
- もこ猫ミクにゃん(@miku-chi)
- ベストアンサー率31% (3132/9928)
実際にあった事件と創作劇を同一視するのは良くないですよ。 注目すべきは何故逆恨みによる襲撃殺害事件を仇討ち美談として伝わってしまっているかです。 まず、赤穂事件が発生した時代は100年ほど戦が無い平和すぎる時代で、民衆達にとって「武士」「武士道」は物語の中の「フィクション」のような存在になっていました。 そして、娯楽である歌舞伎や人形浄瑠璃などは「仇討ち」モノが人気だったようです。 また、ニュースは瓦版だけではなく、歌舞伎などの劇で時代設定や人物名を変えるなどして伝えていました。 そんな中での赤穂浪士による吉良邸襲撃事件。 その原因や詳細は民衆に伝えられず、リアル武士!リアル武士道!リアル仇討ち!!と大フィーバーしてしまったわけです。 しかも四十七士の中には若くてイケメン(フィーバーフィルター?)がいたものですから。 即「赤穂事件」を模した劇を作られてはお上の目に触れて公演中止を繰り返し、そうしているうちに、どんどん被害者の吉良義央こと吉良上野介は悪人に、加害側の赤穂浪士は忠臣の鏡として伝えられてしまいます。 そして歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」が大ヒット。 客入りが悪いと「忠臣蔵」を出すと満員御礼になるほどの大ブームになりました。
- jrn700
- ベストアンサー率18% (251/1372)
お邪魔します 確かにそうなのですが、あくまでも「ドラマ」としてみたら如何ですか? 主君の無念を晴らすという「ドラマ」ですから。 史実がどうのこうのではないと思います。 暴れん坊将軍や、大岡越前のノリで見ましょう。
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お礼
なるほど・・・です。 乗せられて浮かれてるのは庶民であり、今の時代の庶民であり・・・という感じですね。 当時それが法と秩序を超えて正義だった、 でも今は?とは思いますね。