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五品江戸廻送令。

江戸幕府が1860年(万延元年)に発令した、五品江戸廻送令は、生糸・雑穀・水油・蝋・呉服を対象としています。 生糸・水油・蝋を統制した理由は分かるのですが、雑穀・呉服を統制したのはなぜですか。 統制してほしいとの要請があったのですか。 雑穀・呉服はどこへ輸出していたのですか。 雑穀とは、具体的に何ですか。「そば」「粟・稗」ですか。 「呉服」とは何ですか。今の「着物」ですか。「男もの」「女もの」ですか。 実用品としてではなく、「美術品」として西欧へ輸出されていたのかな、と想像しています。 いっぱい質問しましたが、どれか一つでもよいですから教えてください。 よろしくお願いします。

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  • fumkum
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回答No.2

蝋は当時の鉄砲の薬莢が紙を用いており、それに蝋を塗って、防湿と円滑剤としていたことによります。なお、しばらくして紙製薬莢の時代は終わります。 紙製薬莢 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%99%E8%A3%BD%E8%96%AC%E8%8E%A2 雑穀ですが、食料として使用されますが、馬糧としても用いられました。当時は自動車がありませんので、行軍や物資の輸送に馬はなくてはならないものでした。なお、雑穀は一般に、米・小麦・大麦を除く穀類、豆類、ソバなどの準穀類、ナタネ・エゴマなどの種を含んでいます。ただ、江戸時代では大麦は雑穀に含んだのではと思います。 糧秣(後代の日本陸軍の制式で、馬糧には大麦を用いている例です) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%A7%E7%A7%A3 上記のように、蝋と雑穀は軍需物資の一面を持っています。中国の太平天国の乱は一旦沈静化していたものが、1859年ごろから太平天国軍が盛り返し、1860年には上海の外国租界を攻撃するまでになっています。その後も清朝と太平天国軍の戦闘は続き、さらに外国人傭兵隊の参戦、英仏等の駐留軍の増強などもあり、軍需物資の需要が急増します。 呉服は生糸を織り上げてできる反物のことも指します。生糸という原料で輸出するか、反物という半加工品で輸出するかの違いです。美術品・土産品としての着物もないわけではないでしょうが。ところで、意外でしょうが欧米でも生糸を生産していて、中世ではイタリアが中心でしたが、近代初期の欧米では、絹の生産がほぼ*フランスの一部にしかなく、その他の繊維製品は、羊毛・綿・麻などで、絹は高価ではありますが着心地のよさ・風合などが好まれており、高い需要がありました。そのため、生糸は明治期も日本の重要な輸出品でした。 ただ、呉服が五品に加えられたのは、他の四品とは性格を異にしていて、呉服自体の貿易量が多いわけではなく、貿易による生糸流通量の減少が、各地の絹織物産地での原料不足と、原料・製品の高騰をもたらし、江戸への流入が減少したことが大きいとされます。 *フランス=当時(1865年ごろ)の生糸の生産量は疫病の流行で減少し、年間5500トンほど。 水油ですが、これは菜種油を指します。日本での用途は主に灯火用の油です。欧米でも基本は同じです。話は飛びますが、当時行われていた欧米特にアメリカの捕鯨は、鯨油を採ることが目的で、鯨肉はほとんど捨てていました。鯨油は、灯火用、工業用、食用と用いられましたが、電気灯はなく、ガス灯は普及していませんので、灯火用が最も多い需要でした。日本でも鯨油も灯火に利用されましたが、菜種油・鯨油・魚油(主にイワシ)の順に粗悪と考えられています。原因は臭いと黒煙(煤)です。 ところで、「五品江戸廻送令」の本文は次のようになっています。 神奈川御開港、外国貿易仰せ出され候ニ付、諸商人共一己の利徳に泥(なず)み、競而(きそって)相場せり(本来は、ヘンが「出」の下に「米」、ツクリが「曜」のツクリ)上げ、荷元を買受け、直ニ御開港場江相廻し候ニ付、御府内入津の荷物相減じ、諸色払底ニ相なり、難儀致し候趣相聞候ニ付、当分の内左の通り仰せ出され候。 一 雑穀 一 水油 一 蝋 一 呉服 一 糸 右の品々ニ限り、貿易荷物の分者(は)、都而(すべて)御府内より相廻し候筈ニ候間、在々より決而神奈川表江積出し申す間敷候。云々 諸商人=在郷商人を指すとされます。 荷元=商品 諸色=諸式とも。いろいろな品物。転じて物価のことを言う場合があります。 幕末に神奈川で外国貿易を開始する以前には、商品の流通の大道は、大坂に全国の商品が集まり、そこから全国に分散されることでした。江戸へも多くは大坂より運ばれ、問屋を通じて小売にまわされるようになりますが、江戸も中期を過ぎると幕府の奨励策もあり、江戸周辺の地廻に醸造業などの産業が隆盛になり、江戸へ直接商品を送るようになります(江戸地廻経済圏)。さらに、利根川を遡って江戸に商品を運ぶルートも開設されて、米を中心に東北の太平洋側の地域の商品が直接流入します。 神奈川で外国貿易を開始すると、取引の値段が高いために、在郷の商人は品物を直接神奈川の開港場に運び、取引するようになります(「荷元を買受け、直ニ御開港場江相廻し候ニ付」)。そのために、江戸の問屋に送られる商品の量が減少します。特に上記の五品は貿易に廻される(取引量が多い)ために、極端に品薄になり(「御府内入津の荷物相減じ」)、値上がりしただけでなく、他の商品(諸色)の品薄となり、値上がりも誘導します(「御府内入津の荷物相減じ、諸色払底ニ相なり」)。このように、従来の日本国内の流通経路が壊され、商品の流通が円滑に行われないようになります。そこで、江戸の問屋の要請を受けて、物価の安定のために「五品江戸廻送令」を発布し(「御府内入津の荷物相減じ、諸色払底ニ相なり、難儀致し候趣相聞候ニ付」)、五品は一旦江戸の問屋に運び、その後開港場に運ぶように命じます(「貿易荷物の分者(は)、都而(すべて)御府内より相廻し候筈ニ候間」)。また、幕府も、天明の打ちこわしの再来を怖れたとも言われています。 ともかくも、この法令は、自由貿易に反するとの列国の反対と、江戸の問屋に商品を搬入することにより問屋の支配を受け、利益が減じることになる在郷商人の反対・不服従により、実効性は上がらなかったとされます。 江戸地廻り経済 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%9C%B0%E5%BB%BB%E3%82%8A%E7%B5%8C%E6%B8%88 天明の打ちこわし http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E6%89%93%E3%81%A1%E3%81%93%E3%82%8F%E3%81%97 ところが、近年では以上の考え方だけでなく、幕府の積極的な政策展開を指摘する学説が主流になっています。つまり、全国の商品取引と貿易を幕府の統制下に置こうとしたのが真の目的であるという考え方です。 全国の商品取引に関してですが、実は神奈川開港以前に全国流通網は綻びてきていたとの説が有力になっています。上記しましたように、江戸への商品流通に関しても、地廻り、利根川舟運関連の商品は大坂を経由しません。特に影響が大きいとされているのが、雄藩、特に長州藩による政策が代表的ですが、北前船の藩内の港への寄港を促進するだけでなく、藩内の港での商品の取引を促進させ、従来の大坂への集中と、大坂からの分散という商品の流通に対し、商品を長州でカットし、長州から各地への分散という流れを作り出しつつありました。そのため、幕末に大坂への商品流入が減少し、大坂の経済的な力は相対的に下降し、景気は後退したとされています。そのために、大坂に代わり、江戸に商品を集中し、江戸より開港場を含む各地に分散するとする政策の一歩だとするものです。 貿易に関しては、列国との貿易商品を、江戸の問屋を通させることにより、幕府は膝元の江戸の問屋を通じて、貿易量と価格を管理し、実質的に長崎の出島貿易と同じような状態に置こうとしたとの考え方です。そして、大名、特に雄藩の流通・貿易への関与を監視・統制しようとしたともされます。 これを、高校の教科書等では、「幕府は、物価抑制を理由に貿易の統制をはかり」(山川出版『詳説日本史』)、「幕府は五品江戸廻送令を出して商品流通と貿易を幕府の統制下におこうとしたが」(山川出版『詳説日本史史料集』の解説部分)としています。ですから、「商取引の自由を主張する列国の反対」(『詳説日本史』)があったのは、むべなるかなです。 江戸幕府の官僚(旗本)は、現代の官僚のもとなので、外圧を利用し、真の目的を隠して政策を遂行しようとする姿は、現代の官僚を彷彿とさせますし、政策を遂行するための有効な手段ではありますが、幕府自体の勢威が内外で下降している中では実効性が上がらなかったとも考えられます。 以上、参考まで。 なお、直前の若杉参謀の件について、主任者某官が分からないですね。該当すると思われる者に、1944年の1月5日以前に戦死したものがいないようなのです。主任者ということなので士官学校・陸大卒業の佐官・将官クラスを見ても、もともと戦死が少ない上に、日華事変や汪兆銘工作に携わった人物の戦死は、1944以前にはいないようなのです。影佐禎昭か今井武夫のことを戦死として言っているのではと考えてもいます。特に今井は、汪兆銘を大変尊敬し、工作に直接かかわっていますが、国民政府(南京汪兆銘政権)の樹立を失敗だったと断じています。また、その後に桐工作にもタッチし、重慶国民政府との直接交渉の道を探っています。でも、戦後まで生存しています。

kouki-koureisya
質問者

お礼

詳しいご回答ありがとうございます。 よく解りました。 ここで言う雑穀とは“馬の餌”と理解すればよいのですね。 馬の餌と言えば秣(まぐさ)しか思いつきませんでした。 大麦を餌として輸出していた可能性が大ですね。 私は、「そば」から離れることができず、そばの“つなぎ”としての小麦を思いついたのですが、 小麦を雑穀とするなんてとんでもないことでした。 呉服とは反物を含むということですね。 それならよく分かります。 山川出版『詳説日本史』(1999年3月発行)を持っています。『詳説日本史史料集』はありません。 次の一節を読んで、江戸の住民が物価高騰にたまらず声を上げたとすれば、雑穀とは「そば」だろうと思って質問しましたが、的外れでした。 「さらに流通面では輸出に生産が追いつかず、在郷商人が問屋をとおさずに商品を開港地に直送したので、江戸の問屋を中心とするこれまでの特権的な流通機構がくずれ、物価も高騰した。」 >ところが、近年では以上の考え方だけでなく、幕府の積極的な政策展開を指摘する学説が主流になっています。 >つまり、全国の商品取引と貿易を幕府の統制下に置こうとしたのが真の目的であるという考え方です。 >貿易に関しては、列国との貿易商品を、江戸の問屋を通させることにより、幕府は膝元の江戸の問屋を通じて、貿易量と価格を管理し、実質的に長崎の出島貿易と同じような状態に置こうとしたとの考え方です。 >そして、大名、特に雄藩の流通・貿易への関与を監視・統制しようとしたともされます。 新しい見解が主流になりつつあるのですね。大変参考になりました。 丁寧なご回答に感謝申し上げます。 若杉参謀の件についてもヒントを下さってありがとうございます。 『国府をつくったのは自分の一生中の最大の失敗であった』と言ったのは誰ですか、という疑問ですから、今井武夫がどのような認識の下に言ったのか、調べてみようと思います。

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  • ithi
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回答No.1

kouki-koureisyaさん、こんばんは。 統制してほしいとの要請があったのですか。 誰かの要請を受けたのではありません。 江戸の方に回す頼外国人居留地、すなわち横浜へ送ったほうが高く買ってくれるので、そちらへ優先的に品物を流したため、江戸での物価が暴騰したため、それを抑えるために発令しました。流通市場が混乱を起こしたのです。 雑穀・呉服はどこへ輸出していたのですか。 雑穀・呉服を統制したのはなぜですか。 雑穀と蝋は近くの中国で太平天国の乱という清国内の内乱にイギリス・フランスが本格的に介入することになり、必要物資として購入するようになったためです。呉服は主に海外ヨーロッパへのお土産のような輸出用でしょう。 雑穀とは、具体的に何ですか。「そば」「粟・稗」ですか。 大体そうです。 「呉服」とは何ですか。今の「着物」ですか。「男もの」「女もの」ですか。 呉服といっても、絹織物の総称だそうで、必ず着物というわけでもないようです。絹の反物とか…後はデザイン的に男、女どちらも輸出したようですが、大体は女ものだと思います。デザインが派手ですしね。 詳細は下記のURLを参照ください。 雑穀 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%91%E7%A9%80 呉服 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89%E6%9C%8D 五品江戸廻送令 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%93%81%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%BB%BB%E9%80%81%E4%BB%A4

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 呉服については分かりました。 雑穀については、「そば」なのか「粟・稗」なのか、つまらないことに拘っています。 江戸の問屋商人らが自分たちの問屋を通せ、と要望したのですから、多分、「そば」ではないかと思っています。 江戸の住人は「そば」が大好きで、消費量も多かったでしょうから、品薄になってそばの値段が上がっては困ります。 しかし、食糧難の清国へ輸出したのなら、「粟・稗」もありかな、と思ったりしていました。 でも、「粟・稗」が品薄になっても江戸の住人は困らなかっただろうと考えると、「そば」「粟・稗」以外の雑穀、例えば「小麦」なのかな、と混乱してきました。 小麦は「うどん粉」にして、「そば」のつなぎに用いますから、品薄になると江戸っ子は困ります。 つまらぬことに深入りせず「そば」で納得しようかな、と思っています。 歴史を楽しんでいます。