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お花見について

お花見は昔から現在に至るまで歴史がとても深いものですが、昔の花見(平安時代や鎌倉時代くらい)から現在の花見の変遷をみて、これからの(未来の)お花見像はどのようになると思いますか?想像でかまいませんのでこんな感じになるんじゃないかなど教えてください。

みんなの回答

  • Nakay702
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回答No.3

>昔の花見(平安時代や鎌倉時代くらい)から現在の花見の変遷をみて、これからの(未来の)お花見像はどのようになると思いますか?想像でかまいませんのでこんな感じになるんじゃないかなど教えてください。 ⇒「卒業論文」のくだりでも書きましたが、「花見」の魅力は、「須臾にして消え去るものへの哀惜の念」、「美しく、かつ、はかないものをいとおしむ気持ち」などによって増幅されるところがありますね。続いて、「美しくもはかない桜にこと寄せて、人生のはかなさへの想い」などの情操面に関わっていくことも自然の流れと言えるでしょう。 古来、日本人は事あるごとに桜を愛で、桜を詠んできましたね。「三日見ぬ間の桜かな」、「散る桜 残る桜も 散る桜」、「花の色は うつりにけりな いたづらに 我が身世にふる ながめせしまに」、「花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり」…などなど、感動的な詠歌がたくさんありました。 おっと、「未来のお花見像はどのようになると思いますか」とのお尋ねでしたね。 「バレンシアの火祭り」で美しい造形や花火を間近に見ながら、つらつら思ったものです。花見や花火には何か共通点がある。我々は、一種愛惜の念をもってそれをいとおしむところがある。なぜか。おそらく、一つには、それが「一瞬で消える」からであろう。ということは、将来もしハイテクか何かで、季節はずれの桜や散らない桜ができたら、ちらっと見るくらいはするかも知れないが、あまり感慨を込めて花見をするということもなくなるかも知れないなあ。あるいはまた、(ロボットの人間化と同時に)人間のロボット化が進んで、花見を賞賛する心的態度なども消えてしまうようなときが来るかも知れないなあ、などと想像していました。 ということで、残念ながら、生活美学の観点から考えて、今後花見の風習が好ましい方向に変化することは考えにくいように思います。「冬来たりなば、春遠からじ」というように、花見の祝宴には、暖かい春の到来を寿ぎ、喜ぶ気持ちが伴いますね。ところが、これまた、温暖化などの環境変化で、気温が上がって桜が咲かなくなるとか、冬でも寒くなくなったりしたら、暖かい春を歓迎する気持ちなども消えてしまうかも知れませんね。このまま温暖化が進んだり、公害が広がったりすれば、春の季節感、桜の趣き、花見の風情などが消えゆくことは、まったくもって想像に難くありません…。 しかし、それでもなお、日本人が日本人である限り、花見を愛でる気持ちは変わらないでしょう。少なくとも、一部の人なりと、心のどこかにそういう気持ちは温存されるはずです。私は、それを大事にしたいと思います。そして、できるなら、全身を目にし、全身を耳にして、できるなら、野立てのお茶でもすすりながら、さらにできるなら、琴の調べにでも酔いながら、いつまでも「久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ」などの詠歌の世界を髣髴させるような、花見の宴を心静かに楽しみたいものです。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.2

 #1です。補足です。  申し忘れましたが、卒論はゼミに出すのではなく、大学に出すものです。したがって主査はゼミの先生ではないかもしれません。  こういうことを考えて、誰の目に叶うものに書くかが、卒論の急落につながることもあります。そのあたりの仕組みをよく見定めてお書きになることが大切です。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.1

 こういうところで資料を集めても、生活美学の卒論には見当違いで、すっと卒論は通らないと思います。ゼミの先生と相談できない理由が何かあるのですか。