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平安時代が「標準的憧れ」だった理由

特に江戸時代かと思われますが、「古」を味わうことと「平安時代」をどうも結び付けていたかのような印象がありますが、間違っているでしょうか。また、もしあっているとしたら、なぜ「標準的」古の象徴として平安時代なのでしょうか。なぜ鎌倉や室町ではないのでしょうか。

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  • koon1600
  • ベストアンサー率51% (200/390)
回答No.5

簡単に言えば、今(というか昔からそうなのですけどね)の老人が時たま漏らすこの言葉「昔は良かったなあ・・」というやつです。 まだ野蛮人(武家)もはびこっていないし、こんなボロ屋に住んでいなかったし、和歌も栄えていたし、宮中も華やかだったし・・・昔は良かったなあ、ということです。これが公家の考え。 で、その知識を供給しているのは公家が写本して保管している書物です。冷泉家なんかは有名ですね。大変な蔵書数です。 文字が読め、いわゆる現代にいろいろ残している知識人たちは、そういった一種の美化された平安の世を知ると「あのころは良かったのだなあ」ということです。ちょっと時代は古いですけど、兼好がこういった知識人の典型です。 まあ、本当は飢餓などがひどく、およそ凄惨な状況が広がっていたのですけどね。平安京は。 さて、いわゆる鎌倉~江戸幕府が開くまでというのは、日本の暗黒時代とも言える時代だったのです。 鎌倉は(学校で習う程度の知識だと)一見平和に見えますが、実情は、幕府と朝廷は常にいがみ合い武力衝突(承久の乱)を起こし、幕府内も政争が戦争になり三浦氏が滅ぼされそれを手伝った安達氏が滅びそれを滅ぼした平氏が滅亡し・・・というどろどろした世界にありました。 そして北条独裁になったと思ったら元寇です。 落ち着いていたのは最初の30年ちょっとくらいでして、その後100年近く、幕府が滅ぶまで混沌の中にあったのです。 室町になるともっとひどくなります。 とりあえず鎌倉幕府を倒したは良いですが、今度は天皇と足利氏が対立し、吉野と京に二人の天皇が並ぶと言う南北朝に突入。それが60年も続いて1392年にようやく一つになったと思ったら今度は各地で守護大名が好き勝手し始めます。 明徳の乱で山名氏が暴れ、応永の乱では大内氏が暴れ、幕府の権威は急降下。 そして、この状態を打破しかかった将軍は「第六天魔王」とあだ名され「万人恐怖」と呼ばれる恐怖政治を行った足利義教。やっていることは信長とほとんど同じです。 しかし、最期は家臣に襲われてあえなく戦死。この後幕府は有能な将軍に恵まれず、権威が戻ることはありませんでした。 そして、農民反乱がおき、一向宗と呼ばれる宗教勢力が守護勢力を滅ぼし、守護大名は完全に好き勝手暴れだし戦国大名となり、子が親を殺し親が子を殺す戦国の世がずっと続きます。 で、それがようやく収まったのが江戸時代。 で、ちょっとお聞きしますが上で言ったような時代が「よかった」と思いますか?明日の命も保障されていないような時代です。 たいていの人は良いとは思いません。で、昔を思うとなると・・・平安までさかのぼらざるを得ないのです。 特に、鎌倉以降は文芸的な発展が乏しく(というかそんなことやっている暇が無かった)、やはり「見かけ上平和」な平安のほうが魅力的に見えたのでしょう。 で、知識人はそういう具合に美化された平安の世を知り、「あのころは良かったのだなあ」となるのです。まあ、自身のあまり裕福ではない境遇の裏返しでもあるのですけどね。こういう思いは。 まあ、今の日本人が、戦前戦中よりは明治期のほうが良かったふうに書くのと同じです。

noname#32495
質問者

お礼

そうですね。非常によくわかります。貴族が一種の規範を作っていて、それがややヴァイアスがかかっていたものであったかもしれないが、やはり鎌倉室町の混沌とした時代よりは、なにかあこがれるものがあったのでしょうね。

その他の回答 (4)

回答No.4

平安時代の朝廷や公家の礼式・官職・法令・年中行事・軍陣などの先例・典故が以後の社会でも標準になったからではないでしょうか? これを有職故実(ゆうそくこじつ)といいます。 また、それらを研究する学問も有職故実といいます。 平安中期以後、公家や武家の間で重んじられたため、標準的であるのではないでしょうか? 今の皇室にもそういったものが年中行事として残っています。

noname#32495
質問者

お礼

日本的文化がもっと息づいていた頃は、貴族的なものがもっと規範になっていたのかもしれないですね。それが江戸時代であったかもしれません。

  • tanuki4u
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回答No.3

結びつけていたのは誰か? 平安貴族の末裔です。 いにしえを味わうのに、「あ、それは、うちんとこのご先祖さんの日記に書いてあります」と言われたら、江戸時代の大名は何ら反論できません。いくら、お金があっても、武力があっても。 んで、平安貴族の江戸時代の末裔達が「ええ、時代やったな」と思い出すのは、権力も持っていた平安時代。 室町時代では「天皇の即位式をする金が無くて、しばらく 即位式もできなかった」ような時代ですし、鎌倉時代も(新古今なんかは、この時代ですが)天皇が島流しになるような時代。 やっぱり、ご先祖さんが元気だったのは平安時代だわ。 で、その前になると、奈良時代。まだ江戸時代の公家達の直接の先祖である、藤原一族が完全に政権を掌握していなかった。 思い返していい時代は、平安なのよね BY 藤原一族 ということになります。

noname#32495
質問者

お礼

貴族の末裔が庶民文化にまで影響を及ぼしているんですか。公家勢力と言うのは、結構しぶといものなのかもしれませんね。

noname#46596
noname#46596
回答No.2

ほとんど鎖国状態かつ平和な時代が長く続いたため、日本固有の文化が発展したからだと思います。 源氏物語など、現在でも古典、古文を代表する作品がたくさんありますね。 つまりたくさん研究・吸収したい文化があったということ。 また江戸時代の人から見て平安時代って鎖国・平和という点で当時の状態と似ていると感じる部分も多かったんじゃないですか。 江戸時代にも日本固有の文化が発展しました。

noname#32495
質問者

お礼

そうですね。文化的宝庫的時代ともいえますよね。それに確かに平和的であるという共通認識もあるのでしょうかね。

noname#203429
noname#203429
回答No.1

礼儀やしきたりまた服装や慶事ごとのフォーマルな部分は天子様の周辺が中心だったのでしょう。鎌倉や室町はあくまでも幕府行政機関ですから。 詳しくは判りません。

noname#32495
質問者

お礼

そういうかんじもあるんでしょうね。現代にも一種生き残っているようですね。

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