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江戸時代の鳥島沖を航行していた船
小笠原諸島の鳥島に、1719年に漂着し、その後約19年間、島に閉じ込められた遠州、静岡の甚八達は、島に滞在中、沖合を帆かけ船が行くのを見たそうですが、そんな時代に、あのエリアを航行する船は、一体、どのような船だったと思われるでしょうか?
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他の方も指摘する、スペインの船でしょうね。アメリカの捕鯨船が太平洋の日本沿岸まで来るようになったのは1820年代になってからといいますから、百年も後です。 また蜃気楼で船のように見えた(船ではないかという願望がそのように見えさせた)という可能性も捨てきれないと思います。 ところで驚くべきことに、八丈島では縄文遺跡が見つかっているんです。少なくとも縄文時代のある時期に、八丈島に人が住んでいたことは明らかになりました。問題は、彼らがどうやって八丈島にやってきたのかです。当時は丸木舟しかない時代です。丸木舟で八丈島にやってきたとしか思えないのでそうなっていますが、現実的に丸木舟で外洋を航行するのは困難であり、ましてや太平洋にぽつねんと存在する八丈島に狙ってやってきたのか、謎は深まるばかりです。
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- jkpawapuro
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交易船として唯一可能性あるのはいわゆるマニラ・ガレオンです。 スペインの交易船がフィリピンメキシコ間を航海する過程で北に流された場合です。 wikipediaを参照してください。 ですが基本的にはアメリカの捕鯨船でしょう。 小笠原沖はクジラの出産スポットですので捕鯨ポイントだったでしょう。
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なるほど。当時の捕鯨船は帆船だったんですね。それにしても、すごい行動範囲ですね。改めて感心しました。ありがとうございました。
- nagata2017
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帆船ではなく ほかけぶねという単語では 小型船のイメージですね。 そこから近いところは 八丈島 沖縄。 沖縄で1000km以上 八丈島で700kmぐらい。
お礼
八丈島の船ですか。それは意外な答えですね。そのような船が当時の八丈島には、すでにあったんですかね……そのあたりは、かなり調べないと答えは出てこないでしょうね。ありがとうございました。
- tzd78886
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其の頃であればまだ蒸気船が発明される前ですから、中国や東南アジアに発着するつもりだったのが風や海流などの理由で本来の航路から外れてしまった船でしょうね。
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ということは、アメリカの帆かけ船ですか? いわゆる、大航海時代と言われる時代の帆船なんですかね。やはり、アメリカは、凄いですね。ありがとうございました。
- g27anato
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13世紀にはヨーロッパの帆船が東南アジア方面まで進出していたらしく、 15世紀末にはアメリカ大陸が発見されたり、 世界航海も盛んに行われていたようです。 16世紀頃には、既にポリネシア系の原住民が小笠原諸島にいたようで、 欧米の血も流れているそうです。 17世紀頃には小笠原近辺でも、欧米の大型船による捕鯨が行われていたみたいで、 大型の帆船が鳥島の近海を航行していても不思議ではない状況は、 既に有ったと考えてよいでしょうね。
お礼
やはり、アメリカですか。大航海時代というやつですね。やはり、アメリカは、スケールが大きいですね。ある意味、驚きました。ありがとうございました。
- SPS700
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南洋の島々と交易していた華僑の船、さらに西から北上してくるインド(仏教の伝来の今まで知られなかったルート)の船、などが考えられます。 偏西風に乗って後悔や東シナ海などを帆掛船(ジャンクなどと呼ばれて今も存在します)が通るのはそう珍しくはなかったと思います。
お礼
華僑ですか。いずれにしても、流されたんでしょうね。その後は、帰れたのかどうかも気になりますが……ありがとうございました。
お礼
ほう…そうなんですか。それは興味深いですね。他の方の回答にもありますように、ひょっとしたら八丈島の船かもしれないですね。しかし、御回答にあるように、スペインの帆船の可能性が一番大きいでしょうね。甚八達が奇跡的に故郷に帰ることが出来たのも興味深い話ではありますが… ありがとうございました。