一揆が起きたことが幕府の知られるところになると、それは当然お取り潰しの口実となりますよ。有名なのが郡上一揆ですね。一揆を起こしてしまったことの責任をとって、郡上藩の金森頼錦は取り潰しとなりました。
全ての一揆を知っている訳ではないですが、調べてみると姫路藩寛延一揆は姫路藩の藩主がくるくると変わることによる藩政の一貫性のなさが一揆の一因になっており、一揆が収まったあとに酒井忠恭が藩主となりました。元々酒井忠恭は姫路藩藩主になることは決まっていましたが、一揆が起きたために時期がずれこんでいますね。
また加茂一揆は旗本領つまり徳川家の直轄地が火元となっています。周辺の藩も巻き込まれましたが、あくまでこれは「巻き込まれた」という体裁にすることができたのでしょう。
会津藩寛延一揆は徳川家直轄地ではないですが、藩主は一族である松平家で、しかも初代藩主は「日本一無名の名君」ともいわれる保科正之です。幕府も情報は耳にしてはいたでしょうが、取り潰すのは政治的に賢明ではないと判断したのでしょう。
また会津藩寛延一揆は一揆としては農民側のほぼ全面勝利に近い内容です。幕府に目を付けられないために、農民側の要求は飲まざるを得なかったというのもあったと思いますよ。
実際に、江戸時代の一揆って時代劇のイメージと違って結構成功率というか農民側の勝利で終わるケースは多いんですよね。その騒動を幕府に知られてお取り潰しにされるのが怖いっていうのは確実にあったと思いますよ。特に藩の支配力が低下していった幕末頃になるとより一層そういう傾向が強まります。
お礼
ご回答ありがとうございます。 いつものことですが、私の質問が稚拙でした。 ただ単に「藩主を処分できたのでしょうか」という問いかけではなく、私領、幕府領、旗本領によって処分に差があったか、と具体的に聞くべきでした。 百姓一揆の件数については、江戸時代を通じて2809件とか、3710件とかの数字があります。 研究者が丹念に調べ上げて掴んだ数でしょう。 この全数を幕府が把握していたわけでは勿論ないですが、1割を掴んでいたとしても300件前後です。 これでいちいち「お取り潰し」していたとは考えられません。 しかし「郡上一揆」については、「お取り潰し」になった最適例として参考になりました。 さて、「お取り潰し」にならなかった例もあります。 例に挙げた姫路藩の場合、松平家も酒井家も御咎めなしです。 これは当然で、ときの老中は酒井忠恭です。 前橋から姫路へ移りたくて秘密裏に画策していたわけですから、まさに幸運が転がり込んできた感じです。 松平朝矩が11歳という理由で領地替えしていますが、前橋15万石なら統治できるという勝手な判断です。 忠恭が姫路に入った4年前の延享2年、前橋藩の農民が江戸藩邸へ年貢減免を求めて越訴していますが、勿論藩主は処分されていません。 江戸藩邸ですから他藩の目にもとまったでしょう。 鳥取藩では1632年(寛永9)池田光仲入部から幕末までの間,約44件の百姓一揆があったそうです。 なかでも「鳥取藩元文一揆」は全藩一揆という規模です。 鳥取藩は江戸時代を通じて「池田家」支配で、誰一人として改易されていません。 光仲の池田家には、家康の血が入っており三葉葵の紋の使用を許されているそうです。 安房勝山藩でも、明和7(1770)年百姓の代表が年貢減免を求めて江戸藩邸に越訴していますが、 藩主には御咎めなしです。 藩主は、1668年以降廃藩置県まで酒井氏(若狭小浜藩の分家)です。 これらの一揆はネットで見つけたものですから、有名な事例だと思います。 多分、幕府は知っていたのではないでしょうか。 一揆が収束してから知ったとしても、藩主の治世の失敗であるという理由で処分できるなら処分したはずです。 藩主の治世の失敗であるという理由で処分できた事例も多いでしょうが、実際のところ、まだすっきりしません。 参考:酒井忠恭の姫路転封工作 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E4%BA%95%E5%BF%A0%E6%81%AD
補足
お詫び。 ご回答には「お取り潰しの口実となりますよ」とありますね。 これを深く考えず、一揆=お取り潰しと短絡的に解釈して「お礼」を書いてしまいました。 頭が硬直化してきていると、つくづく実感しました。 今後気を付けます。