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江戸時代の「百姓一揆」と「騒動」との違い。
百姓一揆と騒動とはどのように違うのですか。 例えば、貞享3年の信濃松本藩の嘉助騒動は、一揆とは呼ばないのですか。 よろしくお願いします。
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一揆と騒動は厳密に分けられていました。 一揆は、盟約、契約を結んだ集団による藩政に対する抗議行動を指しました。 いわゆる、連判状が作成されました。 首謀者が判らないように、横に並べずに円を描くように記名したりしました。 騒動は、連判状などを伴わない、現在の過激派デモや昔の学生運動のような性格のものです。 領民による藩政への抗議行動が起これば、藩内取り締まり不行き届きとして、改易、転封、減封の対象となりました。 釈明に当たり、書面だけでは済まされずに、幕府による藩への立ち入り検査が行われることもありました。 幕府は江戸時代を通じて、諸大名を一つでも減らすことを考え続けていました。 諸藩としてはうっかり一揆がおきたとは届け出ません。 厄介なもめ事すなわち騒動が起きて領民や家臣を処分しましたと届け出ます。 江戸時代を通じて改易(お家断絶)になった大名は225家に上っています ただし、八百長の一揆もありました。 藩政も整い世の中が落ち着くとともに、貨幣経済が発達しました。 江戸時代中期以降は、米にだけ頼っていた各藩は財政が窮乏するようになりました 幕府に借金を申し入れる口実として、天候不順で一揆が起きたとか一揆が起きそうだと申し出るようになりました。 隣の藩が上手く金を手に入れたので、おれも、と同じ文面で日付と藩の名を変えただけといういい加減なものも残っています。 一揆を起こす場合は、普通は代表者が藩を抜け出して、江戸城の前で他の藩の藩主の駕籠に書状を差し出す、いわゆる駕籠訴ということをやります。 書状を差し付けられた大名は必ず受け取り、幕府に届ける習慣になっていました。 幕府が仲介者となって、藩が藩政を改めれば、メデタシメデタシです。 これを、財政に窮した藩が悪用しました。 幕府も仲介に立つ以上は金を貸さないわけにはいかなくなります。 普通は駕籠訴をした者は、首を切られますが、なにせ八百長ですから、終わったあともお咎めなしです。 呑気に江戸見物などして帰りました。 藩や幕府の記録には一揆があったと記録されます。 この辺が史料を読むときの難しさです。 八百長であれマジであれ一揆には武器は絶対に使用されませんでした。 あくまでも鋤鍬鎌などの農具を構えました。 下手をすれば藩が潰れて、大名以下藩士が失業することになりますから、血を見る必要はありません。 威し挙げればいいだけです。 藩士もうっかり手出しはできません。 軽率な行動で藩を潰した日には、末代迄恨まれます。 一揆が先鋭化して、死者が出たりしたのは、明治政府の時代になってからです。 明治時代になってからの一揆の話と戦国乱世の時代の話が、そのまま江戸時代の一揆に対する都市伝説として現在も伝えられています。 嘉助騒動も戦国の気風が残った江戸初期の事件です。 国定忠治も一種の騒動ですが、農民を巻き込まなかったので単なる犯罪者で終わっています。 佐倉惣五郎も実在の人物か否かについて現在も論争が続いています。 江戸時代というのは、年貢すなわち税は米だけで、他の作物は無税です。 都市に近い農民は作物を売ることでいらでも現金収入の道がありました。 年貢の率も帳簿上の産出であって実生産高ではありません。 田の地力が向上して生産高が上がっても以前の低い生産高が適用されていました。 努力をすれば実質税率はどんどん下がります。 才覚次第であることは町民と変わりません。 農村は豊かでした、豊かでなければ郷土芸能などというものが発達したり伝承されることはありません。 最も窮乏していたのは武家階級です。 武家階級も自分達の収入を増やすために、開墾、河川の改修などの公共事業をセッセとやりました。 天候不順などの自然災害の方が致命的な影響を及ぼしました。 。
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- oska
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>百姓一揆と騒動とはどのように違うのですか。 一揆も騒動も、同じ意味で用いる事が多くなっていますよね。 が、実は「双方とも、似て非なるもの」です。 厳密に言うと、一揆は「暴力を持って反抗・抵抗する」事。 騒動は「暴力を伴わないで反抗・抵抗する」事。 >信濃松本藩の嘉助騒動は、一揆とは呼ばないのですか。 あの、「松本城天守閣が傾いた」事件ですね。^^; 嘉助が、過酷な年貢を他藩同等の年貢にするように奉行所に嘆願しましたよね。 が、喜助自身及び同志は「暴力行為」を行っていません。 喜助一同が奉行所に嘆願書を届けた事を知った農民一同が「数千人で、鋤鍬を手に奉行所を取り囲んだ」だけです。 農民が暴動化し一揆になる事を恐れた藩側は、嘉助の嘆願を(その時は)了承した訳です。 ※この時点でも、一揆と騒動を分けています。 結局は、この家老との約束は反故にされ、嘉助など8名は磔。20名は獄門となりましたね。 決して、幕府への恐れから「一揆を騒動とする」事はありません。 一揆が起きた程度では、幕府は藩への処分は行いません。 幕府が考えていた規模より一揆が大きくなれば、一揆側だけでなく藩側も処分されますが・・・。 まぁ、時代と共に「言葉の意味」も変わりますからね。 時代劇で「下手人は、何処にいる?」と、岡引などが捜索しています。 が、当時の下手人は容疑者・犯罪者の意味ではありません。 「下手人=死罪の一種」なんですね。 処刑された後に、遺族・関係者に遺体を引き渡されるのが下手人です。 下手人以外の斬首・獄門・磔・火あぶり・のこぎり引きだと、遺族・関係者へ遺体を引き渡す事はありません。 遺体は、山田浅右衛門によって「試し切り」となります。
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ご回答ありがとうございます。 私も、打ち壊し等の暴力の有無で区別するのかと思っていたのですが、暴力行為があっても「騒動」と呼ばれている例も多いです。 wikiを信用しているわけではないですが、wikiには「騒動」としている例もあります。 宝暦11年(1761年)上田藩宝暦騒動。農民約13,000人が上田城へ押し掛け城下町で打ち壊しを行ったほか小牧村の庄屋が役人と結託しているとして、庄屋の家を襲撃。 明和騒動1771年(明和8年)。飛騨代官に協力した町人宅や土蔵の打ち壊し 1768年(明和5年)新潟明和騒動。新潟町奉行側は鉄砲隊で攻撃したが町人側は薪を投げて応戦し町役人を敗走させた。
- fujic-1990
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ちょっと手元の日本史事典をひいてみたら、「・・・ 信濃国松本藩領で起こった百姓一揆。 云々」と書いてありました。 名称は「騒動」でも、実態は「百姓一揆」ですね。 ただ、正式に「一揆」とすると、幕府によって藩側も責任を問われたのです。誰か、エライ人が腹を切らないといけなかったり、転封されたりしかねない。 それに対して、「騒動」ならある程度目をつぶってもらえたせいで、「騒動」ということにしてしまったのではなかろうかと思います。 こういう取り扱いに違いが出てきたのは、日本語的には「騒動」とは勝手にわいわいやっている場合を指します。率先して騒ぐ人はいても、特に指導者はいない。不満解消などのために騒ぐこと自体が目的化して、一揆のような政治的な統一された目的・要求はない。そんな感じの群衆行動です。 それに対して、「一揆」は、多数の人たちが、一人(少数)の指導者の指導のもとで、一つ(少数)の目的を実現するために、一致団結して行動する場合です。 騒動はいつでも起こりえますが、一揆がおきるまでにはそうとうな時間と大きな不満などが必要ですので、それまでになんとかしようとすればできただろうし、気がつかなかった・しなかったという話なら為政者は無能だ、という話になります。 したがって、本当の騒動の場合、為政者はおかまいなしになりますし、「ホントは一揆なんだがなぁ」と思っても、「騒動です」と言われたら「まあいいか」という話にする余地が生まれるわけですね。 で、おそらく松本藩が「騒動で御座います」と幕府に届け出て、幕府側でも「取りつぶしたくない」思いがあって、報告をそのまま受理し、「騒動」が定着したのであろうと推測されます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 「一揆」「騒動」は、後世の歴史家が名付けたと思っていましたが、それが発生した当時、藩のお偉方が幕府に届けた呼称で決まったのですね。 それなら、どの藩も「騒動」ということにしたいでしょう。
お礼
いつも素晴らしいご回答をありがとうございます。 百姓一揆について"目から鱗”でよく解りました。 連判状のもつ意味もよく解りました。 >一揆を起こす場合は、普通は代表者が藩を抜け出して、 >江戸城の前で他の藩の藩主の駕籠に書状を差し出す、いわゆる駕籠訴ということをやります。 なるほど! 他藩の殿さまに差し出すのですか! 自藩の殿さまでは理屈に合いませんね。 >農村は豊かでした、豊かでなければ郷土芸能などというものが発達したり伝承されることはありません。 確かに、全く同感です。 芝居や歌舞伎の巡業に大勢の農民が見に行ったりもしていますから。