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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:江戸時代初期の大名の財力とは。)

江戸時代初期の大名の財力とは?

このQ&Aのポイント
  • 江戸時代初期の大名の財力について調べました。
  • 関ヶ原合戦や天下普請に掛かる多額の費用をどのように賄っていたのか気になります。
  • 年貢収入以外に何か収入源があったのか、また人件費や材料の調達についても考えてみたいです。

質問者が選んだベストアンサー

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  • titelist1
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回答No.3

天下普請の名古屋城普請の時に加藤清正と福島正則が言い争ったという逸話が残っている。天下普請の苦しさに正則が不平を言うと清正はだったらひとつここで徳川に反抗してとどうか言ったら何も言えなかったそうです。 参勤交代でも加賀100万石でさえ参勤交代のお金がなくて苦労した逸話が残っています。出発時は立派な大名行列が領地を出ると行列を半分に減らし、本陣宿での宿泊費を借金したのです。 大名がこれだけの天下普請の費用を単年度の年貢米の売却資金で賄えたのなら借金無しの健全財政です。ところが天下普請が終っても大名は大名行列も出来ず宿泊費も無いほどに財政難に苦しむのです。当時の借金の利息が年20%です。その後に幕府命令で18%にさらに12%に下げているが、現代では考えられない高利息です。戦国時代では戦争できる資金を持っていた大名が江戸時代には財政難で転げ落ちてゆくのです。その一方で豪商は財を成すのです。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 関ヶ原後、諸大名は、豪商からの借金で御手伝い普請や領国の基盤整備をしてきた、ということですね。 そういう視点から考え直してみます。 うるさい質問者に付き合って下さって真にありがとうございました。 以下、反論ではないですが、後日の参考のために、池田輝政の御手伝い普請に関して調べたことを書いておきます。 慶長11年度の江戸城石垣普請においては、石垣築造は3月着手、6月竣工です。 姫路城は、8ヵ年の歳月と2430万の延べ人員を要したそうです。 姫路城 http://www.hyogo-c.ed.jp/~h15db/katego/nakaharima/himeji/pfuku25_17_m.pdf#search='%E6%B1%A0%E7%94%B0%E8%BC%9D%E6%94%BF+%E4%B8%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80%E5%A0%80' 

その他の回答 (2)

  • titelist1
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回答No.2

>米を商品として売ったのだろうと想像しています。 年貢米程度では賄えないほどの天下普請をやらされたと思います。年貢米で賄うことができるなら健全な予算状態です。今の日本政府のように借金をさせて財政赤字にさせることが天下普請の目的であったと思います。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 しつっこく反論して申し訳ないですが、どうもすっきりしないのです。 うまく表現できないですが、もやもやしている理由は下記のとおりです。 借金してもどうせ利息を付けて返さねばならない。踏み倒していないのであれば、年貢米で済んだということになります。 慶長期または元和期でもよいですが、天下普請や築城等の費用が足りず、借金・借銀した事例があれば教えていただきたいと願っています。 池田輝政を例にしますと、三河吉田15万石から播磨姫路52万石に加増移封されています。そして8年掛けて姫路城を大改造し、その間、江戸城、篠山城、名古屋城の天下普請に従事しています。 15万石時代の家臣のまま52万石になったのですから、年貢米が有り余っていたのでは、と想像しています。 同様に、加藤清正19万石から51万石、黒田長政18万石から52万石、福島正則24万石から50万石になっています。 ただし、毛利家は安芸広島120万石から長門萩30万石に大幅に削減されたので、借銀した記録があります。 >借金をさせて財政赤字にさせることが天下普請の目的 参勤交代も昔は、大名の財力を削減する目的とされていましたが、今は、結果がそうなったのであって、幕府がそのことを目的とした訳ではない、とするのが主流ではないでしょうか。 天下普請も同じことが言えるのではないか、という疑問です。 私は、天下普請が原因で赤字になったとは思っていませんが…。

  • titelist1
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回答No.1

年貢米を担保にして長期借り入れをしたのだと思います。天下も定まると貸し倒れのリスクも少なくなり、商人は大名に金を貸したのでしょう。当時の利息は年1割以上は常識ですので、金貸しも悪くない商売です。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 関ヶ原の論功行賞で領地が激減した毛利家の場合、京都の商人から借銀した記録があるそうです。 しかし、関ヶ原後、大幅に石高が増えた黒田、池田、加藤清正、福島などの大名は、有り余るほどの年貢米があったはずですから、米を商品として売ったのだろうと想像しています。

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