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江戸幕府役人の辞令。
老中の任命は、将軍が口頭で伝えるのであって、現代の「辞令」のように書類を手渡すのではない、そうです。 では、「辞令」(書類)が発行される役職もあるのですか。 例えば、奏者番、寺社奉行、大目付、江戸町奉行、勘定奉行、郡代、代官などは、辞令が出されるのですか。 出されるとすれば、発行者(任命者)は誰ですか。 書式が分かれば教えてください。 よろしくお願いします。
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補足質問を拝見しました。 残念ながら、参考にした本には「公式記録」の出典は明記されていませんが、全体的な記録からすると、奥祐筆が記録し保管した書類のようです。 奥祐筆は、大名・旗本の各家の、成立以降の武功や処罰、職歴などなども調査し、書き留めた書類を整備、保管して老中などの諮問に答えていたそうです。 例えば、何かの職に就く場合、候補者はほぼ合格という時点で幕府(奥祐筆)に宛てて、「親類書」を出させられたので、親類書を出したと聞いたら祝いの品を贈り合ったそうです。 こういうものが時系列的に集積されて、保管されていたようです。 奥祐筆は、意見具申の権限もあったので、老中などから「江戸町奉行は誰がよいか?」などの諮問があれば、調査報告書を提出するとともに意見を述べたりしたので、「それで良し」となれば、辞令も書き、家譜のような記録簿に記載して保管していたようです。 なので、さきの、「幕府の公式記録」とはそういうような記録簿だと思われます。 ただ、江戸城開城の時、薩長に利用されるのを恐れて大奥の記録その他、全部焼き捨てたという話も。 ところどころに、古老の某が書いた「○○覚え帳」のような古文書名が書いてあったので、時代考証事典のようなものを書く人は、そのような部分部分について書かれた覚書類の書き物をいろいろ集めて書いているものと思います。固まった体系書があるのではないと思います。
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- fujic-1990
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辞令の書式は、 姓名のあと「学問出精仕候に付、召出表御右筆被仰付之」となるようです。 幕府の記録上は、姓名・職名のあと「右於御前被仰付之」と記載。 発行者は、目付以上の要職以外は、試験官(不明)。しかし、部門が違えば、適不適は分からないので、それぞれの上司が、有資格者(京都・大阪町奉行など)の中から抜擢したものと思われます。 要職の場合は、将軍から直接下命された由。例えば寺社奉行任命に際しては(紹介されると)「言い談じ、念入りに勤めよ」と言って就任を認めた由。
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ご回答ありがとうございます。 おおよその様子は分かりました。 「幕府の記録上は…」とのことですが、少し調べてみようと思いますので、“幕府の記録”とは何を指すのでしょうか、教えていただけませんか。 徳川実紀ですか。
お礼
再度のご回答ありがとうございます。 かなり具体的に分かってきました。 後は、自力で辞令の具体例を気長に探してみます。 奥祐筆を調べてみますと、陰の実力者なのですね。驚きました。 世襲だったそうです。さもありなんと…。 祐筆に着目してネット検索してみますと、祐筆や天文方の任命の様子が分かる記事を見つけました。 1.高山彦九郎『寛政江戸日記』 寛政元年(1789)10月3日の「寛政江戸日記」によれば、「瀬名源五郎(瀬名貞雄)は諸家の系図江戸中の事に通じたるによりて奥右筆組頭同格にて御土圭の間御次に於て老中壱人若老中壱人にて申渡さる、柴野彦助(柴野栗山)へは躑躅の間に於て申し渡さる、先月十日岡田清助(岡田寒泉)には奥御祐筆部屋に於て老中列座若御老中待座にて牧野備後守殿申し渡さるとぞ頼千秋(春水)が語りし」とある。 2.伊能忠敬研究会HP 幕府天文方渋川家9代目渋川助左衛門景佑の家督相続の許可は、江戸城菊之間にて御老中列座の中で、牧野備前守殿より申し渡されたそうです。 『続徳川実紀』に「父致仕して子家をつぐ者40人」とあり、菊之間に集合した願出者40人中の一人として申し渡されています。 そして同日、御祐筆部屋で別途、天文方を仰せ付けられています。 「親類書」もヒントになりそうです。 解決の目途が立ちました。 ご教示に感謝申上げます。