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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:確からしいことを議論する価値は?)

確からしいことを議論する価値は?

このQ&Aのポイント
  • 哲学の議論は正しいか、間違っているか白黒論が多いです。しかし世の中に正しいと言えることなんてほとんどありません。
  • こうした中で間違いなく正しいことを議論するのにどれだけ価値があるのか疑問です。正しいことを求めたところで不可能なことが多いからです。
  • だとすれば、どちらがより正しい可能性が高いか、確からしいか議論することに価値があるように思います。

質問者が選んだベストアンサー

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  • hekiyu2
  • ベストアンサー率35% (271/774)
回答No.4

それは危険だと思います。 確からしい、なんて議論は、結局は説得力の 有無になってしまう怖れがあるからです。 説得力からいえば、地球は動いていないかも しれません。 説得力に頼る実社会では、間違いを強制する結果に なりかねません。 正しさを求めて、何百年でも議論すべきです。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。そうです。それがお聞きしたかったことです。 説得力というのはよくわからないです。 日常感覚みたいなことですか? 現代の人間は科学的な教育を受けているので、地球が止まっていることに説得力はないと思います。 正しさを求めて、と言いますが、地球が動いていることは正しいのですか? これは結論が出ている? どうなったら正しいのか?その考え方の問題でもありますね。

その他の回答 (5)

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10005/12514)
回答No.6

「お礼コメント」を拝見しました。 >「正しい」「真である」という枠組みの共通認識がないと、グダグダになってしまいますね。考えの枠組みをどう整理しておくか難しいですね。 ⇒「絶対正しいものはない」とは、「いつでも、どこでも、普遍的に正しいとされるものはない」という意味です。「正しいか、正しくないか」は、「時間・空間・目的」が決まってはじめて云々できることです。つまり、「いつ、どこで、何のために」が決まっていなければ、「正・不正も決められない」わけです。 例えば、突拍子もないことを言いますが、その昔、アタナシウス派が「正しい」とされたのは、「西暦325年、ニケーアで、キリストの三位一体を認めるか否かという論争目的」があったからでしょう。その証拠に、例えば、「現代の、日本で、アタナシウス派とアリウス派のどちらが正しいか」などは決められない、少なくとも、「絶対こうだ」などとは言えませんよね。 以上をまとめると、「時空の交点と目的」が決まらないことについては、「正・不正は論じられない」となります。なお、「地球は回転している」のは、「真理である」とは言えても、「正しい」とか「正しくない」とかは決められないし、そもそもそのような発問自体がナンセンス(無意味)と言われるかも知れません。(ただ、認識論の観点からそういう発問をすることは、全く無意味であるとは言えないかも知れません。)

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 宗教の話でしたら、私としては、どちらでも好きなほうを決めていただいたら良いと思います。それが嫌な人は反対派で独立して新しい宗派を作ってもいいですし。どっちが正しいという議論には適してないと思います。玉子を食べるのに、ゆで卵と目玉焼きとどちらが正しいか?と言われても困ります。 状況が決まらないと正しいとか正しい言えないというのは、そうですね。 私が議論したかったのは真であるか偽であるかということです。 道義的な正しさとかは考慮外です。 「正しい」という言葉は曖昧で困りますね。 真であるか偽であるか?と聞けばよかったのかな。 やっかいですね。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10005/12514)
回答No.5

「白牡丹 と言ふといへども 紅ほのか」(高浜虚子)。世の中の森羅万象すべてがニ値的、いや多値的です。擁護論をぶつつもりではありませんが、哲学は本来そういう実態のありようを探求する、真理を探究する学問分野だと思います。 stmimさんの言われるような意識を持つことは大事だと思います。確かに、世の中「正誤不明」が多いです。ただ、「間違いなく正しいことを議論するのにどれだけ価値があるのか疑問」と懸念なさるには及ばないかも知れません。どうあがこうと、「どちらがより正しい可能性が高いか、確からしいかを議論する」のと大差ないからです。その昔、帝国議会で言われた名言、「万機公論に決すべし」も、絶対正しいものを求めたのでなく(神でもない人間にそれは無理と見て)、相対的により正しいものを求めた、ということの表れではないかと思います。 より正しい、より確からしいものを求める心性は、ユートピアに憧れる心的態度と似ています。U(どこにも)TOPIA(ないところ)ですから、理想郷なのです。我々はつねにユートピア=理想郷を求めるべきだと思います。簡単に手に入らないからといって、「すっぱいぶどう」とののしったりする性根はいただけませんよね。求めるプロセスこそ大事です。例えば、「より客観的であろうとする心的態度、そのスタンスを維持する姿勢」を称して客観的であるとされるのではないでしょうか。 また、「これが絶対正しい」などというのは、いわば独善であり、それが例えば政治の世界にまかり通るなら、それは独裁の何物でもありません。昨今、日本と言わず、アメリカや「北」と言わず、世界中に独裁の嵐が吹いているのは嘆かわしい限りです。自分の都合や選挙のことでなく、「最大多数の最大幸福」をもっと意識してもらいたいです。先に亡くなったプミポン国王や「世界一貧しい大統領」と言われたムヒカ大統領(ウルグアイ)の爪の垢でも煎じて飲んだらいかがですか、とでも言いたいような気分です。 最後はちょっと逸れましたが、以上、ご質問に因んで「主観的に思うこと」を述べさせていただきました。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 政治的な話はもともと正解というのがないと思いますので、あまり考慮していません。それは別の話だと思います。 しかし、なるほど、絶対的に正しいことはないというわけですね。 例えば「地球は回転している」これも正しいとは言えないということでしょうか? 質問の中でどういう場合に「正しい」「真である」という枠組みの共通認識がないと、グダグダになってしまいますね。考えの枠組みをどう整理しておくか難しいですね。 それから「正しい」という言葉もくせものですね。私は単に真であるか、偽であるかという意味で正しいという言葉を使っていますが、「正義である」という意味もあって曖昧ですね。

stmim
質問者

補足

話がそれたとありますが、それでも私の質問に対する回答を含んでいます。

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11074/34518)
回答No.3

「正しいかどうかの議論をしよう」といったら、「そもそも正しいとは何なのか」って言い出すのが哲学者ですからね。 あと議論には、何がしかの結論みたいなのが本来必要だと思います。例えばイエスかノーかの議論をした場合は、今日の結論としてはイエスとなりました、みたいなね。 だけど日本人はそういうディベートが苦手というか、嫌いです。昔から人気の「朝まで生テレビ」は決して結論を出さないんですね。田原総一朗氏が昔インタビューで答えていました。「あの番組では結論は出さない。明け方に結論みたいな流れになったら、あえていつもそれをぶっ壊しにいっている」とね。 ちょっと前に日本で大ブームになったマイケル・サンデル先生もそうでした。「税金を意図的に払おうとしなかった家が火事になったときに消防署はその家の火事を消すことを拒否した。これは正しいといえるか」というような問題提起はしたけれど、決して結論は出しませんでした。「議論することに意味がある」とうスタンス。だから日本でブームになったのだと思います。 昔、朝まで生テレビがブームだったときにフジテレビで「ディベート」というそのものズバリのディベート番組があったのです。これはイエスとノーに分かれて勝負を競うんですね。対戦するチームが、片方がテーマを決めて、片方がイエスかノーかを選ぶ。だから自分の考え方とは違うほうで勝ちを目指さないといけないみたいなのがあったのです。私は当時この番組が大好きでビデオに録画して熱心に見ていたのですが、世間的にはあまり人気が出ず、深夜の不定期放送で終わってしまいました。 グレーの結論でいいとなったら、なあなあな結果に終始してしまう気はしますね。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。回答内容は興味深いですが、私の質問とは違う話ですね。

回答No.2

Q、確からしいことを議論する価値は? A、議論は時間の無駄。 だって、答えは実践でもって手にするしかなののだから・・・。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。でも私の質問と関係ない回答だと思います。 私が聞きたかったのは絶対に正しいことを求める議論と、確からしさを求める議論の比較であって、議論そのものの価値ではないからです。

  • nagata2017
  • ベストアンサー率33% (6878/20342)
回答No.1

まあ 確かに 哲学って どうでもいいことに時間をかけて屁理屈をこねまわす言葉遊びみたいに感じることはあります。 わざと難解な単語や言い回しを多用して 他人を下に見て お前たちには理解できないだろうという。 実際に なにか議論するときに ちょっとだけ頭の良さそうな人が 屁理屈ばかり使って他人を否定するようなことばかり言うやつがよくいるけど そういうのを相手にするのは時間の無駄にすぎないと ばっさり切り捨てたりする でも 口語で語る哲学というのもあります。日本では 池田晶子さんの著作。 こちらのほうは 質問に書かれた「確からしさを議論する」もののようです。

stmim
質問者

お礼

回答ありがとうございます。ですが私の質問に対する答えではない気がします。ちなみに池田晶子の本は大嫌いです。読むと「コイツ何言っているの?頭どうかしてんじゃね?」という感想しか湧きません。