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日本人にとっての「議論すること」の意味
最近哲学のカテで話をしていて気なったことがあります。 「このテーマに関してあなたはどう思いますか?」との問い掛けに対して寄せられた回答者からの声や「お礼」の中には回答者に対する一方的な非難とも思われる言葉を口にして平然とする風潮がうかがわれなくもありません。 「誰か教えて!」との呼びかけに対して「僕はこう思う」「私はこう思う」と多様な意見があることが何よりも社会の仕組みとしては健全であることの担保であると考えた時、相手の意見をまともに聞こうとせずに「頭ごなしに冷や水を掛ける」或いは「腕組みしてふんぞりかえる」ような姿勢で接することが果たして「議論のスタイル」と呼びうるモノなのか。 もし近代ヨーロッパ的な意味での「議論」が日本の政治土壌や文化風土の中に定着してないのならば、それは何に起因すると思われるか。「鶴の一声」や“○○とはこういうモノ”という「紋切り型」の発想が「より深い認識へと導くための手段」としての「議論することの意味」を妨げる結果につながるとは考えないのか。 こうした点に即して、次の問題を立てさせていただきました。 (1)「よりベターな認識」を得るための手段が「議論すること」であるとした上で、なぜ日本人は「議論すること」が下手なのか、なぜ「議論すること」を苦手とするのか。 (2)(1)の問題の背景には何があると考えられるか(例えば意見・異見することが社会や組織に対しての波風を立てる行為である?との意識、年齢や職業経験に立脚した個人の経験を「常識」に結び付ける発想等々)。 (3)これからの日本の政治文化や社会土壌に「議論すること」が健全な形で根ざして行くと考えられるか。 以上の点に関して皆様のからのご意見をお聞かせ願いたいと存じます。出来うる限り多様な年代の方からの意見を求めたいと存じますが、一つだけ条件を付けさせていただきます。何よりも「私はこう思う」ということの意味を問うことがテーマですので「紋切り型」や「自説を裏付けるのための回答」は控えていただきたいと存じます。
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お礼
再度の回答ありがとうございます。 「日本人の美徳」として意見を述べること、異論を述べることが集団としての規律を維持するための原理として意識されてきたことが根底にある、との認識には僕も同感です。縦型構造としての日本の社会に対して、近代と共に導入されてきたディスカッションの原理は馴染まなかった、との御指摘も同感です。 残念なことに古くは奈良時代の太政官システムや平安期の合議、中世鎌倉期以後の評定の言葉に示される「衆議」も実質として結論の内容を確認する場に留まっていたとしか考えざるを得ません。 議論のための議論をすることには意味はありませんが、かといって結論を確認するために建前として「議論すること」が利用されている現状を僕は悲しいと思います。 「知に働けば角が立つ。情に棹させば流される。筋を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」、議論することが衆議であり衆知を集めることの別な表現であるならば、僕はこの青臭い言葉の価値を信じたいと思います。真実を目の前にした時、ガリレオのようにストレートに自らの意見を表明し身を危険にさらすことを厭わない姿も、江戸歌舞伎が作品にパロディとしての時代風刺を込めるスタイルもあり、だと思います。生きていくための生活の食糧を得ることを考えたら大人しく世間に従った方が楽なこともわかります。でも「時には意見を言う」必要性を心の片隅の何処かには持ち続けてもいたい、と逡巡してしまいます。 「三人よれば文殊の知恵、という言葉がありますが、私のつたない経験によると、これはベターな結論を導出するというよりも、間違いを減らすための技術のように思われます。」このお言葉をありがたく頂戴させていただきました。