• ベストアンサー

福音書における憑依の話

福音書には悪霊に憑かれた人々が 多く描かれていますが、聖書の他の箇所にはこういった憑依の話は全く出てきません。それは何故なのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12518)
回答No.6

再度の「補足コメント」を拝見しました。 >創作ですか・・・。クリスチャンの私としてはイエス様が仰る内容ですから、“真実”であり、旧約聖書には書かれていないが、当時のユダヤ教の教えとして伝えられている「伝承」なのかの知れない、と思いました。 ⇒あ、そうでしたか。お気持ちはよく分かります。でも、「日の下には新しいものはない」“Nothing is new under the sun.”(旧約「伝道の書」I-9)と言うように、何らかの前例があったに違いありません。たとえ「創作説」が真実であったとしても、問題なしと言いますか、それが創作であろうとなかろうと、聖書の価値に変わりありませんよね。聖母マリアの処女懐胎や、お釈迦様が腋の下から生まれたとするくだりが、捏造・創作ものであることは明白ですが、それだからといって、仏典や聖書・教義の価値が下がるわけでも何でもないわけですから。 >今回私は憑依を題材にしましたが、旧約聖書には載っていないユダヤ教の教義(伝承)が多くあるのではないかと思っております。 ⇒なるほど、確かに、聖書に載っていないユダヤ教の教義がある、ということはまったく想像に難くありませんね。私は浅学にして何も存じませんが、ユダヤ演劇やメシア思想史、タルムードやトーラーなどに別のたとえ話の類で出ているかもしれませんし、後のフィロンや、もっと下ってスピノザなどにヒントが得られるかも知れません…。頭の隅に置いておいて、機会があれば紐解いてみたいと思いますが、今のところは、以上が私の申しあげられるすべてです。

mityan19391
質問者

お礼

とても参考になりました。私の答えにくい質問にもよく対応していただきありがとうございました。

mityan19391
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 >・・・聖母マリアの処女懐胎や、お釈迦様が腋の下から生まれたとするくだりが、捏造・創作ものであることは明白ですが、それだからといって、仏典や聖書・教義の価値が下がるわけでも何でもないわけですから。 うーん。そんな風(捏造・創作)に感じるかどうかは人それぞれで、また各人の自由だと思います。私個人は、聖書の記述に捏造・創作が含まれるとは思っていません。教会も伝統的にそういうスタンスです。例えば、大地平板説(地面は平らであるという説)や天動説は、現代人の多くが一笑に付しますが、数学の多様体として地球を見れば、人間目線では(極微的には)地球は平らだし、太陽は大地の周りを回っているのです。処女懐胎話も、現代科学では必ずしもナンセンスでもないようですよ。聖書は人が考えるよりも事実であると私は信じています。考え方は人それぞれですから、私は自分の信念を他の人に押し付けるつもりは毛頭ありませんし、他人の意見は大切にしますけど・・・。 憑依話は、どうやらユダヤ教の教典(タルムードなど)にもほとんど出てこないのですか。ということは、霊の憑依はユダヤの失われた伝承なのかも知れません。霊の憑依は、聖霊降臨(神からの聖霊の憑依とも見做せる)とも密接に繋がる概念だと思うので、私は非常に重要な神学基礎を与えるものだと考えています。 私はクリスチャンですが、修験道が大好きでネットでよく調べているのですが、古神道では霊の憑依が重要なテーマとなります。失われた十支族の一部が神道を作ったのかの知れません。

その他の回答 (6)

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12518)
回答No.7

再度の「補足コメント」を拝見しました。 >そんな風(捏造・創作)に感じるかどうかは人それぞれで、また各人の自由だと思います。私個人は、聖書の記述に捏造・創作が含まれるとは思っていません。 ⇒おっしゃるとおり、確かに各人の自由でしょうね。ただ、私自身は「創作説」を述べましたが、特に重視しているわけではありません。そもそも、聖書そのものが千数百年にわたる、ユダヤ民族を中心とする東地中海周辺の人々の創作集なわけですから。例えば、「雅歌」などは愛をめぐる文学作品ですよね。まあ、「事実関係」が問題の中核になる科学論文などではありませんし、どちらであっても聖書の価値に影響するわけではありませんから、こだわる必要はないと思いますが、いかがでしょう。 >霊の憑依は、聖霊降臨(神からの聖霊の憑依とも見做せる)とも密接に繋がる概念だと思うので、私は非常に重要な神学基礎を与えるものだと考えています。 ⇒なるほど、「神からの聖霊の憑依とも見做せる」という見方は面白いですね。 その意味では、例えば、修道者が「悟り」を得たり、聖者に「天啓」が啓示されたり、修験者が「神がかり」になる…ような場合は、それぞれが一種の「憑依現象」と言えるのかも知れませんね。そして、その段階ではすべてが同等に「憑かれた」状態かも知れません。しかし、その後は、その内容、普遍性、信奉者などの違いで命運が別れていく。あるものは人口に膾炙し、あるものは立ち消え、あるものはオカルト化する…。(ちょっと、穿ちすぎでしょうか。)

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12518)
回答No.5

「補足コメント」をありがとうございました。 >今回の私の質問の主旨は、憑依話が民間伝承なのかあるいは聖書に根拠のあるものか、皆様のご判断を仰ぎたかったためです。 ⇒何ら論拠や裏づけがあるわけではありませんが、つまり、もっぱら私の独断と偏見で申しあげますが、憑依する悪霊は「異教神の象徴」である、少なくともそう見立てられている面があると思います。つまり、憑つく悪霊には別名があって、それ(実体)は、「悪魔・サタン、ないし異教の神の化身」と言える部分があるのではないでしょうか。 ということは、悪霊に憑かれた人々を癒したり、悪霊を追い払ったりする場面は、「土着宗教などの異教・異端の排撃や布教の手段」として、「民間伝承から題材を得て福音書の作者である使徒らが創作したもの」、と言えるのではないか、とこのように私は推測しています。旧約にその話が出てこないのは、世界創生からユダヤ教時代を経てキリスト教が誕生するまでの期間では、このような配慮は不要であった、ということかも知れません。

mityan19391
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 >憑つく悪霊には別名があって、それ(実体)は、「悪魔・サタン、ないし異教の神の化身」と言える部分があるのではないでしょうか。 同意します。 旧約聖書に出てくる“異教神”を信じた人々に悪霊が下されるようです。 >「民間伝承から題材を得て福音書の作者である使徒らが創作したもの」 創作ですか・・・。クリスチャンの私としてはイエス様が仰る内容ですから、“真実”であり、旧約聖書には書かれていないが、当時のユダヤ教の教えとして伝えられている「伝承」なのかの知れない、と思いました。 今回私は憑依を題材にしましたが、旧約聖書には載っていないユダヤ教の教義(伝承)が多くあるのではないかと思っております。

回答No.4

 No.1&3です、  どうも あなたのお考えになる筋道を捉えきれないでいます。率直に なお お尋ねします。  ★★(No.3補足欄) ~~~~~~~~~~~~  ( a ) マタイの福音書のご指摘の箇所(12:22-43)はイエス様が仰っているのだから、真実であり、またユダヤ社会で普通に信じられていた内容なのでしょうね。    ( b ) 新約聖書の信仰背景には、旧約聖書だけにとどまらない伝承などがあるようですね。    ★★(No.2補足欄) ~~~~~~~~~~~~  ( c ) 今回の私の質問の主旨は、憑依話が民間伝承なのかあるいは聖書に根拠のあるものか、皆様のご判断を仰ぎたかったためです。  ★★(No.1補足欄) ~~~~~~~~~~~~  ( d ) 憑依というものは、  「悪霊がが人間に憑(とりつ)いて、良からぬ行動を取らせる」  というものであると私は理解しています。  こういった「憑依」は、旧約聖書にはほとんど記述がないと私は思っていて、今回の質問をしたのです。  ( e )=( c ) 今回の私の質問の主旨は、憑依話が(イエスが生きた時代にユダヤ社会でい信じられていた)民間伝承なのかあるいは旧約聖書にきちんとして根拠のあるものか、皆様のご判断を仰ぎたかったためです。  ( f ) 悪霊憑依は、聖霊降臨(聖霊が主から送られてくること)と対照的な事象のように思えます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 1、 前回(No.3)の回答では マタイ福音のひとくだりを引いて イエスが悪霊憑きを癒し そのことに対してファリサイ派からその悪霊観によって批判が出されたところで それについてもイエスが論評している事例を出しました。それは ( c )=( e )の問いに答えてはいませんか?  2. ( a )によると それはそうだが そんなことはすでにご存じだということですか? だから 回答を受け取ったことにはならないのですか?  3. ( b )と( d )とで おっしゃっている意味が あいまいなように見られます。  4. つまり:  ★★( b ) 新約聖書の信仰背景には、旧約聖書だけにとどまらない伝承などがあるようですね。  ☆ というように すでにご存じなら どうして質問されるのですか?  5. それとも そうではなく この( b )の《伝承》には ( d )のお話――《「憑依」は、旧約聖書にはほとんど記述がないと私は思っていて》――によりますと 《憑依》の話は例外であり 入っていないということですか?  6. なお ( f )のご議論は 通りすがりにお話しできるようには 思われません。ので 取りあえず保留しています。

mityan19391
質問者

お礼

憑依の話は、質問者である私にはまだよく分からない内容です。論理的に私の話を調べていただきありがとうございます。

mityan19391
質問者

補足

憑依の話は、旧約聖書に何か関連の記載があるのかどうかを知りたくて質問をしております。“憑依の話は、旧約聖書にはほとんど記載はない”と考えてもよいのでしょうか?すみませんが、私はこれの回答を望んでいます。

回答No.3

 No.1です。  お応えの内容とは筋が少しずれるかも分かりませんが 次のような新約聖書のくだりは 参考になるかと思うのですが。  ★ (No.1補足欄) 憑依話が(イエスが生きた時代にユダヤ社会でい信じられていた)民間伝承なのかあるいは旧約聖書にきちんとして根拠のあるものか  ☆ 旧約聖書との照らし合わせは ファリサイ派の議論(12:24)がひとつの参考になるかと。  ▲ (マタイによる福音書/ 12章) ~~~~~~~~~~   22 そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人が、イエスのところに連れられて来て、イエスがいやされると、ものが言え、目が見えるようになった。  23: 群衆は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。  24: しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。  25 イエスは、彼らの考えを見抜いて言われた。「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまい、どんな町でも家でも、内輪で争えば成り立って行かない。  26 サタンがサタンを追い出せば、それは内輪もめだ。そんなふうでは、どうしてその国が成り立って行くだろうか。  27 わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出すのなら、あなたたちの仲間は何の力で追い出すのか。だから、彼ら自身があなたたちを裁く者となる。  28 しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。  29 また、まず強い人を縛り上げなければ、どうしてその家に押し入って、家財道具を奪い取ることができるだろうか。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。  30 わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている。  31 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。  32 人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」  ・・・  43 「汚れた霊は、人から出て行くと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。  44 それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。戻ってみると、空き家になっており、掃除をして、整えられていた。  45 そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊を一緒に連れて来て、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる。この悪い時代の者たちもそのようになろう。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

mityan19391
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 マタイの福音書のご指摘の箇所はイエス様が仰っているのだから、真実であり、またユダヤ社会で普通に信じられていた内容なのでしょうね。 新約聖書の信仰背景には、旧約聖書だけにとどまらない伝承などがあるようですね。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12518)
回答No.2

>福音書には悪霊に憑かれた人々が 多く描かれていますが、聖書の他の箇所にはこういった憑依の話は全く出てきません。それは何故なのでしょうか。 ⇒確かに、例えば、「マタイ伝」などでは、イエスが悪霊に憑かれた人々を癒したり、悪霊を追い払ったりする場面がありますね。 「福音書」は、使徒らがイエスの生涯・言行を記録したものとされますが、その目的の1つは、イエスがいかに救世主としてすばらしい存在であるかを示すために、その「イエス特有の神性や奇跡」を描く、ということがあったのかも知れません。そのためには、悪霊を撃退したり、悪霊に憑かれた人々を救い出したりした「という事実」ほどイエスの神性や奇跡の能力を雄弁に語り、「その救世主たるにふさわしいこと」を示す材料はなかった、のではないでしょうか。 しかも、福音書は一般の民や異邦人への紹介・布教のために書かれた「総論編」のようなものです。これに対して、その他の部分、例えば「ローマ人への手紙」や「ヤコブの手紙」などは(これらもイエスの生涯・言行を記録していますが)、それは、宛先が「○○人」に限られていたり、「誰それの手紙」という私信の形式の書であったりで、(少なくとも福音書に比べれば)「各論編」的な性格があると考えます。 以上、相対的に総論としての性格を帯びる福音書で、イエスの神性を描くためにしばしば悪霊を引き合いに出して、「奇跡のための材料にした」という解釈ができるとだろうと思います。

mityan19391
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 福音書は、イエスが救い主であることの総論としての立場から、「イエスが悪霊に憑かれた人々から悪霊を追い出す」という話がイエスの神聖さを示す逸話として載せられたと仰るわけですね。私もそうだた思います。 今回の私の質問の主旨は、憑依話が民間伝承なのかあるいは聖書に根拠のあるものか、皆様のご判断を仰ぎたかったためです。

回答No.1

 ご質問の意味が いまひとつよく分かりません。  聖書の中で 福音書では悪霊に憑かれた人の話が出て来るが ほかの書簡などには 出て来ない。それは なぜか? という意味でしょうか。  イエスは そのような憑依を負った人びとにも接して行き それを直した。という単純な話では おかしいですか?

mityan19391
質問者

お礼

私のわかりにくい質問に対して、すぐに回答をいただきまして本当に感謝しています。

mityan19391
質問者

補足

ご回答ありがとうございます。 >単純な話 確かに単純な話ですね。 憑依というものは、 「悪霊がが人間に憑(とりつ)いて、良からぬ行動を取らせる」 というものであると私は理解しています。 こういった「憑依」は、旧約聖書にはほとんど記述がないと私は思っていて、今回の質問をしたのです。 今回の私の質問の主旨は、憑依話が(イエスが生きた時代にユダヤ社会でい信じられていた)民間伝承なのかあるいは旧約聖書にきちんとして根拠のあるものか、皆様のご判断を仰ぎたかったためです。 悪霊憑依は、聖霊降臨(聖霊が主から送られてくること)と対照的な事象のように思えます。

関連するQ&A