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教会で牧師に洗礼を受けたら、その人に信仰心があると

教会で牧師に洗礼を受けたら、その人に信仰心があると何故云えるんですか?

みんなの回答

回答No.5

ゴメン4番は投稿先を間違えただけで、君には関係ないことだ。

回答No.4

もっと言っておこう。 西洋で戒律というヤツについて、東洋では異なる見解があるんだ。 戒律を破ると死ぬ。 この西洋に対置て、東洋は無理難題を修行法として戒律に設定して、生きようとするならば戒律を踏む外さなけらばならない状態に追い込むより厳しい戒律なんだ。 その戒律の破壊の過程で、死の尊さと生きることの尊さの両面を学ぶためだ。 僧侶が肉を食う禁断を冒さなければ生命が維持できない状態とは、天の摂理は私の行う無法を間違いなくお認めになるだろう。 そうした確信で神の存在を理解することだ。 人は戒律やぶりを責めたとしても、それにすら動じないほど確固として神を確信することが仏陀だ。 まあそういうわけで、菜食主義を短期間試すことはむしろダイエットのために奨励したい健康法だよね。 1週間に摂取したたんぱく源の量とその材料が大豆なのか肉類なのかをメモを残して、適正な健康状態を自己管理するといいだろう。 必要以上の浪費が自分にも他人にも迷惑をかけることはだれでも身に覚えがあるだろうから、そうしたむさぼることが戒律上殺生に象徴されて記載されてきたという仏教の伝統様式だと考えたまえ。

回答No.3

言えないよ。 単にその部族社会的な身内として部族社会が承認する儀式でしかない。 そして実際は信仰心が無い人は、社会での立場を保つため周囲に合わせるのさ。 そうして強要された信仰心を植え付けるための儀式であって、本人の信仰心はむしろ殺される。 最後の審判を目的として滅びにまい進する悪魔教団の儀式だ。

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.2

洗礼は社会に対する自分の信仰の告白であるという意味合いがあります。しかしながら、信仰があるかないかは本人以外解りません。あるいは本人もわからないのかもしれません。だから洗礼を受けたということもあり得ることだと思います。 ただしその人に信仰心があるか否かは外部の人はすぐにわかります。信ずるという事の重大性により、誰でも信ずるとその瞬間から人生が変わってしまうからです。仮に目の前のテーブルの下にカチカチとなる時限爆弾があると理解した瞬間あなたの行動はどうなるでしようか。瞬間的に逃げ出すことでしょう。つまり行動が即座に代わります。しかもその前に時限爆弾の場合は恐怖にかられると思いますが、イエスに対する信仰を持つと、抑えきれない多幸感に圧倒されます。 最初の質問に戻りますが、洗礼を受けても今まで通り、罪の内を歩むならば信仰心があるとは言えません。従いまして洗礼を受けたことが信仰心があることの証明にはなりません。 自分に信仰心があると言えるのはそれでも第三者ではなく、やはり自分でしかありません。クリスチャンの大いなる喜びの元は、実は十字架の上で自分の罪のために死に、3日後に甦ったイエスを自分は知っており、罪が赦されたという確信を持つことに起因しています。 聖書はその確信を与える書物ですので、牧師や他のクリスチャンの言葉は助けにはなりますが、むしろ聖書に忠実に従う決心をもって人生を歩まれますようお願いいたします。

  • maiko0333
  • ベストアンサー率19% (839/4401)
回答No.1

信仰心があるから教会の門を叩き、洗礼を受けるのではないですか?

hatarakuzinkaku
質問者

お礼

洗礼を受けるのは、信仰心がないからでは?

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