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カトリックの信仰について
最近キリスト教(特にカトリック)に興味を持って調べ始めました。 カトリックでは、洗礼を受けた信者の方はその教会に属するということを知りました。 そこで浮かんだ疑問なのですが、例えば、洗礼を受けたけれども、信仰がうすれてしまったなどの理由で教会に通うのをやめる方もおられると思います。 そういったクリスチャンは教会には無所属となるのでしょうか。「●年通わなかったので除名」といった扱いはあるのでしょうか。 カトリックに興味を持ったきっかけが日本史で、よく「棄教」という表現がされているため、時代が違えどもカトリックに棄教という考えがあるのかどうか、また、信仰をやめることについてどのように捉えられているのか、を知りたく思っています。 クリスチャンの方にとって失礼な質問ではないかと思いますが、調べても分からなかったので、こちらで質問させていただきました。 宜しくお願いします。
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カトリックでは、破門にならない限り、受洗した教会の所属が変わることは(通常では)ないです。ただ、長い間教会に通わなかったのですから、告解(神父さんに罪を告白して神様から罪の赦しをいただくこと)を受けることが薦められます。なお、破門は、カトリックの教えを強く否定しない限り、まずないことです。「棄教」ですが、周りの信者は、天国にいけない状態を憐れみ、戻って来られることを祈りますが、決して裁くことはしません。
- fd40160
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どうでもいいことですが、「私はクリスチャンです。」 という言い方はカトリックではあまりしません。 プロテスタントの方に多く見られる言い方です。 私は以前韓国に一年滞在していましたが、韓国で「基督教」(キドッキョ)はプロテスタントを指し、 カトリックは「天主教」(チョンジュキョ)をという区別をしていました。 たとえばお葬式を業者に頼む場合「基督教式」でお願いすると、プロテスタント式の葬式が行われて、 「天主教式」でお願いするとカトリック式で葬式が行われます。
- puregrape
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「ペトロ前3:21」や「コロサイ2:12」というのは聖書の目次(?)かなんかでしょうか。。。? ペトロ前書は、総5章まであります。ですから、「ペトロ前3:21」は、ペトロ3章にある21節に書かれてありますよという意味です。同じく、コロサイ書の2章12節に書かれてありますよという意味です。 聖書は聖書が説明します。だから、聖書を読みながら意味を分からない時は、それについて何処に書かれてあるか探して見ると、その意味がはっきりとなります。例え、ペトロ3:21の意味を知らない場合はコロサイ2:21を探すと、もっと意味がはっきりします。 聖書を説明する人は、自分が言っていることが聖書の何処にあるのかを証拠として言わなければなりません。そうしないと、聖書の御言葉では無く、自分の話になるからです。 聖書には、7種類の浸礼があります。しかし、全ての浸礼は「浸る」と「死」の意味を含んであります。洗礼は聖書の意味に合ってないです。浸礼が正しいです。洗礼は「浸礼」の意味を隠す狙いがあると言わざるを得ません。
- katyan1234
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この宇宙に同じ顔を持つ人はいるのか? 答えはノーです。それと同じように信じ方もそれぞれ、神様はすべての人を信じ救いましょうと、もし一つの信じ方ならすべての人は入れない ただし、一つだけイエスを信じなさい。そうすれば救われますという誰にでもわかるメッセージを残しました。もし教会に行かなければならないというなら医者はなれないですよね。イエスは人を救うなと言いますか? 聖書は一つしかし捕らえ方は様々、その方の信仰の力によって解釈するまず聖書を読むこと、そしていいなあというところを見ていく買うのが嫌ならhttp://bible.or.jp/main.htmlを開き左下の検索を見て 新約聖書の場所を開くとマタイの福音書というのをあけて半角で1章 で検索すると聖書が見れる。少し面倒だけど節は空欄 後はヨハネの福音書 コリント人への手紙ぐらいかな~ すべてを読んでくださいなんていうと嫌になるからね。そこからいいなあという言葉を捜す作業でしょう。 間違った解釈してると失敗し、そこから学べばいい、まずは心が落ち着ける言葉を捜すこと、ゆっくりと浸るように・・・時には何を言いたいの~なんて考える場合もあるが・・・ ここで言うキキョウというのは人から見たもの、一度信じれば有効で また戻ればいい、ただカトリックの方はマリヤ像を通しての信仰 (お釈迦様の信仰と同じような捕らえ方) お釈迦様を踏むのはちょと嫌かな~本当は踏んでも罪にはならないんだけどね。マリヤ像はマリヤ像でありそこにはマリヤ様はいない いらっしゃるのは霊の世界、まあその方の信仰だから批判はいけないけどね 誰をとうして神を信じるのか? 聖書を基準にするのか? 聖書から神の存在を信じるのか? 教会に行く事は・・・・ この解釈で微妙に違う 聖書は神様の言葉を扱った本でそこには神はいない。だから聖書の言葉を大切にする。のというのと聖書の本を大切にする。と言うのは違いますよね。 ちょっと書きすぎたかな?
- puregrape
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「水はイエスキリストの復活によって、今は私達を救う模型であるが、即ち浸礼です。(これは、肉体の汚れを取り除くのでは無く、神様に向いた善良な良心の答えです)ペトロ前3:21」。「貴方達が浸礼で彼と一緒に葬られ、また神様が彼を死んだ者達から生き返らせた働きを信じることによって、貴方達も彼と一緒に生き返らされたのです。コロサイ2:12」。 イエスキリストは聖書の通りに、私達の罪の身代わりになって、十字架に掛けられて血を流され、死なれて葬られ、三日後に蘇られました「コリント前15:3~5」。キリスト人は、イエスキリストが自分の罪の身代わりになって、死なれてから、蘇られたことを信じる人です。浸礼は、水に浸ることによって、イエスキリストが自分の罪の身代わりに死なれたことを信じることを表す模型であり、水から出ることによって、イエスキリストが死から蘇られたことを信じることを表す儀式です。これは、既に救われた人が、神様に自分の善良な良心を表す模型であり、浸礼によって人が救われるのではありません。浸礼は、人の汚れを取り除く働きはありません。 それにもかかわらず、洗礼を受けることによって救われるように教える嘘吐きの教会、が多いです。まったく、聖書を無視した悪魔の教理だと言わざるを得ません。先も述べたように浸礼は水に浸ってから出ることによって、自分の信心を形として表す模型です。 AD313年頃、ローマには多くの人々がキリストを信じていました。また、多くの戦争捕虜もいました。政治的天才だったコンスタンティヌスは、自らキリスト教に改宗し、浸礼を受ける人は処罰を赦すと宣布しました。そうすると、浸礼を受ける為に集まった人々があまりにも多くて、一人一人に浸礼を受けさせる時間が無かったから、頭に水を散らすことで浸礼を受けたと認めました。これが、いわゆる洗礼の由来です。 カトリックについては、あまりにも書くことが多いので、ここではカトリックの神父だったけれども、カトリックの非聖書的な問題点95個を指摘して改心した、ルターの言葉を記すことによって終わりたいと思います。「もし、キリストが真の神様で無いならば、私達 皆は失われた者達である。もし、その方が私達とまったく同じ人間であったならば、その方の苦痛と死が私達に何の意味があるんでしょうか?その方が、神様で無かったならば、悪魔に勝ってなかったはずだ。その方が、神様で無かったならば、罪と死にも勝ってなかったはずだ。それなら、私達は希望も無く、滅亡したはずだ。」
- katyan1234
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さあ、本当に信じている人すべてが教会に属しているのか?答えはノーですね。私自身がそうです。ただしクリスチャンのサークルに入っています。から教会に属していないともいえませんが、 ただキリスト教というのは言い方が悪いが信じてしまうと、別に構わないということになります。牧師でさえ昔からの習慣によって教会に行くんだという牧師も数人知っていますね。 一度信じてしまうと一生有効です。ただあの当時の信仰は教会に行き祈るというカトリックの考え方ですね。今はすべての人が毎週教会に行くということもないと思います。 まあ中には信仰から離れてしまう人もいるかも知れませんが聖書から見れば神は忍耐強く戻ってくるのを待っている。というのがこの信仰の特徴でしょうね。 私自身はやめようが構わない、その人の選択ですね。
お礼
katyan1234さま、回答ありがとうございました。 お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 >当時の信仰は教会に行き祈るというカトリックの考え方 「キリスト教を信仰する=教会に行く」というように考えておりました。 いろいろあるんですねー 聖書の中にも触れられているのは知りませんでしたので、一度読んでみたいと思います。 貴重なお話ありがとうございました!
- MAY1814
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こんにちは。一応カトリック信者ですが、そんなに詳しくはありませんのでもっと詳しい方がいらっしゃったらそちらを参考にして下さい。 >例えば、洗礼を受けたけれども、信仰がうすれてしまったなどの理由で教会に通うのをやめる方もおられると思います。 洗礼を受ける理由は人それぞれだと思いますが、教会に通わなくなる(通えなくなる)のも様々な理由があります。信仰心が薄れた事もありますし、カトリック系の大学に通ってて受けた人で、社会に出て忙しさのあまりに通えなくなった人(日曜日が仕事とか)、結婚や出産、育児、病気なども原因としてあげられます。また教会内での人間関係などのもつれなども原因になる事があります。他宗教へ変わる事もありますし、カトリック自体が嫌になる事もあるかもしれません。また幼児洗礼なんかですと、洗礼を受けたもののそのまま来ない人という方もいらっしゃると思います。 その場合でも一応「所属」している事になります。日本の場合教会が沢山ある訳ではありませんので、地理的な理由などであまり来れない人もいます(クリスマスと復活祭だけ来るとか)。いつでも門戸を開いているので来れるようになったら来て下さいみたいな感じだと思います。聖書の中に「放蕩息子」の話がありますが、教会もいつでも迎えれますというような感じではないでしょうか。 ちなみに知り合いの方ですが、もう何十年以上も教会に行ってなくて、転勤先でふと教会に行く事になってから熱心に行くようになった人がいましたが、向こうの教会にきちんと所属する為に自分が洗礼を受けた教会からの転出&転入手続きを取りましたが、きちんと名簿には載っていました。 またこれも知り合いの話ですが、やはり大学時代に洗礼を受けて熱心に通っていましたが、結婚や育児で長い間離れていたけど、育児が一段落したのでもう1度きちんと通いたいという事で、通い始めた後がいましたが、特に問題なく現在も通われています。 名簿に載る載らないというのは重要かもしれませんが、それよりも洗礼は生涯一度の神様との契約ですので、それが消える事はないのではと個人的には考えています。 ちなみにプロテスタントからカトリックへ変わって来られる方がいますが、その場合「転会」といいます。おそらく逆もまた同じ名前だと思います。この場合洗礼をやり直す事は出来ません(生涯ただ一つの秘蹟なので)。前の洗礼が有効であるという手続き?を取るそうです。 http://pauline.or.jp/modules/tokusyu/index.php/houtou/houtou.html←放蕩息子の話です。 棄教というのは、多分キリスト教禁止令が出ていた頃の言葉ではないでしょうか。遠藤周作さんの「沈黙」などでキリスト教を捨てる事を強要された司祭が出てきますが、確かに彼は捨てたかもしれませんが、神様は彼を見捨てる事はなかったのではと思います。 http://books.yahoo.co.jp/book_detail/31139803 現代において確かにキリスト教以外の他宗教に変わる時や、キリスト教そのものに幻滅して捨てる事はありますが、大抵の場合「やめます」というより自然消滅的になります。どうしても嫌な場合は司祭に申し出ると思いますが、そこまでする人はあまり見た事ないので、なんとも言えません。 >信仰をやめることについてどのように捉えられているのか 人それぞれ色々な考え方があるので、何とも言えませんが、生きているうちに色々な事があって考えも変わる事があると思いますので、辞めた方を追ってもしょうがないと思います。来るもの拒まず去るもの追わずみたいな度量と間口の広さがカトリックの良い点ではないかと個人的には考えてます。 まとまりのない文章ですみません。良かったらお近くのカトリック教会を訪ねてみて下さい。私よりもっと詳しく教えてくれると思います(^_^;)。一応興味があって質問したい事があるという事でアポイントメントをとった方が確実だと思います。 http://www.cbcj.catholic.jp/ ご参考までにm(__)m。
お礼
MAY1814さま、回答ありがとうございます。 お礼が遅くなって申し訳ありません。 カトリック・キリスト教の信仰の捉え方など大変参考になりました。 最近調べ始めた時代というのもまさに禁教令が出た時代のことで、おっしゃるとおりです。 名簿記載の有無というより、洗礼の持つ意味のほうが重要なんですね…勉強になりました。 興味を持って以来、カトリックの教会へは一度通ってみたいと思っています。今は近くに教会がないのですが…(笑) 貴重なお話をありがとうございました。
お礼
puregrapeさま、回答ありがとうございました。 お礼が遅くなってしまい申し訳ありません。 「ペトロ前3:21」や「コロサイ2:12」というのは聖書の目次(?)か何かでしょうか…? お恥ずかしながらまだ聖書を読んだことはありません…新約聖書は以前縁があっていただいたものがあるので、読んでみようと思っています。 洗礼についてもいろいろあるのですね…まだまだ勉強したいと思っています。 貴重なお話ありがとうございました!