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武士はどんな教育を受けた?
前にも似たような質問をしたのですが 武士といっても下っ端ではなく一国の主クラスの武士はどういう教育を受けたのでしょうか? 平安時代から江戸幕府成立するまでの話を教えて下さい。
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武士が学問を熱心にするようになったのは江戸時代からです。それまでは武術が武士の仕事だから熱心に勉強などしていません。圧倒的に貴族優位です。 貴族に聞くと圧倒されるので僧侶に聞いているのです。武士にとって先生は僧侶なのです。特に禅宗の僧侶に国主子息の教育が託されています。 江戸時代は平和なので武術は無用の長物となります。武士は支配者であり公務員なので、読み書きが出来なければ仕事になりません。教育の基本は論語で儒教です。儒教が理屈ばかりであったので、実践を重んじる朱子学が好まれるようになりました。犬公方で有名な5代将軍の綱吉は儒教のレベルが学者級であったと伝えられています。
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- TANUHACHI
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鎌倉時代の武士が持っていた素養といえば、流鏑馬・笠懸・犬追物が有名ですが、これはあくまでも武術としてのトレーニング的な意味合いを持っています。 その鎌倉時代の武家が拠り所としたのは旧南都仏教や平安仏教でもありません。法規範としての律令からすれば、彼等自身が想定外の存在ですから、彼等の正当性を裏付ける目的での思想も必要でした。それが禅の考え方であり、一時的に公式の外交関係が閉ざされていた中国との往来により紹介されたニュースタイルです。 旧来の南都仏教や平安仏教が経典の解釈を主眼としたために、そうしたテクストに触れるにはどうしても文字の読み書き能力が求められもし、そのために有力貴族は競って私設の教育機関を設けもしました。それが大学別曹と呼ばれる形です。 彼等がなぜその様なハコ物を造ったかといえば、日本がモデルとした当時の先進文化が全て中国の政治システムや思想であり、それらは全て漢文で記されてもいました。その漢文を読めるだけの資質が政権運営に携わる貴族や官僚にも求められるとの必要に迫られての形でした。官職やステータスを求めるならばどうしても漢籍や教典といった活字に関する知識が必要でした。 これに対し、禅にはテクストとすべきものが最初からは用意もされていない状態であり、道元の只管打坐に示される禅を組むことにより自己探求の方途とするなどの考え方が文字の読み書きができない武士にとっても取り掛かり易い存在だったともいえます。 あとは少し遡り平安期に行われていた「歌合わせ」にみられる、和歌に関する素養をはじめ、室町期に移入進化した茶道もあれば、世阿弥が古典に題材を求めた能楽もあります。 これらは風雅の道などとも呼ばれ、一つのテーマを演じるにはその背後にある歴史事象に関する知識も求められもします。芭蕉ならばそれが西行の足跡を辿る事であり、世阿弥ならば源氏物語をはじめ伊勢物語などの古典の言葉を聴くとのスタイルになります。 徳川の時代になりますと、社会秩序の維持を目的とするために儒教の宋学(朱子学)が幕藩体制にとってのスタンダードな基準となり、四書五経に関する読み書きが中心ともなります。 こうした官学に対する私学とも呼びうる存在が中江藤樹や熊沢蕃山といった陽明学派や伊藤仁斎・荻生徂徠・山鹿素行に代表される古学派の立場です。 もし「儒学に関する素養が武士の嗜みである」との説明がなされているのであれば、大塩平八郎の乱で大塩のとった行動を説明することが困難になり、儒学との説明だけでは不十分といえます。あくまでも「朱子学」と呼ぶ以外には許容の幅はありません。
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ふーむ。なるほど 詳しい話ありがとうございました。 また回答お願いします
平安時代から、となると相当に面倒といいますか、寡聞にして武士の教育史などという纏まった文献をしりません。 そもそも、武士たる者少なくともこのようなことを学ばなくてはならない、などと定められたのは江戸時代に入って世の中が落ち着いてきてからの話です。 切ったはったの戦国時代には、息子に学識があるか無いかよりも、武術戦略の才能や能力があるかどうかの方が問題でした。 文書が必要ならば朝から晩まで、お経なる漢文を読んだり書いたりしていた僧侶がいくらでも身近にいました。 情報交換や指示命令、同盟関係の制約などの文書の読み書きは必要でしたので、最低限の読み書きはマスターしてはいたようです。 室町幕府は文化優先の人達の集団で京都に居を構えていましたから、武士とはいえ文芸に対する素養は養われていました。 鎌倉時代は政治的にも安定した時期が長かったことから、それ相応の教育は僧侶や父兄の手でなされていたようです。 平安時代となりますと、上級武士は京都のお公家さんとのお付き合いが不可欠でしたから、必要な教養は身に着けていたようです。 ここで、注意する必要がありますのが、和歌です。 端的な例が辞世の句と呼ばれるものです。 下記サイトに例が載せられています。 辞世の句 戦国武将|勉強に役立つサイト Start Point www.start-point.net/jisei/ ここで注意して頂きたいのはこれ等の句が本人作のものか、ゴーストライターによるものかということもさることながら、一軍の将たるものは和歌の一句もその場で詠むことができることが求められていたということです。 有名なのが太田道灌の山吹の話です。 道灌自身は幼少の頃に鎌倉の建長寺に預けられて教育を受けていましたが、草深い関東の地で里人の女性から和歌を突きつけられて咄嗟に意を解することができなかったことを恥じ入ったという話です。 太平記に書かれています、衣川の戦いにおける源義家と安倍貞任との和歌による歌問答も、将たるものは和歌の一句もその場で詠むことができることが当然だという意識があったればこそ、書かれて後世まで伝えられました。 平家の武将であった、平忠則の話も有名です。 むしろ後年薩摩守忠則と記された名前の方が有名になっています。 西行も元はといえば佐藤義清と名乗る北面武士でした。 文学史に詳しい方であれば、武士の作った和歌をいくらでも推挙できるかと思います。 平氏も源氏も始祖は皇族で、京都生まれ京都育ちですから、当代一流の教育は受けていました。 後世でも嫡流であれば受け継がれていたかと思います。 義経も鞍馬山で教育を受けていました。 そうであればこそ僧兵とはいえ僧侶であった弁慶が付き従ったのかと思います。 軍事の天才であるというだけで無学文盲の粗暴なだけの男であったのであれば難しかったでしょう。 信長も、謡曲の敦盛を好んで謳い踊ったとされています。 平安時代については下記のようなサイトがあります。 忠盛から清盛へ www6.plala.or.jp/HEIKE-RAISAN/keifu/keifu5.html 江戸時代に戻りますが、武士というのは現代でいえば官僚です。 朝から晩まで文書と格闘していました。 大名、特に譜代大名というのは、江戸城へ入ればただの官僚の一員として扱われました。 書類を書いたり運んだり報告したりしていました。 家来をつれて威張っているなどということは許されませんでした。 常に本人の事務処理能力が問われました。 親の仕事を引き継がせる以上は、息子の教育は父親の大切な責務の一つでした。 四書五経などという空論よりも千字文などと呼ばれる実用性の高い教育が優先されました。 幕政に直接携われる大名は数が限られていました。 大半の大名は間違いなくお世継ぎを生んでくれれば充分な存在でした。 御家老連中もたいして期待はしていませんでした。 むしろ才能もないのに下手に藩政に口出しされるよりは遊んでいてもらう方が助かりました。 江戸城内での出世競争などには極力参加させませんでした。 何分にも武家というのは本来軍事組織の一員で職業選択の自由が認められていなかった階層です。 藩政に携われるのはほんの一握りの人達だけで、しかも大概は世襲でした。 平和な時代には、役務に就くことができなければ、学問をするか遊んで暮らす以外にやることがありませんでした。 学問好きの若者向けには藩校が設けられると同時に、私塾が沢山開かれていました。 日本は、中国や朝鮮のように、科挙という制度を設けていませんでした。 成績がどうのというのは名誉としての表彰がある程度でした。 史実として、抜擢されたとか出世したとかいう記録がある、と主張する人がいますが、例外的な特記事項だからこそ記録されて残されています。 日常生活をそつなく安寧に過ごした人間のことをいちいち記録して残すような閑人はいません。 300年間の間に生きていた武士の数を想像して下さい。
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ichikawaseijiさん ありがとうございます。 基本武士は必要なことだけ学んだって感じですね。 ありがとうございました。またお願いします
- jkpawapuro
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大名クラスの武士の師匠と言えばこの人が一番有名でしょう。 伊達正宗の幼いころの教育を担った虎哉宗乙です。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%8E%E5%93%89%E5%AE%97%E4%B9%99 学問教養等は虎哉和尚が担い兵法学と武術は守役の鬼庭左月が担ったと思われます。 室町時代から戦国時代になれば大名クラスは文武両方の教育を行ったと思われますが、それより前は学問の教育がどの程度行われたかは疑問ではありますね。
お礼
兵法は別の人が教えたんですね。 その僧は政宗に何を教えたのでしょうか? 回答ありがとうございました。またお願いします。
- TANUHACHI
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武士のルーツは元々土豪層ですから、一般庶民とさして変わりもしません。その武士が新たな権力者として世間の座に就いた時、最も苦慮したのが文書の発給つまり法令や現在の判決に相当する文書を如何に記したかとの問題は、既に日本史学や古文書学の世界では共通の理解となっている事項があります。 それは文書を専門にしたためる職業が存在し、祐筆などと呼ばれていたことも知られています。現在の書記官にあたり、その殆どが京都の朝廷に出入りしていた役人や公家です。 ですから時代劇に登場する「お殿様」といっても、別に高級官僚のような素養を持っていたわけでもありません。
お礼
そういう人がいるなら字は別に書ける必要はなくなりますね。 ならせいぜいやっていたのは馬と弓矢の稽古ぐらいでしょうか? 回答ありがとうございました。またお願いします
- tzd78886
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平安時代の国司クラスは家柄のほうが重要ですから、中にはろくに字が書けない人までいたらしいです。もちろん、実際には家庭環境と本人次第千差万別で、漢文や詩歌に励んだ人もいますし、兵法に熱心だった人もいます。石田三成みたいに武芸より管理部門に詳しい人もいました。
お礼
tzd78886さん。早速の回答ありがとうございます。 字もかけない国主もいたんですね。 石田三成は確か元茶坊主ですよね。 国主の嫡男のような立場の人がどういう風に育てられたか知りたいのです 回答ありがとうございました。またお願いします
お礼
titelistw1さん いつもありがとうございます。 武士は武術以外は基本何もしてなかったんですね。まあ不要ですからね。 でも国主となれば武術だけというわけにはいかないのでは? 僧侶は何を教えていたのでしょうか?非常に気になります。 綱吉は何のために、そこまで儒教を学んだんでしょうか?趣味でしょうか? 回答ありがとうございます。またお願いします