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立派な武士になるための教育
私は、頼朝や尊氏、信長、信玄、謙信が好きなんですが、彼らがああいった立派な武士になるためにどういった教育を必要としたのですか?気になったので教えてください。
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- eroero4649
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源頼朝と戦国大名との間には200年くらいの時代のズレがありますから、そこを一緒に語ることはできません。頼朝や足利尊氏くらいの時代は武士の身分というのは公家に比べれば低いものでした。楠木正成なんて、湊川の合戦の前に「平地の合戦なら数が多い足利軍に勝てないから、比叡山に避難したほうがいいッス」と進言したのに、公家から返ってきた言葉は「はぁ!?合戦が武略で決まるとか思ってんの?合戦に勝つかどうかは天皇の威光で決まるんだから寝ぼけたこといってんじゃねえよ。(後醍醐)天皇が出て戦えっていってんだから、その命令に従えば勝つに決まってんだろうが」というものでした(本当)。 源頼朝くらいの時代に一番重要視されたのは「いい血筋であること」です。これが全て。頼朝が武士の棟梁になれたのも「血筋が良かったから」です。だから名前が知られている割に何をしたかが伝わってこないのです。「名家の末裔」だから関東武士は頼朝に従ったのです。だから鎌倉幕府が安定して源氏の名家の血筋に頼る必要がなくなった辺りに源氏の血筋は不可思議な暗殺事件(源実朝暗殺事件)で途絶えて、実質的に政務を仕切っていた北条家の時代になります。近年の研究では、源頼朝は最初から北条家の人質だった説も有力になっていますね。 戦国時代はもう実力主義の時代ですから、実力が全てです。武田信玄は清和源氏の末裔という名家でしたから、当時のインテリが嗜んでいた漢詩なんかもやっています。 信長は守護代織田家の更に傍系という「田舎侍」ですからそういうインテリなことはしません。信長は代わりに茶の湯に傾倒しましたが、茶の湯が作法として完成するのは江戸時代になってからです。どちらかというと、流行りものに過ぎない茶の湯を芸術の域にまで高めたのが信長の功績といえましょう。 上杉謙信は幼少期はお寺に入っていました。当時のお寺は現代でいうならば学校ですからひととおりの教育は受けています。多くの戦国大名は幼少期にお坊さんがついてその教育は受けていますね。仏教に基づく思想哲学から読み書きといったところでしょう。 あとはもちろん軍人でもあるわけですから、槍や弓などの訓練も受けていました。ちなみにこれは江戸時代の徳川将軍も同じで、将軍は弓矢の練習の時間がちゃんと割かれていました。 現代の我々がイメージする「武士道」というものは、おそらくは江戸時代どころか明治の新渡戸稲造によって体系化されたのではないかなーと思いますよ。 元々「武士」というのは「家」と結びついた社会的地位を指す概念だと思ったほうがいいと思います。基本は「家」なんですよ。家族と家の名誉ですね。これを傷つけたり絶やすことが一番あってはならないことだったのです。家の名誉を傷つけない万能の方法が「切腹」だったのです。切腹なら、何をやらかしても武家としての名誉が保たれたのです。赤穂浪士が討ち入りにやたらとこだわったのも、主家たる浅野家の名誉が傷つけられたからです。主家の名誉が傷つくということは、その家臣である自分の家の名誉も傷つけられるのです。そして討ち入ることでその名誉が保たれたので四十七士は「立派な人たちだ」となったのです。
- jkpawapuro
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まず当時の戦国大名の嫡男の場合、多くの場合傳役に預けられ教育されます。 傳役は譜代家老層のNO1か2くらいの武将が多く、武芸および兵法を教えられます。教育とともに、嫡男の後ろ盾となる意味合いがでかいです。あとは領国を統治しないといけませんので、読み書きとともに論語なり四書五経なりを僧から学ぶのが一般的です。 ただ上記の中で頼朝だけはちょっと特殊で、武士の身分が成立する以前の人物ですので宮中作法等も学ばないといけません。落ちぶれた公家等でも連れてきたのでしょうか?