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ドイツ語 nicht gebricht の意味
- ドイツ語「nicht gebricht」の意味とは?この有名な歌の一節はうまく訳されていないように思われる。
- シューベルトの歌曲「Forelle」には、明るい小川で泳ぐ鱒の場面が描かれているが、魚が釣りにかかることを防ぐために捕まらないような状態を表現している。
- シューベルトの時代はヴュルテンベルク王国の絶対王権の下で、庶民にとっては厳しい時代だった。この歌の一節には政治的な意味も含まれている可能性がある。
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追加の御質問にお答えする前に、大きな訂正があります。 『鱒』にまつわる政治的エピソードの二つ目に、シューベルトが友人ゼンとともに警察に拘束されたときに歌った、というものを御紹介しましたが、これはペーター・ヘルトリングという作家の『シューベルト』に出てくるものです。これは、「伝記」かと思っていたのですが「小説」で、ゼンが警察の手入れにあったときに偶然シューベルトがその場にいたというのは事実のようですが、『鱒』をとっさに歌ったというのはこの本以外には書いてないので、フィクションと思います。事実このエピソードは、『事実と創作』という別の書物中に紹介されているもので、太鼓が鳴ったとか、とっさにグラスを手にした、とかのエピソードもあまりにも具体的過ぎ、出来過ぎているので、おかしいとは思っていました。 歴史については詳しくないのですが、このドイツの兵士売買に関しては、日本語で検索してもあまり詳しい情報は出てこないようです。フリートリヒ・カップという人が書いた『ドイツの領主によるアメリカへの兵士売買』という書物が出てきたのですが、ドイツ語でかなり長いので、拾い読みしかできません。これによると、シューバルトの時代の兵士売買の前提として、中世に始まったランツクネヒトが挙げられています。火薬の発明など、軍備の革新によって戦争形態が変わり、小さな封建国家が並立している状態からより大きな権力への集中が始まった時、貴族たちから離反され後ろ盾を失くしたマクシミリアン1世は、高価なスイス傭兵の代わりに、一般市民や農民を集めて傭兵にしました。若者はエネルギーが有り余っており、冒険心も旺盛だったので、集めるのは容易だったようです。この傭兵をランツクネヒト(Landsknecht)といいます。 Friedrich Kapp: Der Soldatenhandel deutscher Fürsten nach Amerika http://gutenberg.spiegel.de/buch/der-soldatenhandel-deutscher-fursten-nach-amerika-7425/1 ランツクネヒト https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%84%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%83%92%E3%83%88 日本語で出ている書物としては、ラインハルト・バウマン著『ドイツ傭兵(ランツクネヒト)の文化史―中世末期のサブカルチャー/非国家組織の生態誌』が参考になりそうです。 このランツクネヒト、ドイツ傭兵は、北米の植民地戦争にも送られました。シューバルトの時代は、いわゆるフレンチ・インディアン戦争で、北米の植民地でのイギリスへの反発から、アメリカ独立戦争へ発展しました。イギリスと対立関係にあったフランス、スペイン、オランダなどがワシントン軍に参戦してイギリスは不利になり、最後は負けるのですが、このときイギリス軍の兵力としてドイツから3万人の傭兵が送られています。 https://wondertrip.jp/domestic/93207.html ヴュルテンベルクのカール・オイゲン公は、1744年、16歳でヴュルテンベルクの領主となりますが、ここから専制政治が始まります。カール・オイゲンは大変な浪費家で、また名声欲も強かったため、その生活は豪奢を極め、すぐに財政難に陥りました。最初は、領邦教会からお金を取り上げたり、税金を上げたりしましたが、市民の生活が困窮したため同じ手は使えなくなり、それに代わる手段として傭兵売買に手を伸ばします。当初は志願兵を募ったのですが、マクシミリアン1世のころとは事情が違うので、誰も志願せず、やがて18歳以上の若者を暴力で捕え、場合によっては催眠薬を使うという残虐な方法で徴兵しました。この傭兵が外国へ売られるようになったのが1750年代ですが、逃亡する者が後を絶たなかったため、逃亡した兵士はその場で殺害し、幇助したものは刑務所へ入れ市民権を奪うことを決める法律を施行しました。1757年までの5年間で、300万グルデン(90億円くらい?)の収益を得ましたが、その後20年ほど兵士売買をしなかったため再び財政難に陥り、そこでまた1776年に3000人の傭兵をイギリスに売りました。この兵士たちは全く役に立ちませんでしたが、それでもまた1786年には、オランダ東インド会社に2000人の傭兵を売って30万グルデンと、年間配当金6万5000グルデンを得ます。 http://www.gah.vs.bw.schule.de/leb1800/karleug2.htm シューバルトはこれらを批判したことによって捕らわれの身になりました。なおシューバルトという人は、オルガン奏者、作曲家、音楽理論家でもあり、理論的著作は今でも残っています。作品は残りませんでしたが、この『鱒』の詩にもシューバルト自ら2回曲を付けています。そのうちの一つの楽譜が下のサイトに出ています(60ページ)。 http://search.proquest.com/openview/ca74814d158a3d0717064060ba2ff085/1?pq-origsite=gscholar&cbl=18750&diss=y 歌詞の終わりの部分 Sah die Betrog’ne anの個所ですが、この詩は実は4連から成っており、シューベルトは第4連を省略しています。内容的には、未熟ゆえに懸命さを欠く若者に、あの鱒を見よ、気を付けろ、という教訓ですが、若い女性に対する誘惑者への警告も含んでいます。澄み切った水の中で矢のように泳ぐ鱒は、自由であるべきすべての人間の象徴でもありますが、穢れなく突っ走る若者の象徴でもあります。この詩には、鱒と釣り人のほかに、それを怒りをもって見つめる「私(ich)」がいますので、これがシューバルト自身になると思いますが、シューバルト自身も謀略によって捕らわれの身になっているので、鱒の立場でもあります。 なお、シューバルトには自伝的な著作があるのがわかりました。読んでいませんが、捕らわれた頃のことも詳しく書いてあるようです。 http://www.zeno.org/Literatur/M/Schubart,+Christian+Friedrich+Daniel/Autobiographisches/Leben+und+Gesinnungen シューバルトの死には、生き埋めにされたという伝説が残っています。埋葬後しばらくしてから棺を開けてみたところ、中から引っ掻いたあとが残っていたというのですが、真偽のほどはわかりません。
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- Tastenkasten_
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ドイツ詩を読みなれないと間違えやすい個所ですね。 私は訳詩が掲載されている書物、楽譜を持ち合わせないので、 ネットで少し見てみましたが、基本的には、 「川の水が澄みきっているかぎり」 「水に透明さがなくならないかぎり」 のような訳でよいと思います。 二行に分けられているためと、 「So dachte ich」というセンテンスが挿入されているために、 「nicht gebricht」が独立して何らかの意味を持つように錯覚しがちですが、 これは二行で一つの文です。 (ドイツでドイツ語と歌を勉強しているというある方の個人のブログで、 この錯覚ゆえに「nicht gebricht」を「獲られはしない」と誤訳してありました。) gebrichtはgebrechenの三人称現在形ですが、 gebrechenは、「欠ける(fehlen)」「不足する(mangeln)」の意味です。 詩では、音節数や強弱のリズム、踏韻の関係から、 語順や文構造が散文とは大きく変わります。 gebrichtがこの位置にあるのは、 二行あとのnichtと脚韻(-icht)を踏むためです。 リズムは、いずれの行も弱拍から始まって、 7音+6音+7音+6音という規則的な音節数の四行から成り立っています。 「nicht gebricht」の主語は、一行目の「Helle(明るさ、明るい光)」です。 散文的な構造に書き換えると、このようになります。 Ich dachte so: Solange die Helle dem Wasser nicht gebricht, so fängt er die Forelle mit seiner Angel nicht. 直訳しますと、 私は思った、明るさが水から欠けない間は、 彼は釣竿で鱒を釣らない。 ですから、先に挙げたような訳、もしくは直訳調を残して、 「水が明るさを失わないかぎり」とするのがよいと思います。 日本語訳をするときに、この文構造を保持して、 「nicht gebricht」を切り離すのは、日本語の性質から言って無理があります。 あえてやっている例もありますが、やはり少し不自然です。 水に明るさが、 私はそう思った、なくならない限り、 彼も鱒を捕まえることは その釣り針でもできないだろうと。 (NHKラジオドイツ語講座2000年7月号) http://chor-ob.org/185/272 ********** 背景については、お察しの通り、 ヴュルテンベルクの絶対王政と係わりがあります。 シューバルトは、ヴュルテンベルクの臣民が イングランドの植民地戦争のために売られたことを非難し、 カール・オイゲンの愛人、フランツィスカ・フォン・ホーエンハイムを Lichtputze(燃えている蝋燭の芯を切る鋏)と呼んだ咎により、 策略によってヴュルテンベルク領内へおびき入れられ、 1777年から1787年までホーエンアスペルク城で投獄されました。 釈放にはプロイセンの介入があったとされます。 『鱒』の詩は、1783年、この投獄されていたときに書かれたもので、 濁りのない水の中の鱒が「自由な人間」の象徴と、 釣り人が「権力者の専横」の象徴と解釈されます。 『鱒』と政治的な背景との関連でもう一つエピソードがあります。 シューベルトの友人に、反抗的な革命家、ヨハン・ゼンという人物がいました。 メッテルニヒの圧政の時代です。 シューベルトがこのゼンとほかの友人と一緒にいたとき、 警察が踏み込んで、ゼンらとともにシューベルトも拘留されました。 家の外で警察の太鼓の音が鳴り響いたとき、 シューベルトは驚いて飛び上がり、 侵入者にかけようとするかのようにグラスを手に取りましたが、 次の瞬間、「何か歌を歌わなくてはいけない」という考えが頭をよぎります。 しかし、なにを歌ったらよいか思いつかず、 警察が踏み込んでから、とっさに口ずさんだのがこの『鱒』でした。 このことを、シューバルトの詩が持つ政治的暗示の内容と関連付ける向きもありますが、 シューベルトがその瞬間にその内容を意識していたのか、 単なる偶然かは解き明かすことができません。 ************* Max Planckの名言の件にはお役にたてませんでした。 私が見たとき、すでに回答がついており、 私が調べても、やはり1906年の著書の文がオリジナルで、 格言の方は別人によって作られたもののようです。 多くの英語のサイトでは、「Max Planck said」と、 プランク自身が言ったような書き方をしているのですが、 「しばしばこのように解釈される」として紹介している書物もありますし、 この格言が1940年代のものと記してあるものも複数あります。 (1920年代とする書物もあって、情報は交錯しています。) プランクが亡くなったのは1947年で、 ナチス政権下もドイツにとどまっていたので、 40年代に米、英で活動したとは考えにくいです。 もしドイツ国内で言ったのであれば、ドイツで広まっているはずですが、 その様子は全くなく、40年代に英語圏の別人によって要約、拡散した可能性が高いです。 格言中の言葉を「Wissenschaft」「Beerdigung」と仮定して検索にかけると、 ドイツ語のものはわずかに出ますが、すべて外国語からの翻訳で、 文も統一されていません。 Wissenschaftlicher Fortschritt resultiert aus einer Reihe von Beerdigungen. http://de.richarddawkins.net/articles/fest-verankert-permanent Die Wissenschaft verändert sich von Beerdigung zu Beerdigung. https://books.google.co.jp/books?id=Ye5KCgAAQBAJ&pg=PA318&lpg=PA318&dq=planck+wissenschaft+beerdigung&source=bl&ots=HNP5fO0nJ4&sig=qg7UfIHW6niwqwh9AllHAYTzzPY&hl=ja&sa=X&ved=0ahUKEwjr7uCep5rUAhUDGpQKHRT2DoIQ6AEITTAF#v=onepage&q=planck%20wissenschaft%20beerdigung&f=false Die Wissenschaft schreitet mit einer Beerdigung nach der anderen voran. http://www.zeit.de/2017/16/wirtschaftswissenschaften-oekonomie-ideen-kritik
お礼
有り難うございます。 Tastenkanten さんのお陰で、疑問の一行が解明され、時代背景も理解できました。もちろんヨーロッパの歴史を一日でマスター出来る訳はありませんが。 お願いできましたら、もう一押しのご援助を。 1.「ヴュルテンベルクの臣民がイングランドの植民地戦争のために売られたこと」に対しもう少し事実を教えて下さい。自助努力不足と言われそうですが。 2.歌詞の終わりの部分 Sah die Betrog’ne an. とありますが、これは騙された鱒を指していますね。そして、鱒は投獄されたシューバルト自身を象徴していると理解してよいでしょうか。 ==== 補足欄に理解不能の日本語を書きました。 投獄されたシューバルトと、死刑になった Max Planck を並べて、人間は進歩してないと申しました。唐突な発言でお恥ずかしい限りです。以後気を付けます。
補足
いつもながらお見事です。 白状いたします。昨日この詩を閉じたとき、何故か三格の冠詞 [dem] Wasser が網膜に残りました。あれは何かな、明日考えようと寝てしまいましたが、起きたら答が舞っていてくれました。主語は Helle である!! ラテン語を教える先生のお話に、ラテン語は格変化がハッキリしているので、語順はどうでもよいのだ。単語同士に距離があっても、「格」をおさえれば意味は通じる。という教えがありました。ドイツ語でもこの教訓は役立ちますね。 何十年にわたり、この歌は【春の小川はさらさら行くよ。】と同様、ただ明るい歌ととらえてきたので、政治的、社会的背景には驚いているこの頃です。 Max Planck の名言は、雑誌サイエンスの5月号に出ていたのです。Chomsky の文法はもう古いのではないかという記事の中にありました。第2次大戦の頃、Max Planck 自身も不遇であったが、彼の次男は反ヒットラーで死刑になったとか。 人間全く進歩しませんね。 Forelle について、まだ解明したいことがあります。追加質問あるいは、別質問になるかと思いますがよろしく。
お礼
有り難うございました。 教えていただいたこと、全ての検証が終わった訳ではありませんが。 現在やっちること; 先ず、知識を整理しております。一番長い論文が出来ます。 回りには色々な仲間やグループがありますが、皆さんの知識、趣味は同じではありません。 合唱団用、語学の仲間用、歴史やキリスト級の物知り/Kennner用と分けた説明文を長い論文から抽出いたします。 1番長い論文を貰う人は数名です。喜ばれるか、迷惑がられるか分かりません。 変なお礼ですが、お答えが単に読み捨てられるのではないというお話しです。 Ich bedanke mich bei dir fuer deine eingehende Erlaeuterung.
補足
本日 東京は日本晴れ、私の頭の中も もやもやが晴れて、機嫌良く過ごしております。Vielen herzlichen Dank! 私は学生時代に、西洋史を学んだことはありません。現在、個別の事例を勉強しても、頭の中に全体像、鳥瞰図がないため解釈が容易でありません。歴史は暗記物といなどと思っておりませんが、多くの事実を前もって持ておりませんと、理解が進みませんね。 記憶力がよい年齢に学ばなかったことは大損害です。 一方に於いて、足利尊氏は悪者で、楠木正成は大忠臣だというような先入観はなしに、西洋を見ることは出来ます。 以上、幼稚ながら、真面目にForelle 学ぶ者からのとりあえずのお礼です。 バチカンを訪れ、スイスの傭兵の写真を撮って帰っただけの旅行者は、少しく進歩いたしました。