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日本の暴力団の起源は火消しからだった
- 日本の暴力団は火消し団体が起源であり、火災時に火消しのための諽負を奪ったことから縄張り争いが起こりました。
- 政府の消防団の出現により、火消し団体は仕事を失い、博打を稼業とするようになりました。
- 暴力団は火消し団体から始まり、国から仕事を奪われ、博打の商売を始めたが、現在は覚せい剤の売買や賭博などを隠れて行っています。
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「臥煙」と呼ばれる人たちですね。まあ今でいえば民間警備会社みたいなものですが、全身入れ墨をしている男も多く、要するに歌舞伎町の用心棒みたいな感じの人たちなわけです。一応火消しが生業でしたけどね。 他に、旗本の中には役職がないものだから暇なので徒党を組んでチンピラになっている連中がいました。一応武士なので、町人は手が出せない。彼らは旗本奴(はたもとやっこ)といわれ、それに対抗する町人の集団である町奴(まちやっこ)とケンカ騒ぎなどをよく起こしていました。歌舞伎「幡随院長兵衛」がそれですね。 江戸時代は何をするにも人力でこなさないといけませんから、何かの事業となると人足が必要です。だから人を集められる人が必要ですし、「俺、力には自信があるけれど頭を使うのは滅法苦手」なんて連中は何かと喧嘩っ早い。そこを抑える連中にも迫力が必要です。そういう男たちを束ねる親分もいました。 今の山口組は、神戸の港湾労働者の人寄せを生業としていたのが起源です。明治以降の話ですね。 また清水の次郎長とかは地方で賭場を開いたりとか、そういうことをやっていた人たちですね。江戸時代はそれぞれの藩に犯罪捜査権があり、治安維持の責任は藩にあります。ので、ヨソの藩に入って逮捕するってのは今でいうと中国の公安が日本で逮捕しちゃうみたいなことになります。 だから逆にいうと犯罪者は藩の国境を越えるとそれ以上追われる心配もないわけです。上州(グンマー)なんてのは東西南北に逃れやすいし養蚕業が盛んでお金も流通していたので、そのスジの人たちが発達しました。 ですので、暴力団=やくざという図式で考えれば正しくもありますが、それが全てというわけではありません。いつの時代の、どこの国にも無頼の徒というのは存在するもので、それを束ねる親分というのも存在することで裏社会は裏社会なりの秩序が保たれるのです。
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- whaihansei
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江戸時代、陸路は街道が整備され東西交通が 発達しました。 宿場には多くの人と物が集いました。 一方、水上交通、海路も大発展しました。 遠方各地からの運搬はむしろ海路が主体 でした。 北前船は小樽から酒田、金沢、小浜、下関、 そして瀬戸内海から大阪に至りました。 そして大阪ー江戸間の海路。 さらには津軽海峡から太平洋側の江戸への 海路も開択されました。 内陸には、関東では利根川や荒川に「高瀬船」 が乗り入れ運搬を担いました。 このように海港、河川港が至るところに 形成されここを牛耳った人達は「御殿」を 建てたのです。 明治維新により「産業革命」が押し寄せ 陸路は鉄道がメインとなり、港は縮小して 行きました。 御殿は極く一部にのみ偲ばれるものに 消失してゆきました(荒川にあり)。 このような人、物が集まる所の盛衰の中に インサイダー、アウトサイダーな人の物語が あったものと思われます。 戦後、アウトサイダーな人達の再編があり また「暴力団」と称されるようになりました。 現在では国際貿易港である清水港の次郎長は 明治維新後インサイダーの人となり、江戸から 清水港へのいわば大量難民、徳川家と関連の 人々を受け入れました。 その清水の土地は駿府静岡、静岡市の区となり 英雄の眠る地として存在しています。
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- sutorama
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書かれていることも正しいかと思います 戦前(もっと大昔)戦後は警察(警察官)が市民間のいざこざなどの問題には干渉できない状況でした 例えば、ストーカーがあったとします 今ではすぐには解決されない問題ですが、昔は、その筋に頼むと、もうそのストーカーの家に怖いお兄さんたちが突然家に上がり込み、ストーカーを囲って、命の危機以上の恐怖を与えることで、すぐに解決できました いわゆる自称自警団です お金があるのに借金を踏み倒して偉そうにしているバカ 子どもがいじめをしているのに、自分は何もしないバカな親 弱みに付け込み安い賃金で、働かせている経営者 などなど 彼らに依頼すれば、一発で解決した時代があったのですね・・・ 市民は謝礼を払い、彼らは潤いました https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1214292137 善い悪いで言えば、あきらかに悪いですが、そのような時代が文化のように長らく続いていました 蛇足ですが今から数十年前、駅のホームは静かでした なぜかといえば、ヤンキーやその筋の怖い人がホームにひとりでもいれば、子どもから大人まで、ピシッと静かにしていました 今や、子どもから高校生の体力的に弱そうな人たちが、マナーも守らずギャァギャァ騒いでいますが、そんな光景は昔は見られませんでしたね
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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タームが違うのではないですか。 町火消しのどなたかが所謂る侠客であったという話はありますよ。 暴力団というタームは違う概念内容ですが。 新門辰五郎とか。 やくざとか極道っていうのも違いますね。
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- meido2010
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メチャクチャな歴史話を良くもまぁ長々と、誰に聞いたのですか?。 消防団は明治時代になってからできたものです。 江戸時代は初期に大名火消しと言って、将軍直々に命じられた 各大名が火消しを請け負っていました。 忠臣蔵で有名な播州赤穂藩が火消しを行っていて、大石内蔵助の 火消し装束が残されています、 町火消しを作ったのは、徳川吉宗の時代の大岡越前です。 いろはにほへとの順に組を作り、江戸の町を囲むように町火消しが できたのですが。 幕末の頃に将軍家が崩壊し江戸の町が薩長の支配になった時に、 治安を守ったのが辰五郎とその配下だと言われています。 勝海舟とも交流があり、ヤクザの親分とも兄弟の杯を交わしたとも 言われています。 元々、渡世人と言われる人たちは江戸中期に発生し、脇差を帯刀し 諸国を渡り歩く者です。そして組を作り地場に根付いて祭礼や的矢を 仕切るのが一般に言うヤクザと言われる賭博屋家業です。 め組の頭がヤクザの走りだと言うのは的外れです。
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- tpg0
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こんにちは。 日本の暴力団には「博徒(ばくと)系暴力団」と「的屋(てきや)系暴力団」の2つに大別されます。 確かに、博徒系暴力団の起源は「め組」というような火消し組から発展したようですが、的屋系暴力団は遊技代を払って弓矢で的を当てると景品がもらえる的屋(まとや)が祭りや縁日などでも露店を出すことで、露店を出す場所を割り振りする元締めになる者との師弟関係が築かれて親分子分のような上下関係になり暴力団に発展した組織もあります。 なお、祭りや縁日などに露店を出して収入を得られる的屋系暴力団は悪どいシノギ(稼ぎ)はしないですが、博徒系暴力団は賭博が禁止されてるため覚醒剤など違法薬物の密売など悪どいシノギをすることが多いようです。
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