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生きる意味意義とは?ヒト人類は消失絶滅すべきです。
shikanneiko20170419 「ヒト絶滅、全人類滅亡消失、無人化、へ…の説得・提言(・勧誘引導(導引))」 (2ページ目) 以上諸々のようなスタンス・態度を是と、している、させられている方々や哲学的思考、の断念を決意、を断念した、を断念している、人々→即ち斯界については寡黙状態の向き・諸人、そして更には哲学的思想関連の、権威、(学)識者、研究者、並びに(市井に存する人に於いても)哲学的な思考関連の情報系統の自分自己自身への入力行為にばかりいそしんでいる傾向の各人たちにも私、強調して提起したいです。 自己内の信念なり主張なり言い分なりを外界に向かって発信・出力・表現・「対話」しなきゃあ、てんで意味が無いんだよ!と云いたいのです。 (尚、自己の内因的制限要素(無学ものであります…)から、少なくとも私だけに限っては「ハムレット型」よりかは(当たって砕けろ式、猪突猛進然として…)「ドンキホーテ型」(陽明学然とも?)を踏襲する、地で行くしかないのがいささか悔やしい所です…。) 更にこうも言いたいです。 外的存在として超弩級巨大膨張広範化している決して無視できぬもの、即ちマスメディア・マスコミュなどの送り手から発信される情報、即ち政治、経済、社会問題、事件、等にとらわれ過ぎてはいませんか?と。 その殆どが、その場その時限り、当座的、短期的、(確からしい事実ではあるのですが、疑似的であるという意味で…→)空想・錯覚(←例えば、あたかも自分は世界や社会としっかりと繋がっているのだという幻想とか…)・別世界的、虚像・虚構的、民間性・庶民性の無さ、個人の力ではほぼ統制は不可能な点、恣意・偏向的、等の側面に特徴付けられている感じです。 しかして、考察すべき事の優先順位を真剣に考えてみれば、(そのようなほぼ無駄な雑念を生起させるものにとらわれる事無しに、)哲学的思考こそがその一番初めに来るべきものであり、且つ課せられた絶対的責務だと思います。 自然を制覇掌握凌駕するというひとつの価値観念、克服への念願、欲求、願望を以てして科学は今の今まで推進されてきました。 事物象を明確に「対象化」する事を端緒とする事は論を俟つまでもない「科学」の営みの基本的特徴かと思います。 現今まで科学ばかりが盛んに伸びました(細密化、精緻化、分化、新生)が、この方面(哲学的思想関連、周辺)の議論の(微々たるものでもいいし或いは画期的な)進捗はあったでしょうか? 諸「科学」分野は目まぐるしい隆盛をきたして目覚ましいものがありますが、肝腎の道徳、正義、正道、道義、倫理、聖性の精神、がおろそかにされている感じ…。 尚注意しなければならないのは「科学それ自体は厳然と存在しているのみ。」という事だと思います。 (その意味に於いては進捗途上(或いは「発見予定」的な科学)のものはおろか、未成立、未知、未開拓、未踏、未然、の科学(隠れて・隠されて、いまだ見果てぬ・見えない・見えていない・見る事が出来ない科学)もまだまだある筈です。「潜在科学」?) 只、それ自体には何の罪業性も無いです(科学の無害性)。 紛らわしい、ややこしいのですが、厳密には科学の功罪を問う事自体は全くのナンセンスであると思います。 但し、志学の傾向や「知識」「学」の取捨選択の、(情緒的・恣意的な)「偏向性」が問題として取り沙汰されると思います。 科学は推進、進捗させるにあたり目的が同時に発生すると思うのですが、その根底にあるものは返報・見返り・報酬等といった利益・利得に対する何らかの欲求願望(←私情、主観、個人的or固有or特定の嗜好・趣味・価値観念、を含意したものとして…)にまつわる要素因子であり、これを自動的に包含する、兼ね備える事になってしまうと思います。 外的な要因として時代・世相・社会に由来する要請・需要・機運・採用のされ易さ、等もある種の変数・関係性として大いに考えられるかと思います。 これらの関係性が介在、絡んでくる事に由り、始めて、これを運用する側に対してこそ、問題点が所在(私情、欲望、価値観念、感情、好悪、恣意、…等を以てして科学を良い意味でも悪い意味でも利用する)して来るのであると思います。 哲学はもっと万人(万「生物」にも)に門戸を開け放たれているべきです。 哲学自体に「悪気」(?)は無いのでしょうが、飽くなき精緻化を求め続けたがあまりに、複雑・難解(・怪奇)化してしまい、もはや実用的とは言えなくなってしまっている観があります(よく似たいい例が「広辞苑」でしょうか?内容の、精緻さ、広範さ、正確さ、情報量の多さ、等の面に於いて、紛れもなく非常に優秀、秀逸。その功績は殆ど誰もが認める所です。然し直截に言ってしまえば、重い!小回りが利かない!即ち、そのあまりの膨大な情報量を詰め込み過ぎたが為に、自重(ジジュウ)の重過ぎさがあだとなって、果たして便利、実用的と言えるかどうかははなはだ疑問…。という点です)。 例えば緊急時、暴動時、巨大異変時、等の場面に於ける長考熟慮高学識を必要とされる様になってしまった哲学の実用性とは?と考えました。 つまり長広膨大な「理論」が咄嗟、突差に何の役に立つのか?という素朴な疑問をかねてより、懐疑的な私は抱いております。 ですから、机上の空論呼ばわりされる事態が判らぬでもありません。 そのほかには、個々別々の、関係性、特徴、差異、等を加味した上で問題として顕在化される「汎用性」とかも考慮するべきに値するのでは? (例えば、国別・地域別等の場の素因、人種別・性格別・世代(「世代間のギャップ、壁」とか)別等の人間的素因、時代・時期等の時間の素因、等。) 哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは国連が考えられますが、実際のその進捗状況がどの程度なのかは全く謎に包まれています(もしかして、この方面の議論など軽視されているのが実情では?)。 しかも、国連の組織としての実質的真相、即ち実効力・拘束力の無さ、見掛け倒しの弱体的勢力に過ぎない事、道徳・倫理面に於いての完璧性とはまだまだほど遠くいまだ考究・整備が発展途上にある事、威厳が今ひとつ欠如している事、平等とは言い難く偏向性・階層性・差別性・恣意性が内在している事、等を考え合わせれば大きく夢・希望・期待を託す程までには、残念ながらとても出来ないように思えます。 非常に不安定的、危なっかしい感じ、印象を受けてしまいますのです。 他に哲学の議論・意見交換の場として考えられるのは大学あたりでしょうか…。 具体的にどのような授業が行われているのかは、私は全く知るべくもありませんので、せいぜい想像の域を出ぬのが何とも拙いのですが、例えば、その現場に於いては、哲学と哲学史とをはき違えていやしまいませんでしょうか。 他の偉大な先駆者達の、軌跡、わだち、功績、記録、資料、文献、をなぞる、模倣する、踏襲する、学習する、…。 これだけでは真の哲学とは言えないのでは? 無論自説の創始・展開の為の、参考資料やヒントとする分には大いに有意義でありましょうが、そこに主体的な私情や自己からの思考察を含意した編集的行為が必要なのではないですか? あと、私的、個人的牙城(限定的な空間、例えば、研究室、教室、議場、講壇場所、議会、講演会、等)に立て籠もって、引き籠もって、閉じ籠もって、内輪で同志間であれやこれやと議論・談論・意見交換してみてもそとに向けて出力しなければ何の意義も無いです。 これでは、ほんの少数の限られた学者連達だけのみに許容認可されている所詮は、独善的、自己満足的、快楽享楽悦楽的、衒学欲求的、な→「知的遊戯」・「お遊び」・私的趣味・道楽・娯楽・ゲーム・学知識の発揚or誇示の場、といった所ではないでしょうか。 そして、せいぜい為政者層・権力層或いは富裕層の諮問機関どまりに成り下がっているのが実態かと。 知的興奮を満喫し、教えを垂れる事に悦楽感を得、尚且つも高給取りで…。 こんなうまい商売は無いのでしょうか…。 自称「学者」「識者」の→実質「オタク」どまりなのでは? 孤高を決め込んでいる、特権化・専売特許化した、形式的哲学に堕した、ブラックボックス化してしまった、象牙の塔化した、敷居の高くなってしまった、哲学及びその周辺の「知」関連に未来はあるでしょうか? (昔も今も)(学)識者もさることながら哲学者関連の人々に、緊迫した課題を先送り、棚上げしている自我に対して良心の咎め、呵責は無いor無かったのでしょうか? 無力感に自己嫌悪に陥ってはいないのでしょうか? 哲学的思考の始まりの時代はいまだ制圧制御しきれない自然の脅威にさらされていました。 然しそれは今は昔の事、自然を気が済むまで征服、凌駕しまくってきた現今は価値観念の画期的革新が必須、迫られていると思います。 (3ページ目に続きます)
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- Nakay702
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思いを致してみる必要・意味はあると思います。 例えば、「人類の行く末」について かつて哲学は諸学問を統合する機能を果たしていた。そしてそれは今日でも変わらないはずである。すなわち現代哲学には、近代以降際限なく細分化してきた諸科学を統合して指針を与えるという機能がある、少なくともその使命を負っているはずなのだ。一方、現代人はあまりに人工化して自然児であることを忘れ、分析することに汲々として総合するという視点を失ってしまった。人間は自然の一部なのにこれを忘れて「人間帝国」を造り、体は一つなのにこれを切り刻んで部品化してしまった。かつてアインシュタインは「この世に無限なものが2つある。宇宙の広がりと人類の愚かさであるが、このうち前者について私は確信がありません」と言った。つまり、人類の愚かさが無限であることには確信がある、という趣旨であろう。 以上のことと今日哲学が軽視されていることとは同じ線上にあって絡み合っているように思われる。ある意味、我々が「進歩」だと妄信して精出してきたことが、実はとんでもない愚行、大自然を冒涜する反逆だったのかも知れない。いや、よく分からないが、少なくともそういうことに思いを致してみることが必要ではないかと言いたい。その意味で哲学は、我々が人間として「本当の幸福」を探求するために、本来最も重視すべき学問なのかも知れない。社会保護政策論の新たな展開は、こうした問題意識に基づくものと言えよう。 地上には様々な生命種(しゅ)がある。ある見方からすると、「種は進化するほどに絶滅するリスクを高めている」と言えるかも知れない。1つの種に属する個体の間には必ず個体間闘争があるが、それは自分の子孫を残さんがためで、強さ・大きさ・速さなどを競うのが通例である。競争なので留まることなく延々と続き、激化してゆく。事柄の必然として、そこから結果することはいずれ何らかの破綻に繋がらざるを得ない。そのようにして、種の滅亡が誘発されるという構造(自然の摂理)があるのだ。 例えば、カニの1種シオマネキのハサミは片方が異様に大きい。体の1/3くらいありそうな感じである。これも、大きさや強さを競ってきた結果であろう。そして、ハサミが体の半分ほどになってしまうと、これを引きずらなければ動けなくなるだろう。シオマネキは、個体間競争の結果、片方のハサミが異様に巨大化し、ひいてはそれがこの種族を絶滅に至らしめるかも知れないのである。一方、ゴキブリは最も長生きの1種だそうである。もう1億数千万年も変わらぬ姿で生きているという。因みに種の平均寿命は1千万年くらいと言われる。ではなぜ彼らは長生きなのか? それは、「進化しないから」らしいのである。馴染んできた環境とは違う世界に適応することも、そういう変化した環境を自分にとって都合のいいように変えようなどともしない。気候変動などで目下の住処が住みづらくなると、ただ逃げる、というか、生きられる場を求めてさすらうだけ、ということのようである。逆説的だが、「個体としては弱いのが、種としては返って逞しい」のかも知れない。 さて、ここで人類に注目してみよう。人類にとって「シオマネキのハサミ」に相当するものは何か。それは疑いもなく「頭脳」ではないだろうか。石器時代人の頭蓋骨に比べ、現代人のそれは約3倍と言われる。加えて、この現代の争いごとほど「頭脳戦争」の様相を帯びているものが他にあろうか。そのうち、タコのように頭から直接手足が伸びているような怪物に「進化」するのかも知れないと危惧されるほどである。そして超未来のある時、宇宙史にこう記録されるかも知れない:「太陽系第3惑星に様々な生物が存在した。そのうち、シオマネキは片方のハサミが、人類は頭が、それぞれ胴体より大きくなって滅亡した」と。 問題は、人間が「中途半端に頭がよくなった」ということである。というのも、ある報告(約30年前のキリスト教情報誌”Atalaya”の記事)によると、我々人類は99.7%の確率で自分の作り出した武器によって死滅する、つまり自滅するというのである。その信憑性については割愛するが、この説に従えば人類の自滅の可能性は極めて高く、わずか0.3%の存続可能性が残されているだけである。人類の行く末が、いや地球生命全体の行く末がこの0.3%にかかっている。我々はこの点にこそ頭を使うべきである。そのための提言を最大限絞り込んで、以下に箇条書きする。 (1)主体性ある個人主義を標榜し、異分子と共存する心性を維持し、「相互互恵の精神的スタンス」に立つ。 (2)専門分化を注視しつつ、その連携・統合・体系化により多く意を用いる。 (3)経済については、成長一辺倒でなく、循環経済的な手法を積極的に取り入れる。 (4)異文化間・国際間の関係では、可能な限り、国家・民族・企業等に代表される集団としてのタテマエや役割に固執せず、生身の個人的存在として、「裸のつきあい」的な交渉・協定を志向する。 以上のような理想的条項は、極めて重要であるにもかかわらず、現実には制約条件が非常に多い。したがって、状況や必要に応じて柔軟に対応しつつ、永遠に求め続けていくことになるだろうし、求め続ける姿勢が重要である。それを放棄する時こそ、99.7%の自滅へ向かって驀進することになってしまうだろうから。そこでは、人間は自らを非理性的で野蛮な存在でしかないことを露呈することになり、その行く末は、「頭脳の肥大化した怪物」に堕して、結果的に人類の自滅へ向って疾走すること必定である。 「本当に頭がよい」とはどういうことかについて考え直し、「0.3%の方向へ」人類の英知を結集したいものである。