• ベストアンサー

カエサルの有名な「賽は投げられた」

古代ローマ史・カエサルの言葉として有名な「賽は投げられた」は、どういう経緯で生まれたのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

>どういう経緯で生まれたのでしょうか? 紀元前49年1月10日、元老院の命令に逆らい軍を率いて南下し北イタリアのルビコン川を通過する際に言ったとして知られる言葉で「もう後戻りできないまで進んだので、最後までやりきるしか手は残されていない」と言う意味。 出典はスエトニウスの文章と言われています。 何らかの重要な決断をして、後戻り不能な行動を起こす事を「ルビコン川を渡る」と言います。 因みに、当時のカエサルは「単なる軍人」でした。 また、当時、軍隊を連れてルビコン川の内側に入る(ルビコン川を渡る)のは禁止されており、違反すれば「反逆者」として処罰される事になっていました。

その他の回答 (2)

回答No.3

早稲田大学国際教養学部教授の本村氏が下記のページで解説していますので、一部抜粋します。 http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=1650 クラッススが亡くなると、ポンペイウスとカエサルの両派対立が始まる。そこには、ユリアの死という不幸も重なっていた。ある時期から、カエサルは自分の娘であるユリアを、やもめ暮らしだったポンペイウスのもとへ嫁がせていた。夫婦仲は非常に良好で、ポンペイウスは軍人として役に立たなくなったのではないかと噂されるほどだったという。しかし、その愛妻を産褥で亡くしたことがローマ史全体を揺るがす出来事だったと本村氏は考える。カエサルとポンペイウスをつないでいた絆が、それによって喪失してしまったからだ。  民衆派と閥族派の対立は依然として続いていたので、いずれ別の人間が選ばれていたかもしれないが、ユリアの死によりポンペイウスが閥族派のリーダーに担ぎ上げられる。この両者と派閥間の争いが顕在化する中で、カエサルは大きな決断を下すのである。  当時、ローマ軍は遠征から帰ってくる際には武装解除することが法律で定まっていた。その国禁を破ってカエサルは、ガリアから戻る自軍の武装を解かないままルビコン川を渡る決断をする。有名な「賽は投げられた」の言葉が放たれたのは、この時だ。

  • mpascal
  • ベストアンサー率21% (1136/5195)
回答No.1

関連するQ&A