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「カエサルのものはカエサルに返しなさい」とは?
キリストの「カエサルのものはカエサルに返しなさい」というセリフは、「政治に関与するな」とかあるいは「政府に反発するな」という意味だったんでしょうか?
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いえいえ。他の方も少し述べていますが、それは「ローマへの納税はすべきですか?」という質問への回答です。そしてこの質問は、アンチイエス派による「狡猾な質問」だったのです。 もしイエスが「ローマへの納税はすべきだ」と答えたら、イエスは「ローマ帝国の犬だ」ということになります。当時のユダヤ人たちは自分たちがローマの植民地とされていることに大きな不満を持っていました。 実際、イエスが処刑されてから数十年後にユダヤ人たちは大規模な独立運動の反乱を起こし、ローマ軍によって鎮圧されると怒ったローマ皇帝は二度と反乱が起きないように、イスラエル(パレスチナ)の地からユダヤ人を追放します。これが「ディアスポラ」になり、ユダヤ人たちはそれから約二千年間「国なき民」となって世界中に分散することになります。 なので当時のイスラエル(パレスチナ)においてローマ帝国の支配を受け入れる発言をすることはユダヤ人に対する大変な裏切りになるのです。 だからもしイエスが「納税にイエス。イエスだけに」と答えたら、アンチイエス派は「イエスはローマの犬だ」と宣伝しまくり、そうなったらイエス人気は地に落ちたでしょう。 ではもし「納税はすべきではない」と答えたら?その場合はローマ帝国への反抗を口にしているわけですから、明らかに「反乱を扇動している」という発言になります。 そうなったらアンチイエス派はすみやかにローマ総督に「総督、あのイエスってえ野郎はローマへの反乱を扇動していますぜ!」と報告できます。そうなったらイエスはローマ帝国によって逮捕され、処刑されることでしょう。 つまりイエスと答えても、ノーと答えてもイエスを追い込める「究極の選択」だったのです。ある意味、イエスにとって最大の危機だったといえるでしょう(一番の困難は逮捕されて処刑されるところですが)。 それに対してはイエスは「お金(ローマ帝国のコイン)には何が描かれているか」と返しました。コインには皇帝(カエサル)の顔が刻印されています。皇帝の顔が描かれていると誰かがいって、それを受けて「カエサル(皇帝)のものは、カエサルに。神のものは神に返そう」といったのです。 まあいってみればどっちも詰みになる狡猾な質問に、とんちで躱したといっていいと思います。
その他の回答 (4)
意味というより、「ローマに税金を払うことは律法に適っているか」などという(イエスを罠にかけるための)くだらない質問に呆れてそう答えただけです。 大事なのは「神のものは神に返せ」すなわち信仰です。
- timepointstreem
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「カエサルのものはカエサルに返しなさい」とは、聖書の中のマタイによる福音書22章21節にある言葉であり、イエス・キリストがファリサイ人たちに対して言った言葉です。この言葉は、「政治と宗教を分離せよ」という意味で解釈されることがあります。 当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ローマ皇帝に対する貢物を支払うことが義務付けられていました。ファリサイ人たちは、この貢物を支払うことがローマの支配を認めることになると考えており、反対していました。そこで、彼らはイエスに、「貢物を支払うべきかどうか」という難問を投げかけました。 イエスは、「カエサルの肖像が刻まれた貨幣はカエサルに返しなさい。そして、神のものは神に返しなさい」と答えました。これは、ローマ皇帝が発行した貨幣にはローマ帝国の支配が表現されており、それを使用することはローマ帝国の支配を認めることになるということを示しています。一方で、人間は神によって創造された存在であり、神に対する忠誠心は優先すべきであるということも示唆されています。 つまり、「カエサルのものはカエサルに返しなさい」とは、政治的な義務を果たすことが大切であることを示していますが、それが宗教的な信念や道徳的な原則に反する場合は、その義務を果たすことは許されないということを意味しています。したがって、この言葉は「政治に関与するな」という意味ではなく、「政治と宗教を分離せよ」という意味で解釈されることがあります。
- chie65536(@chie65535)
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>政治に関与するな」とかあるいは「政府に反発するな」という意味だったんでしょうか? 違います。 「カエサルのものはカエサルに返しなさい」のあとには「神のものは神に返しなさい」という文言が続きます。 意味は「国民の義務を守ることと、宗教の教えを守る事は、次元が異なるので、両方を守る事は矛盾せず、両立できる」です。 「政治家や国王などの権力者、上流階級、平民、貧困者、善人、犯罪者、愛国者、愛国者でない者、反政府不穏分子、誰であっても、分け隔て無くキリスト教を信じて構いません。キリスト教はすべての者を受け入れます」という意味に解釈すれば良いでしょう。
- dedypraja
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「善」や「悪」については、社会や文化、宗教などによって異なる価値観が存在します。一般的に、善とされる行為としては、他人の利益や幸福を追求することや、正義や道徳に基づいた行動、誠実さや優しさなどが挙げられます。一方で、悪とされる行為としては、他人や社会に害を与えることや、自己中心的な行動、不正や不道徳な行動などが挙げられます。 しかし、何が善で何が悪かは、時代や文化、立場や環境によっても変化することがあります。また、個人の価値観や人生観によっても異なる場合があります。そのため、善悪については、一概には定義づけることができず、人々の意見や価値観が多様であることを理解しておく必要があります。
お礼
大変詳しく教えていただき、みなさん、ありがとうございました!