• ベストアンサー

ミッドウエー海戦の時

ミッドウエー海戦の時、第一次攻撃隊隊長は淵田中佐ではなく、友永大尉でした。別に攻撃隊長のできる人はいなかったんでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mm058114
  • ベストアンサー率30% (102/337)
回答No.2

友永丈市大尉は飛龍飛行隊長で、4空母の中では一番最後任の飛行隊長です。 しかし古参大尉で、あと数ヶ月で少佐昇任が決まっていました。 ですから、実質他艦の飛行隊長とは遜色ありません。 友永丈市大尉は、艦攻の操縦科です。 この第一次攻撃隊は、1航戦-艦爆、2航戦-艦攻を出しています。 元々は淵田中佐が第一次攻撃隊隊長を予定でしたが、虫垂炎のため急遽外れました。 淵田中佐は艦攻偵察科です。 淵田を出すと言うことは、担当機種が変わり、1航戦-艦攻、2航戦-艦爆となります。 これも、友永大尉が攻撃隊隊長になった理由かもしれません。 2航戦の先任艦攻隊長は、蒼龍の江草隆繁少佐です。 更に、1航艦の先任には、赤城の板谷茂少佐-戦闘機隊長、村田重治少佐-雷撃隊飛行隊長、 加賀の飛行隊長楠美正少佐-艦爆-の3人がいましたが、 第一次攻撃隊がミッドウエー島陸上攻撃となったため、 対艦隊攻撃のため母艦待機となりました。 つまり、1航艦としての第一次攻撃はミッドウエー島陸上攻撃になりました。 技量高のベテランは対艦隊攻撃に母艦に残され、 ミッドウエー島陸上攻撃には、若年者は攻壁に向かいました。 この友永ミッドウエー島陸上攻撃隊が発令されるとともに、 第二次攻撃隊用命令として、 『第4編成』=指揮官:加賀の飛行隊長楠美正少佐、が発令されています。 私は、この『第4編成』の内容が上記の内容ということしか知りませんが、 『第〇編成』と、いくつものオプションが準備されていて、 その時の状況、作戦に応じてチョイスしました。 飛行隊長は少佐が定員で、中佐は艦隊なら飛行長、陸上なら副長が定員です。 淵田は、既に赤城飛行隊長を卒業し3航戦参謀になり、 現場航空搭乗員卒業の中佐になっていました。 航空母艦統一指揮と搭載機の集団攻撃のため、 1航艦編成され、源田実航空参謀が真珠湾攻撃のために機上総指揮官が必要と、 既に中佐になって1年の淵田を招聘しました。 昭和16年の定期人事異動は、開戦間近ということで見送られていましたが、 一段落として、延期していた人事異動を昭和17年4月に実行、 母艦航空隊も半数が入変わりました。 航空母艦統一指揮と搭載機の集団攻撃戦術を始めて1年経っていないし、 まだ、米空母戦が残っているので、淵田はそのまま残されました。 また、同時に空母の搭載機数が減らされました。 これを一部の本やサイトなどで、 改装空母、特設空母が多く就役するので、引き抜いたとしていますが、間違いです。 真珠湾攻撃を最大限の効果を生むためにと、軍令部と交渉して、 第一段作戦終了までという期限付きで、 陸上航空隊の交代員機材や教官を一時的に引き抜いたのを、従来の定数に戻しただけです。 その状態でミッドウエーを戦いました。 更には、ミッドウエー作戦は、1航艦は1.2.5航戦6空母で作戦立案されていましたが、 直前の珊瑚海で5航戦は、翔鶴が傷つき、瑞鶴に載せる航空隊が準備できず、 5航戦は、ミッドウエーに連れて行けませんでした。 もう作戦は動きはじめ、今更の空母配置変更は全艦隊の配置変更になるため、 1航艦は4空母で作戦強行せざる負えませんでした。 そのため、友永大尉のオプションが生まれたとも言えます。 翔鶴には、珊瑚海で戦死しましたが艦爆の高橋赫一少佐、 瑞鶴には、艦攻の嶋崎重和少佐 がいました。 6空母無事に参加時には、友永隊長は無いかもしれません。

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 飛行隊長として友永大尉は十分資格のある人だったんですね。

その他の回答 (1)

回答No.1

そもそも中佐が航空隊の隊長を勤めることは珍しく、真珠湾の攻撃隊隊長を淵田中佐が担当したことは、良く言えば思いきった人事、悪く言えば降格人事と見なされていました。 何故友永大尉が選ばれたのかと言う問題はともかくとして、ミッドウェー当時の戦況や日本の人事慣習として、淵田中佐が航空部隊の隊長を務め続ける必然性が無かったのは事実です。 またこれは皮相な言い方になりますが、淵田中佐は真珠湾後に前線からは退いた結果、戦後まで生き残り、真珠湾作戦に参加した貴重な生き証人となりました。ミッドウェー以後の航空部隊の損耗の激しさを考えると、その後も淵田氏が前線で航空部隊の隊長を勤め続けていれば、到底生き残ることはできなかったでしょう。

ithi
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 またこれは皮相な言い方になりますが、淵田中佐は真珠湾後に前線からは退いた結果、戦後まで生き残り、真珠湾作戦に参加した貴重な生き証人となりました。 確かにそうでした。彼は多分、ミッドウェーで最後の飛行隊長になる予定でしたね。でも、ほかにも蒼龍航空隊の江草少佐でもよかったのではないでしょうか?

関連するQ&A