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駕籠はいつ頃から姿を消したのですか。

明治時代になっても近距離の移動には駕籠が便利だったと思いますが、東京の街から駕籠が見られなくなったのは、いつ頃からですか。 近距離の移動で、駕籠に代わって登場した乗り物は何ですか。人力車ですか。 新聞記事か何かで確認できますか。 よろしくお願いします。

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回答No.10

改めましての続きです。 前回[新聞集成明治編年史.第一巻/林泉社]の吉原廓内掟でもそうですが、 キーワード「駕籠」索引検索とかネット検索では、なかなか打開策が見出せ ません。かと言って全文検索など出来るはずもありません。 そこで「駕籠」から離れ漠然と明治期の東京府関連情報を追求する中、 [古今百風吾妻余波.第1篇/岡本昆石(経朝)編/森戸錫太郎/明18.10] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767832/24 [24/100](6丁ウラ=右側頁右端4段目)「駕籠/かご」 同じく [古今百風吾妻余波. 1編 / 岡本昆石 編纂 ; 鮮斎永濯 図画] 東京府:森戸錫太郎, 明治18[1885] http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko10/bunko10_06553/ http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_06553/bunko10_06553.pdf [17/66] を見かけました。書籍タイトルは「古今百風吾妻余波」ですが、 目次題目は「東都看版譜」とあって他の看板等は明治期の物が多いようで、 素人目には明治初期の名残か明治18年頃の物かの判断が出来ません。 これだけでは埒が明かないので、明治期の東京府関連情報の中、 統計の類はないものか、地方税(駕籠税)課税対象なら営業用・自家用の駕籠 数が見出せてもおかしくないものの、全く擦りもしないところ、 下記3冊に遭遇しました。 [東京府農商工要覧.第1回/東京府農商課/明治20.4.27] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801532/172 [172/252](320頁) 府内運送賃銭 明治二十年 種類     /毎一里ノ運賃 昼間/夜間 人力車一人乗  〇・〇六〇(円)   〇・〇九〇(円) 人力車二人乗  〇・一〇〇     〇・一五〇 駕    籠  〇・四〇〇     〇・六〇〇 [東京府農商工要覧.第2回/東京府農商課/明治22.12.30] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801533/191 [191/271](358-359頁) 府内運送賃銭 明治二十一年 種類     /昼間運賃(一里ニ付)/夜間運賃(一里ニ付) 人力車一人乗     六〇(厘)      九〇(厘) 人力車二人乗    一〇〇       一五〇 駕    籠    四〇〇       六〇〇 [東京府農商工要覧.第3回/東京府農商課/明24.4.21] http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/801534/184 [184/298](340-341頁) 運送諸賃銭 明治二十三年十二月三十一日調 種別     /昼間(一里ニ付) 夜間(一里ニ付) 人力車一人乗     八〇(厘)     一二〇(厘) 仝  二人乗    一二〇       一八〇 駕    籠    三五〇       五二五  ─(中略)─ 駕籠ハ垂駕籠ヲ以テ標準トス 上記3冊から明治23年12月31日時点における 東京府下での営業用の駕籠の存在が浮かびました。 よって「東都看版譜」の「駕籠/かご」看板は明治18年頃の物と考えても 問題はないようです。 これを前回分と組合せますと、 明治四年中は辻駕籠の激減期で、遅くとも明治8年に至っては 一部例外(病人・葬式・嫁入)を除き東京中で駕籠を見かけなくなったものの、 明治23年12月31日時点でも営業用の駕籠は存在した。 これらを矛盾なく当て嵌めようとするならば、 一部例外(病人・葬式・嫁入)は自家用・営業用の別などが?ですが、 明治8年の「東京中」は区部域、明治23年頃は「東京府下」のうち 概ね郡部域のいわゆる山駕籠とでも考えざるえません。 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 明治中期においても営業用の駕籠が東京府中に存在していたことがよく分かりました。 ご教示の確かな資料で確認できました。 また、明治20-24年ごろ、運送賃銭が人力車より駕籠の方がざっと6倍も高かったことも分かりました。 運賃が、人力車登場時から駕籠より安かったのは全く意外でした。 しかし、後発の人力車が商戦上、駕籠より安くして勝負するのは当たり前なのか、と思いつきました。 >明治四年三月[新聞雑誌3月(1号)]「人力車の増えたのは値段の安いのと、速さとによるので、“以テ器械ノ効力(シルシ)ヲ見ルベシ。」 なるほど!! 一人を運ぶのに駕籠なら二人、人力車では一人ですみます。 二人乗りの人力車もありましたから、二人連れには便利です。 やっと、人力車が劇的に増えた理由が解りました。 「弔駕籠」は全く知りませんでした。 子どものころ、田舎の葬式で何度か見たはずですが思い出せません。 駕籠にこのような用途があったとは驚きです。 また、病人は駕籠で運ぶこともあったのですね。 駕籠なら「なるべく、そうーっとお願いします」と頼めばよさそうです。 お蔭様で疑問は解消しました。感謝申し上げます。

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その他の回答 (11)

回答No.12

>この記事から、病人や倹約の葬式、旧弊の嫁入には駕籠が使われていたと >いうことですから、営業用の駕籠もあったと推定できます。 記事(明治8年12月30日付)は駕籠の激減期(明治3-4年頃)から4-5年程度と間 もない時期(国税課税対象期間2年間を含みますが)でもありますし、 人力車激増、即、駕籠全部廃棄でもないでしょうから、 少しは生き延びたのでしょう。 ただ、例えば「倹約の葬式」の場合、果たして駕籠本来の交通手段の一つと 言えるのかとか、また営業形態などには疑問も残ります。 下記は参考事例とまでは言えませんが、関連事項として書きとめます。 [2/15](10頁20-27行目) 明治初期、葬儀を請負うのは、駕諸人請負業者であった。当時、葬祭業者を “駕屋”と称していたが、これは霊柩車の役割を駕が果たしていたことに由 来している。 ─(中略)─ 明治三十六年ころには、大阪市内の葬儀業者は 三千人を数えたが、その半数以上は薪炭商、運搬業、煙草店、八百屋、水屋、 人力車帳場等を副業または本業としていた。 [公益社社史『葬祭五十年,S57.12』p.485] 葬祭請負一本に商ができるようになるのは明治二十年前後からである。 [公益社社史『葬祭五十年,S57.12』p.501] [3/15](11頁4-7行目) 同(明治四十)年春 ─(中略)─ その中で葬儀に使われる駕籠は「富貴の家 の葬儀に用いる贅沢品」ではなく、「貧民喪家の大礼に供するものの具」で あり、駕籠税は結局、葬儀費用の高騰を生み、貧家の葬儀の対面をそこなっ たり衛生性の問題を生じたりすることになると主張 ─(後略)─ <村上興匡「都市葬祭業の展開と葬儀意識の変化」 『東京大学宗教学年報.XXIII,2006.3.31』(p.9-22)> http://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/dspace/handle/2261/25984 葬儀慣習の全国的な変化の一つとして、葬列から告別式への中心儀式の移り 変わりがある。東京の場合この変化は明治末に、主に上流階級から始まって、 大正末期には庶民も葬列は完全に行われなくなる。 <村上興匡「明治期葬儀慣習の変化と風俗改良運動: 宗教結婚式との比較」『宗教研究 77(4),2004.3.30』p.1177-1178> http://ci.nii.ac.jp/naid/110002826510 東京の葬儀習慣は大きく変化してきた。 ─(中略)─ 明治以前の葬儀屋に あたる職業は早物屋と呼ばれていた。早物とは葬具一般のことで、死者が出 てから急いで作って売った。明治になると、葬具賃貸業としての葬儀屋が成 立する。明治十九年神田鎌倉町に開設された東京葬儀社がはじめて「葬儀社」 として紹介された。輿屋とか棺屋とか呼ばれていた明治期東京の葬祭業者の 主たる業務は、棺や祭壇、葬列を飾る提灯や紙花など通夜や葬列に使う葬具 の調達貸し出し業務のほか、火葬場や葬儀人足の親方などへの手配業務だっ た。大正の初め頃から、主に交通事情により葬列の葬儀は徐々に数が減りは じめ、関東大震災以後には葬列を組むこと自体が不可能になった。─(後略)─ <村上興匡「近代葬祭業の成立と葬儀慣習の変遷[論文要旨] 『国立歴史民俗博物館研究報告 91,2001.3』> https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun4/index.html あと、人力車数に関しましては、色々数字が有り過ぎて真に悩ましいです。 東京都人口約1300万人に対しタクシー約5万台、 明治5年東京府人口約86万人に対し人力車仮に約4万、 各種交通機関の創成期前の明治初期と現在とを単純比較は出来ませんが、 約4万は大いに疑問が残るところです。江戸期駕籠の場合は火急の時か吉原 などに利用する程度で無縁の人々も多かったとか。 また、<東京一覧.上/井上道甫編/須原屋茂兵衛/明8.2> http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/779929/42 [42/49](三十六丁オモテ) 人力車 ○一万七百九十七 自転車 ○四 棺車  ○四十六 などあれど、駕籠数はもはや計上されず。 ますます、駕籠の数又は占有率が気になります。 アチコチあたりましたが東京府関連情報は見出せず、 明治6年8月1ヵ月間の東海道興津川橋(静岡市清水区)の交通量表(下り)では、 <淺香幸雄「明治六年八月東海道興津川橋の交通量」 『地学雑誌Vol.46(1934)No.6』(p.292-295)> https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/46/6/46_6_292a/_article/-char/ja/ [3/4] 人力車「1793」に対し垂・山駕籠「36」、 この数字をそのまま東京府に当て嵌めることは出来ませんが、 明治6年8月静岡界隈ですら「49.8対1」≒50対1、 この比率からある程度は東京府下も推して量れるのではないでしょうか。 以上

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答ありがとうございます。 「東京中にて病人のほか駕籠に乗る者なし、尤も倹約の葬式か、旧幣の嫁入には駕籠を用ゆるも有ると云へり」の記事ですが、仰るように葬式や嫁入で用いられる駕籠は、質問本来の“近距離の移動”ではありませんね。 病人を運ぶために用いられる駕籠は、“近距離の移動”と言えますね。 子どもなら寝かせることもできますから駕籠の依頼もあったのでしょう。 わざわざ高い料金を払って駕籠に乗ることを“粋”だと思った人もいたかも知れません。 「近頃、(東京の街から)とんと駕籠を見なくなったね」「でも、○町で一度見かけたよ」というような話は、明治10年ごろ(いや、もっと前かも)から出始めたということでお開きにしたいと思います。

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回答No.11

No.9のうち[新聞集成明治編年史.第一巻/林泉社]関連の補完と その他です。 [新聞集成明治編年史.第一巻/林泉社] 明治五年十月 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/279 [279/295](496頁4-5段目/挿絵「吉原売女解放退散雑踏の図」) 〔一〇・二、東京日日〕記事(496頁2-3段目)又は 〔一〇・五、東京日日〕記事(497頁3-5段目)の何れかに対する挿絵 のようですが、挿絵の上中央にも下左にも駕籠が描かれています。 なお、下記によればこの挿絵の出所は、 [明治奇聞/宮武外骨編/成光館/昭和4]<●娼妓芸妓解放令> http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146713/64 [64/208](14-15頁) 柳水亭種清(1821-1907)作の小説本中の挿絵で、 作者は楊洲周延(1838-1912)だそうです。 上記書籍タイトルゆえ、その中からネタ探しをしてみましたが、 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146713/21 程度で残念しました。 また、一部例外(病人・葬式・嫁入)のうち「倹約の葬式」関連にあたってみ ますと、「棺車」のところを倹約のため「駕籠」を用いることもあって、 「弔駕籠」と呼ばれるそうで、どうやら尾崎紅葉(1868-1903)の葬式では 「駕籠」だったとか。ただ、一部例外を漁っていては際限がありませんので これ以上は深く追求ぜす中断しました。 あと、明治期の駕籠と外国人とで何か見つからないものかとネット検索して みますと、本題からは逸れますが、下記など。 明治の巨大私鉄 日本鉄道(青木槐三の人物で見る鉄道史1) (鉄道黎明の人々 青木槐三より) 3 雇外人の大名駕籠で測量 http://ktymtskz.my.coocan.jp/aoki/nihon.htm#3 「駕籠に乗って険阻な山道を行くのはよいとして、その駕籠が大名の乗物で なくては、どうしても行かぬと頑張ったので、四方八方手を尽して大名の乗 物を求め、これに乗って貰った。」とか。 以上

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回答No.9

多くは既に御存知の事ばかりの前振りが長くなりますが、 「近代日本の身装電子年表」によれば、 http://htq.minpaku.ac.jp/databases/mcd/chronology.html (1) 明治四年三月[新聞雑誌3月(1号)] 駕籠と人力車─東京で人力車が発明された当時は、車引きを見ては駕籠屋が 罵ったものだが、いまでは人力の数は2万5千台に達した。以前駕籠の数は 1万くらいだつたので、人数でいえば車引きが5千人も超えている。 そのほか駕籠屋もまだ三分の一は残っている。人力車の増えたのは値段の安 いのと、速さとによるので、“以テ器械ノ効力(シルシ)ヲ見ルベシ。” 明治四年三月頃「以前駕籠の数は1万くらいだつたので、 …駕籠屋もまだ三分の一は残っている。」とのこと、 果たして「以前駕籠の数は1万くらい」が営業用のみか自家用も含むか定か ではありませんが、 人力車登場(諸説あるようですが)以来約1年間で駕籠屋の3分の2が転廃業 に基づけば、残りの3分の1も、あと半年=明治4年中に転廃業の計算も成 り立ちます。 次に「新聞集成明治編年史.第一巻/林泉社」によれば、 明治四年十二月 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/241 [241/295](420頁3段目) (2) 〔一二・─、新聞雑誌二五〕  ─(中略)─ ○当時東京府下人力車ノ総数四万余ニ至リ、 ─(後略)─ とあり、明治四年三月頃の人力車2万5千台が十二月頃には4万余、 1万5千台余が約九箇月で増加、計算上だけならば(1)の三分の一の駕籠舁 が全て人力車夫に吸収されても可笑しくない勢いと言えそうです。 人力車登場以来明治4年末までだけを見ても、この間は辻駕籠の激減期だっ たのは確かなようです。 とは言っても、再び「近代日本の身装電子年表」によれば、 明治五年十一月頃「府下当節往来の人」の中には「半髪頭ニテ駕籠ヲ舁ク」 ともあります。 (3) 明治五年十一月[新聞雑誌11月(70号)] 異風の人々(整容)─“府下当節往来ノ人ヲ見ルニ種々ノ異風変態アリテ開化 ノ服ヲ着テ因循ノ長髪ヲ結ビ西洋沓ヲ穿チ日本刀ヲ横タエ女ニシテ男装奴ニ シテ騎馬アリ戯レニ左ノ小図ヲ掲ゲ其光況ヲ示ス”  ─(中略)─ ◎半髪頭ニテ駕籠ヲ舁ク 続いて明治四-五年頃の他の情報にあたって見ますと、 残念ながら実態ではなく制度面に過ぎませんが、 (4)(5)(6)(8)は東京府下事例、(7)は全般事例。 明治四年五月九・十二・二十日、同年九月晦日各文には「駕籠」の記述が あり、明治五年三月吉原廓門内への乗打無用の中には「馬車、人力車、荷車、 馬」と並んで「駕籠」も列記されていますので、激減期とは言え、 当時まだ駕籠も交通手段の一つとの認識はあったようです。 (4) 【明治前期編 法令沿革一覧】 http://dajokan.ndl.go.jp/SearchSys/History.pl?ID=02700208 府下大道筋往来雑トウ中乗馬駕籠衝突老幼ノ通行難渋等ニ付中央三四間ヲ車 駕通行トシ左右ヲ徒行トシ修繕取掛ノ件 辛未(明治4年)5月9日 東京府 (5) 【明治前期編 法令沿革一覧】 http://dajokan.ndl.go.jp/SearchSys/History.pl?ID=01609443 芝口一町目河岸通ヨリ幸橋御門外迄馬駕篭車通行止ノ事 明治4年5月12日〔太政官〕 (6) [法令全書.明治4年/内閣官報局] 明治四辛未年五月 附録 外務省 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787951/502 [502/514](931頁1-5行目) 第三 五月二十日(東京府ヘ掛合) 其御管轄内ニヲヒテ橋梁道路等御修復之節馬駕籠又ハ車留標札被建置候処是 迄ハ御国字而已記載ニ而外国人通行之節彼是不都合差起リ候事有之候間以後 ハ都テ標札ヘ英仏文之打ち御書添有之度 ─(後略)─  (7) [法令全書.明治4年/内閣官報局] 明治四辛未年十月 太政官 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787951/217 [217/514](361頁9-11行目) 第五百十三 九月晦日(布) 従来諸官員旅行ノ節其身分ニ応シ長棒引戸駕籠等ノ制限有之候処以来ハ人足 遣制限ノ内差繰候歟相当ノ賃銭ヲ以テ相対雇ニ候ハヽ何等ノ駕籠相用候共勝 手次第タルヘキ事 (8) [新聞集成明治編年史.第一巻/林泉社] 明治五年三月 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920323/251 [251/295](441頁4段目) 〔三・三、東京日日〕 吉原廓内は従前馬駕籠の乗打を許さゞりしも、其規則既に失し、頃日車馬奔 走して、道路の往返を煩はせしが、昨二日より左のごとく横板に漢字、洋字 を認め、大門前へ掲示ありたる写し。 廓内掟 一、門内へ馬車、人力車、荷車、馬、駕籠とも無用之事。  ─(中略)─ 右之通取極候事。 壬申三月 次に明治6-8年頃、この時期は既出URLでも言及されていますので、 軽く流しますが、明治6年1月30日&明治8年2月20日各太政官布告により 「僕婢馬車人力車駕籠乗馬遊船等諸税規則」制定&廃止の流れから、 明治6年1月1日~明治7年12月31日の間、駕籠は国税として課税対象に含まれ ていました。 「法令全書.明治6年/内閣官報局」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787953/87 「法令全書.明治8年/内閣官報局」 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/787955/79 あと明治8年以来国税から除外されたとは言え、地方税の雑種税(駕籠税)と しては根強く生き残っていたようで、 「報知新聞 1920.4.6(大正9)」の「全国の雑種税 種目と其税額」記事 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10049789&TYPE=IMAGE_FILE&POS=1&LANG=JA にも登場しますが、国税時も地方税時も全般事例のため、 東京府下の課税状況、実態などは掴めません。 やっと本題です。 >東京の街から駕籠が見られなくなったのは、いつ頃からですか。 >新聞記事か何かで確認できますか。 明治8年12月30日付東京日日新聞記事「東京府下雑信」によれば 「島津公西国へお立に成りし後は」のフレーズの時期は?ですが、 一部の例外(病人・葬式・嫁入)を除けば遅くとも明治8年には、 東京では既に駕籠の終焉期にあったようです。 「新聞集成明治編年史.第二巻/林泉社」 明治8年12月 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/252 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920332/253 [252-253/317](455頁5段目-456頁1-3段目) 東京府下雑信 〔一二・三〇、東京日日〕  ─(中略)─ (456頁1段目22-27行目) ○全く廃たる者は四手駕籠なり ○島津公西国へお立に成りし後は、東京中にて病人のほか駕籠に乗る者なし、  尤も倹約の葬式か、旧幣の嫁入には駕籠を用ゆるも有ると云へり 以上 と言いたいところですが、 続きは諸般の事情により改めまして

kouki-koureisya
質問者

お礼

詳しいご回答真にありがとうございます。 和泉要助らが人力車の製造許可を得たのは明治3年3月、それから1,2年の間に爆発的に人力車が普及しています。 その分、駕籠が激減していきました。 ここまでは、分かりました。 東京の人力車の数に関しては、いろんな数字が出てくるので判断に迷いました。 齊藤俊彦著『人力車の研究』には、 「明治4年12月の人カ車数は10820輛であった」とあるそうです。(下記URL) 成城大學經濟研究(125) 「明治期における東京の交通 (一) 進化と移行の過程」 (9/20)ページ http://ci.nii.ac.jp/naid/110000245046 また、教えていただいた「近代日本の身装電子年表」によれば、 明治9年7月、東京府下の諸商人の現在員数として「人力車夫4850人」とあります。 http://htq.minpaku.ac.jp/databases/mcd/chronology.html さて質問は、「東京の街から駕籠が見られなくなったのは、いつ頃からですか」という情緒的なものなので、ドンピシャの明快な答えのないものだと思っています。 営業用と自家用に分けて考えるべきですが、営業用(町駕籠)を対象にして質問しました。 庶民の身近にあって、何百年も続いてきた駕籠には愛着があったと思います。 庶民は料金の安い方を選ぶと思いましたので、駕籠と人力車が並存していたのでは、と想像していました。 見事に外れました。(とも言えないですね) なぜ、人力車が圧勝したのか、疑問は尽きませんが、始めの疑問は「いつ頃なくなったのか」ですから、この点に関して今、まとめています。 制度面から考察されていますが、私には全く思いつきませんでした。 なるほど、参考になります。 明治4年には“駕籠”の文言を含む布告?法令?がいくつか出ていることから、その当時は駕籠もまだまだ活躍していたのでしょうね。 多分、営業用でしょう。 そうであれば「ご隠居さん、近頃駕籠はとんと見かけなくなりましたね」なんて話は、明治5年末から6年ごろでは、と想像しています。 さて、「新聞集成明治編年史.第二巻」明治8年12月の東京日日の記事「東京府下雑信」の中の島津公の記事は大いに参考になります。 ○全く廃たる者は四手駕籠なり ○島津公西国へお立に成りし後は、東京中にて病人のほか駕籠に乗る者なし、  尤も倹約の葬式か、旧幣の嫁入には駕籠を用ゆるも有ると云へり この記事から、病人や倹約の葬式、旧弊の嫁入には駕籠が使われていたということですから、 営業用の駕籠もあったと推定できます。 人力車屋の中には、客の求めがあれば駕籠を差し向けていたのかも知れません。 すると、駕籠と人力車は並存していたとまでは言えないが、駕籠は消滅したとも言い切れません。 また、「近代日本の身装電子年表」によれば、 明治13年9月、東京牛込の漢方医は人力車嫌いなので駕籠で往診したという話もあります。 文明開化の風潮を良しとしなかった人もいたのでしょう。 自家用の例を拾い上げていてはきりがないので無視しますが、東京の街から駕籠が消えたわけではないですね。 以上、歴史を楽しんでおります。

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noname#224207
noname#224207
回答No.8

No.4.5です。 再度のお礼ありがとうございます。 下記のようなサイトが目につきました。 参考 寺田寅彦 箱根熱海バス紀行 - 青空文庫 www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/42266_24582.html 明治十九年に両親と祖母に伴われて東海道を下ったときに、途中で祖母が不時の腹痛を起こしたために予定を変えて吉浜で一泊した。ひどい雨風の晩で磯打つ波の音が枕に響いて恐ろしかったのが九歳の幼な心にも忘れ難く深い印象をとどめた。それから熱海へ来て大湯おおゆの前の宿屋で四、五日滞在した後に、山駕籠を連ねて三島へ越えた 東海道箱根峠への道 第3部 tokaido.canariya.net/1-rene-tokdo/6book/3bu/19_fr.html 文中の写真に「国道1号改築以前は、江戸時代と変わらず山かごで坂を登った。」という説明があります。 箱根の道路が整備された大正12年までは山かごが使われていた様子がわかります。 仙人峠 (岩手県) - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/仙人峠_(岩手県) 徒歩連絡の旅客は5.5 キロメートルの道のりを2時間半から3時間掛けて歩いており、また駕籠の便もあったが花巻 - 仙人峠の特等運賃よりも高い運賃を徴収していた。さらに駕篭かきが追加の金を旅客から巻き上げるなどマナーが悪く、地元の新聞で不評を書きたてられるほどであったが、第二次世界大戦後までこの駕籠の運行は続けられた。 日本では歴史的に馬車の使用がなかったことから構造物としての道路の整備は遅れました。 明治政府は陸上交通は鉄道を主体として考えていました。 道路に関する基本法は大正8年になって初めて定められました。 自動車を想定したの道路の発達よりも鉄道馬車の方が早かったのもこのためかと思います。 東京の鉄道馬車は明治13年に始められています。 短距離の輸送手段としては人車鉄道が各地に設けられました。 人が貨車を押す形式の鉄道です。 現在の京成金町線などは帝釈天へ参拝客を運ぶ人車鉄道が前身です。 東京などの都市部では道路の整備が進みましたが上記の事例のように地方、特に山岳地帯の整備が遅れました。 上記のように仙人峠では昭和20年代まで実用的に駕籠が使われていましたが、明治大正期には各地で使われていたものと思われます。 構築物として道路の整備が難しのが車輪による轍ぼれ対策です。 現在のアスファルト道路でも悩まされています。 コンクリートや石畳では車輪によって摩耗して轍が出来てしまいます。 古代ローマの遺跡でも石畳に深い轍が残った遺跡が沢山出ています。 江戸時代の五街道も単に道巾を広げれば良いというものではなかったということです。 明治政府も鉄道の方がやり易かったでしょう。

kouki-koureisya
質問者

お礼

態々「青空文庫」まで調べて下さったのですね。 真にありがとうございます。 山道や峠では、明治・大正は言うに及ばず昭和の時代まで実用として駕籠が利用されていたことはよく分かりました。 比叡山・高野山の参詣道でも同様です。 東京府のどこかには「駕籠」と「人力車」が並存していたのではないかと期待して質問したのですが、どうやら人力車の圧勝のようです。 人力車の方が速くて乗り心地もよかったのでしょう。 駕籠かきの評判がよくなかったのか、新奇なものに飛びつく時代だったのか、こればかりは当時の人びとに聞いてみなければ分かりませんね。 私も青空文庫は調べてみようと思っていました。 駕籠と人力車が並存していた証拠を見つけることはできませんでした。 沖縄でもあっという間に人力車の勝ちみたいです。 青空文庫の伊波普猷『私の子供時分』の一節です。 このころは首里・那覇に人力車は一台もなかった。沖縄中に知事さんの車がたった一つあったばかりで、これを県令車といっていたから貴族の方々や師範中学の先生達はおおかた駕籠で往復したものだ。師範中学の先生達は土曜日になると、よく集まって酒を呑んだものだが、ほろ酔加減になると、例の駕籠を用意させて那覇に下っていくのであった。その翌年すなわち明治二十年に、首里の安慶田という人が大阪から十二台ほど人力車を取寄せて、人力車営業を始めたが、この車が通ると、沿道の人民は老幼男女を問わず、門の外に飛出して見物するのであった。これからはもう師範中学の先生達の那覇下りも楽になった。私も時々高い車賃を払ってこれに乗った。車賃は確か片路で二十六銭であったと覚えている。

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回答No.7

結婚式と駕籠の関係なら「狐の嫁入り」からも調べられるよ。 現代の祭りでの狐の嫁入りは、嫁が徒歩で歩いているけど、現役でそうした結婚をする時代は駕籠に乗せていたんだ。 少し調べたら、全国的に昭和中期まで見受けられたそうだから、私の見聞きした新潟の話以外にもあると思うよ。 職種として成り立っていたかは、私も気になってきたよ。 ヒントになる質問をありがとうね。

kouki-koureisya
質問者

お礼

度々のご回答真にありがとうございます。 「狐の嫁入り」? え~っ!!(ビックリしたよ) 私自身も空が明るいのに突然小さな雨が降ってくると「狐の嫁入り」だと言っています。 しかし、全国あちこちにそんな祭りがあるとは知りませんでした。 検索してみると東京都北区にも祭りがありますね。 花嫁が狐の面を被っていますね。狐は愛される生き物だったのでしょう。 一つの質問から発展するのが面白いです。

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回答No.6

N1だよ。 嫁にくれる側の家が花嫁道具とセットにして、嫁ぎ先に駕籠に乗せて送り出すんだ。 専門業種として職業になっていたかは知らないけど、昭和に作られた駕籠が郷土博物館に飾られてあった。 王朝的で豪華なやつでね、作成する職人さんもいたってことだね。 今は太鼓を作る職人さんだけが地元でも営業しているけど、神輿とかも昔は職人さんがいたらしい名残がある。 縁者にいた宮大工(神社を作る大工)はつい最近廃業したよ。

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 そうなんですか!! これはびっくり!! 私のような貧乏人には想像できませんでした。 あちこちの郷土資料館・博物館へはよく行くのですが、新しい駕籠もあるということなので、 注目してみます。 質問した甲斐がありました。

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noname#224207
noname#224207
回答No.5

No.4です わざわざお礼を記入頂きありがとうございます。 お礼に「バネもなし」といされていますが、当時すでに欧米で馬車に使われていた板バネが人力車の量産と同時に日本でも量産されていました。 参考 ばねの歴史 www.nhkspg.co.jp/museum/01.html 大名駕籠はいざ知らず、辻駕籠というのは、乗って座っているだけではなく、駕籠の天井からぶら下げられた紐にしがみついていました。 要領よく乗らないと降り落とされました。 男はあぐらをかきますので比較的バランスがとれますが、女性は和服で正座した恰好になりますので、よほど静かに担いでもらわないとバランスが難しかったです。 こんなこともあり人力車は女性に人気がありました。 明治時代に日本へ赴任した外国大使の奥さんの中に、日本人は馬の代わりに人に車を引かせる野蛮なヤツらだと言って絶対に乗らなかった人がいたそうです。 駕籠であれば乗ったんですかね~

kouki-koureisya
質問者

お礼

再度のご回答ありがとうございます。 バネについてはよく分かりました。 私も一応調べて「バネなし」と書いたのですが、駕籠の方が乗り心地がよいはずという先入観で書いたので勇み足でした。 段差や穴ぼこがあっても駕籠なら駕籠かきの足の運びで「揺れ」を少なくできるのでは、という思いもありました。 人力車の歴史 http://jinrikishaseisaku.com/freepage_3_1.html この中の「バネ」の項に「まだバネがついていなかったころは、抱木(かかえぎ)を用いて、衝撃をやわらげたといいます。」という説明があるので、人力車が出た直後は「バネなし」だったのではと、解釈していました。 >こんなこともあり人力車は女性に人気がありました。 なるほど。人力車が急激に普及した一因ですね。

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noname#224207
noname#224207
回答No.4

>東京の街から駕籠が見られなくなったのは、いつ頃からですか。 下記のサイトによれば、駕籠に代わる交通手段として人力車が普及したのが明治4年頃とされていますが「見られなくなったと」いうことになりますと、少なくても明治十年代以降ということでしょう。 人力車の営業が認められたのが明治3年ですから、相当急激に普及したものと考えられます。 参考 東京府(現在の東京都)が人力車の営業を許可(I) - 今日のことあれこれ ... blog.goo.ne.jp/yousan02/e/d07fa4036c25882add617e98ea7a920c 抜粋 翌1871(明治4) 年には、人力車は駕籠に変わって、東京府下だけでも1万台を越え、数年後には全国的に普及した。 ご質問は東京と限定されておられますが、地方では相当遅れていたでしょう。 江戸時代には東海道などのように全国を結ぶ交通網は発達していましたが、その道路は車両が通れるような設備になっていませんでした。 山岳地帯や河川や沼沢地などが多い日本の地形では車輪を使った重い交通手段は発達しませんでした。 ただし、江戸、大阪などの都市部では大八車が使用されていましたので、ある程度は車輪の運行に耐える構造(轍掘れが起きにくい)にはなっていました。 車輪を使った交通手段としては鉄道網が早く発達しましたが、自動車の普及は遅れました。 人力車では急峻な山岳地帯での運行は難しかったので、駕籠は相当の期間使われていたかと思います。 下記のサイトにありますように、明治十年代の半ばになっても人馬という用語が使われていました。 農民生活変遷中心の滝沢村誌 | 第八編第一章第二節 一 - 滝沢市 www.city.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/web/honbun48.html 抜粋 県では、明治十四年三月、人馬車の継立営業規則を定め、五月二十日から施行している。維新後、交通事情が急速に変化しているが伝馬の外に、乗合馬車・人力車・荷車が新しい交通用具として胎頭してきたので、それが営業上の円滑のために、こうした規則が制定になったのである。明治初期のしかも鉄道のなかった当時としては極めて重要であり、人馬車の継立制度の確立をみたのである。 >新聞記事か何かで確認できますか。 明治事物起原という書籍(ちくま学芸文庫)があります。 その5巻の中に交通部というのがあります。 Amazonで入手可能です。 蛇足 江戸の街というのは凡そ六割が大名屋敷などの武家地で、それが明治に入り全て取り壊されて市街地化されてから拡大していきました。 この拡大が始まる前までは近隣から駕籠が入ってきていたと思われます。 つまり「見かけなくなる」というのは相当後の時期かと思います。 江戸の人口は100万人と言われていますがその半数が武家でした。 大名が国元に引き上げると同時に幕臣も徳川家に従って駿河へ移住しましたので、明治の初期には江戸つまり東京は相当に荒廃していました。 明治初期には牧場が沢山あったことが知られています。 函館戦争で負けた榎本武揚が明治政府の官僚として牛乳の普及を目指して飯田橋に牧場を開設したのが嚆矢です。 参考 東京牛乳物語―和田牧場の明治・大正・昭和 | 黒川 鍾信 |本 | 通販 ... www.amazon.co.jp/東京牛乳物語―和田牧場の明治・大正・昭和-黒川-鍾 現在の日比谷公園は陸軍の練兵場でした。 参考 日比谷公園 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/日比谷公園

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 明治初期、人力車がこんなに急激に普及したものとは思いもよりませんでした。 「大八車に四柱を立て屋根を付けたようなもの」ですから、見栄えも乗り心地(バネなし)も悪いものと思っていました。 製造コストも維持費(車輪が大変)も駕籠より高いでしょうから、乗り賃も高かったはずです。 しかし、駕籠は一人では担げませんから人件費は高いですね。 なぜ駕籠から人力車に代わったのか、質問後ずっと考えていたのですが、今のところスピードの差にあるのでは、と思っています。 庶民に愛された辻駕籠が人力車に放逐されて、あっという間に東京の街から姿を消したということはないと思っていますが、とは言っても客あっての商売ですから駕籠かきも儲けのよい方を選ぶでしょうし…、当時の小説や日記に駕籠が出てこないか、追々調べてみます。

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  • takuranke
  • ベストアンサー率31% (3924/12456)
回答No.3

東京にあった辻駕籠(町駕籠)は1872年(明治4年11月21日 - 明治5年12月2日)にはすべて無くなったといわれています。 人力車は東京・日本橋で発明(江戸時代末)され、 明治3年3月(旧暦、現在の4月)に東京府から製造許可を受け、 同じ年の年末に大阪に伝わり関西にも普及。 以降地方では行政が普及奨励しました。 山越えなどでは駕籠が残っていたそうで、 こちらはいつごろ廃れたのかはわかりません。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 国立国会図書館デジタルコレクションで「新聞集成明治編年史」を見ることができるので、明治初年から5年間を見ましたが、駕籠に関する記事は一切ありません。 明治4年4月の記事で「人力車 東京市中に二万五千」とあります。 「明治3年3月(旧暦、現在の4月)に東京府から製造許可を受け」たということですから、あっという間に普及していますね。 >東京にあった辻駕籠(町駕籠)は1872年(明治4年11月21日 - 明治5年12月2日)にはすべて無くなったといわれています。 確かにそんな感じですね。

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  • oska2
  • ベストアンサー率44% (2335/5193)
回答No.2

>明治時代になっても近距離の移動には駕籠が便利だったと思います その通りでしようね。 幕府から朝廷に政権が移っても、庶民には無関係ですからね。 今まで通り、「駕籠」の方が便利だった様です。 >東京の街から駕籠が見られなくなったのは、いつ頃からですか。 確か、明治5年頃だったと聞いた事があります。 「駕籠」は、封建社会の名残として近代化した乗り物とは見做されませんでした。 明治新政府としては、既に多くの外国人が東京に住んでいる訳ですから「近代化」を見せる必要があった様です。 同じ人力でも、人力車と駕籠は色んな意味で異なります。 ※幕府は、車輪が付いた乗り物を認めなかった。 >駕籠に代わって登場した乗り物は何ですか。人力車ですか。 人力車と馬車ですね。 大阪府警の「大阪市街図附人力車賃金表」に、人力車の料金が決められています。 雲助(悪徳駕籠屋)が存在した様に、悪徳人力車も存在したのですね。 東京でも、同じでした。 府警が料金を定めていたのですから、人力車が「庶民の足」だったのでしよう。 ちなみに、人力車の運賃は・・・。 一里につき、一人乗り4銭8厘。二人乗り6銭5厘を追加料金。 風雨及び夜中や雪が降っている時などは、2割増料金。 となっていますね。^^; >新聞記事か何かで確認できますか。 新聞は、分かりません。^^; ただ、各種(歴史)資料館に行くと資料を展示している場合がありますよ。

kouki-koureisya
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 「明治5年ごろになくなった」をヒントに調べました。 国立国会図書館デジタルコレクションで「新聞集成明治編年史」を見ることができるので、明治初年から5年間を見ましたが、駕籠に関する記事は一切なく、「人力車はびこる 西京は振るわず東京は四万台」という記事や、大阪他各地で人力車が普及しているという記事は数件ありました。 四万台とは、爆発的に増えた感じです。 政府が、日本の近代化を外国人に見せようと、駕籠をやめて人力車の使用を推進したのであれば、何か「お達し」があると思うのですが、見つかりません。 「人力車賃金表」は参考になりました。

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