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秀吉の朝鮮占領計画
秀吉の朝鮮出兵、いまいち目的が判然としないのですが、もし首尾よく朝鮮を平定したら、なにか朝鮮占領政策みたいなのは考えがあったのでしょうか?
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秀吉が朝鮮に出兵したのは、明(中国)の征服を目指す上での途中に通らねばならなかった通過点の1つに過ぎません。 その通過点を通る事が上手く行かず、もたついている間に秀吉の寿命が尽きてしまったため、そこで計画が終了してしまっただけで、本来の目的は明(中国)の征服にありました。 秀吉が何故、明を征服しようとしたのかは定かではありませんが、御質問は秀吉の動機ではなく >首尾よく朝鮮を平定したら、なにか朝鮮占領政策みたいなのは考えがあったのでしょうか? というものですから、占領後の政策予定に関してのみ回答させて頂きます。 天正14年(1586年)3月、秀吉はイエズス会準管区長ガスパール・コエリョに対して、国内平定後は日本を弟秀長に譲り、唐国の征服に移るつもりであるから、そのために新たに2,000隻の船の建造させるとした上で、堅固なポルトガルの大型軍艦を2隻欲しいから、売却を斡旋してれまいかと依頼したという記録があるそうですから、日本国内に関しては弟である秀長に任せるつもりだった事が判ります。 一方、朝鮮半島に出兵したのは、当時の日本が海を渡る際に用いていた航法が「基本的に陸地の沿岸伝いに進み、陸地を眺めた際の景色によって現在位置を知る」という「地乗り航法(沿岸航法)」であったため、明国領土の沿岸に直接船団を送る事が出来ず、まず日本に最も近い朝鮮半島に侵攻し、そこから陸上を進軍して行くという方法を採らざるを得なかったためですので、朝鮮半島を平定した後は、陸伝いに大明帝国領土に攻め込む予定だった事は間違いありません。 そうして朝鮮半島や大明帝国領土を征服した後の政策に関してですが、秀吉がこれらの海外の地を平定するために進めていた計画は長期的に順を追って進められており、しかも日本統一の過程と手段や方法が同一であって、諸国王を諸大名と同列に扱ったことに特色と一貫性がありましから、朝鮮半島や大明帝国領土を平定した後は、日本国内で天下を統一した後の各地の諸大名の扱いと同様に、基本的に「その地域の王や領主の内、自分に従属した者」や「侵略戦で大きな手柄を立てた自軍のリーダー」に平定した地域を分け与え、実質的な統治はそれらの任命した領主に任せて、秀吉自身はその上に君臨するつもりだったのではないかと思います。 【参考URL】 文禄・慶長の役 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E7%A6%84%E3%83%BB%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9
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- tknkk7
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●朝鮮占領政策より、中国本土:儒教、仏教他含めて、世界拠点大中心との、錯覚です。 ●当時、アジア全体の”中心が、中国とモンゴル他と考えられて、おりました。 ●豊臣秀吉様は、従う武将たちの働き甲斐と生き甲斐と、今後の武将統治・押さえ込みを考えても止むを得づ何らかの領土配置分配と戦略目的を、与えたかっただけでしょう。・ ●決っして、他国への侵略・謀略・略奪・・・それよりも、従う、武将多数連中様を、”お金・財政・仕事含めて、一族郎党全てを、疲れさせてしまう・・・ヘトヘトに、させて於けば、我が身だけは、ともかく、安心・安全みたいな、気分もあったのでしょう、野心より、身の保全でしょう。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- あずき なな(@azuki-7)
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秀吉の朝鮮出兵はそもそも朝鮮の侵略が目的ではなく 天竺(インド)を征服する事が目的だったのです 信長存命中から秀吉は「お館様(信長)が天下を平定したら秀吉は天竺に攻め入りとうございます」と言って「また秀吉の法螺が始まったわw」と笑われていました つまり朝鮮は天竺に行く途中で そこで秀吉が死んでしまったので 朝鮮出兵が中途半端になり結局「朝鮮の侵略が目的だった」と解釈されてしまっているだけです まぁ朝鮮は占領したら羽柴秀勝を大唐関白にする って決めてたので(秀勝は朝鮮で戦死) 手柄のあった武将に領地を分け与えるつもりだったと思います
お礼
ご回答ありがとうございました。
- hue2011
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これは朝鮮侵略ではなく明国に対する宣戦布告です。つまり中国との戦争なんです。 明国の一部の地方として朝鮮があるという意識であったとおもわれます。 明国相手に戦争して勝てるわけないです。 そんなことはわかっている。 じゃなぜそんなことを始めたか、というと、日本は群雄割拠の戦国時代がようやく沈静されてきたという状況です。 たまたま損得勘定をして秀吉についたほうが利だろうとおもう連中が従い、人によってはいつか足をすくってやろうと考えている武将もいるわけです。 伊達正宗なんかがその怪しいものの筆頭にいます。 もし彼がいきなり攻めてくると大変です。 どちらにせよ、昨日まで血だるまで戦ってきたような人間は、発想がどうしても国とりにいってしまう。 そのガスを抜かないといけないと考えたのです。 そこで、そう簡単に落ちはしない明国というのを仮想敵国とし、それへの出兵を大名たちに要請したのです。 そうすると、血の気の多いものがどんどん海を渡って戦いにいくわけです。 子飼いの家来ではあるけど、加藤清正なんていうのは血の気だらけの人間ですから、置いておくと他の大名と戦をはじめるかもしれない。 仮想敵国を作ると、元気なもんは全部気を外に向けるので、太閤に歯向かうような発想はなくなる。 そうすると国内は平和になります。 いま、中国が日本を仮想敵国にしてそれを実現していますね。 日本が軍事大国になるぞ、だから軍備増強だ、などと言うと、ワルモノは全部日本ということになって都合がいいのです。 さて秀吉ですが、明国にいきなり攻めるとなにかと損害が多いから、属国とおもわれる朝鮮のほうにちょっかいをかけるわけです。 見通しとしては、直接の戦争でないかぎり明は日本に攻めこんで滅ぼそうとは思わないだろうという踏みがあります。 また、秀吉自体がどこまで信じたかわかりませんが元寇という歴史があって、日本は割合攻撃には強いという意識は日本人にはありました。 軍備的にいうと、村上水軍だとか、直接雇っているわけではないけれど水の上の戦争に巧みな連中がいるわけで、それをかいくぐって大阪を滅ぼしにくることはまずないと考えていたわけです。 つまり内部の不穏なもの、現政権への不満などを、外国を悪人にしてそちらにむけようという政略です。 もし朝鮮を攻めて自分の領土にしようと考えたらそれなりの動きはできる人です。何しろ木下藤吉郎ですから。 そんなことは考えてもいなかったという事情だというのが事実でしょう。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- eroero4649
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それはですね、あのホリエモンがブイブイいわしてた頃のライブドアが株価時価総額世界一を目指していたのですが、仮にそれが達成できた暁にはライブドアをどうしたかったのかっていう問いかけに似ていると思うのです。 勢いに乗るベンチャー企業は、とにかく会社の規模や売上をひたすらに大きくしようとします。でも、いつまでも無限に成長することはできません。できないのだけれど、どこで落としどころを見つけるかってのはとても難しくて、大抵のベンチャー企業は無理に業務を拡大してある時点で売上が頭打ちになり、そして多くの企業がそのまま登ってきた坂をそのまま転がり落ちるようにして倒産してしまいます。 豊臣政権も、典型的なベンチャー企業でした。どんどん攻めて、どんどん勢力範囲を広げて、どんどんそれを家臣に与えることで組織を繋ぎとめていたのです。これは譜代の家臣を持たない成り上がりの哀しさも大いにあったと思います。一族も優秀だったのは弟の秀長だけで、あとはもう農家しかできないぼんくらばかりでした。だから豊臣政権は秀長が死すと文字通りに屋台骨を失って秀次事件などの迷走を始めることとなります。 また当時の日本社会にはもうひとつの大きな社会問題がありました。戦国時代も後半になると兵農分離が進んでいきました。戦争があるときはそれで効率よく社会が回せました。 しかし、天下統一となり平和な時代が訪れると、兵士に仕事がなくなってしまったのです。兵農分離が進むと、各大名家には合戦のときだけ一時的に雇われるフリーター武士が大勢雇われることとなりました。彼らはそれこそ豊臣秀吉や加藤清正に憧れて、槍一本で立身出世を望みました。その多くのフリーター武士の中に、宮本武蔵もいました。 「だったら、農民に戻せばいい」ってなるのですが、それができないから彼らはフリーター武士をやっているわけでしてね。血の気が多すぎて村の中ではみ出して出てっちゃったような連中なんですよ。 そういった膨大なフリーター武士が失業してその辺をウロチョロしてたら、それは社会不安要因となりますよね。それこそどこかで蜂起でもされたら大変です。だから彼らの雇用を確保してやる必要がありました。 また合戦は公共事業のひとつでもあります。武士の食糧の確保には商人の存在が欠かせませんし、武具や武器は消耗品でもあるのでそれを作る職人の需要もあります。合戦がなくなるとそれによって職を失ったり大幅な減収に見舞われて不満を持つ層も出てくるのです。 朝鮮出兵には、そういった雇用対策という面もあったと思います。
お礼
ご回答ありがとうございました。
- kimamaoyaji
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朝鮮と日本だけで考えるから解らないのです じつは当時植民地でなかったのはタイ、日本、ミン(中国北東部と朝鮮半島)だけだったのです、そしてポルトガルは攻略の難しい島国を植民地ではなく交易で支配する方法を取ったと思われます http://www.kanekashi.com/blog/2012/04/1857.html 、スペインはミンから攻略するという手法を取りました。 秀吉や日本の大名にしてみればスペインに力を見せつければ良かっただけなのである程度攻略したらさっさと引き上げただけと言われています。 陶器がどうの、文化がどうのと言う人達が沢山いますがでは江戸時代や明治時代と約150年以上たって、日韓併合時の朝鮮はあんなに文化が低かったのでしょう、ろくな陶器もなかったと思われます、いくら沢山の名工たちを連れてきたと言っても占領したのは朝鮮の南側の一部で短期間だけの占領で、名工の殆どを連れてきたと言う事は物理的に無理でおそらくは明(ミン)からの戦利品と数名の名工を連れてきたくらいだと思います。 日本の教科書は韓国朝鮮の言いなりに直している可能性があるのではと思われます、ですから作り事の歴史の真実を追っても矛盾しか出ないのはその為ではないでしょうか。 http://matome.naver.jp/odai/2141356389818642301
お礼
朝鮮出兵は威力外交の一環で、武威をみせつければそれで十分と言うのは当時の情勢として正しいと思います。 ですが史実ではあほみたいに深入りしまくってて、実際の秀吉の意図がその程度のものだったとはちょっと考えにくいです。 ご回答ありがとうございました。
- akiye2
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目的が判然としませんね。 秀吉自身が統治するつもりは無かったでしょう。 強力な武将を転封させて朝鮮維持と国内安定でしょうね。 家康を転封させる案は石田三成にはあったかも。
お礼
うーん通常朝鮮を切り取れば朝鮮で戦った武将がその地で加増に預かるでしょうし、これ以上家康を遠隔地で巨大政権を築かせるってのは無理があるうえ危険なような? ご回答ありがとうございました。
- hekiyu
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いまいち目的が判然としないのですが ↑ 色々な説がありますね。 ワタシは、第三の元寇を阻止するためだった と考えています。 もし首尾よく朝鮮を平定したら、なにか朝鮮占領政策 みたいなのは考えがあったのでしょうか? ↑ 元寇阻止が目的だというのが正しければ、 朝鮮半島を日本領にして、唐に対する備えに したでしょう。 日韓併合と同じです。 朝鮮がロシア領になったら危険ですので、朝鮮の 依頼により、併合しました。 その後は、朝鮮を強くするため、教育港湾など 各種インフラを整えたわけです。 強くして、ロシアに対する防波堤にしたかった 訳です。
お礼
朝鮮に入るなりやたら奥深くまで進出してて、あまり攻勢防御って性格の戦い方にも見えないですよね。 ご回答ありがとうございました。
お礼
ご回答ありがとうございます。 自分に従属したものを領主に据えるよていがあったなら、寝返り工作や傀儡に立てるべく地方領主・貴族をとらえるような動きはあったのでしょうか?