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トンダとトンデモナイの含意の違いについて

同じような疑問がすでに多数出されているかも知れませんが、トンダのほうは軽い、場合によっては揶揄の意味があるのに反し、トンデモナイのほうはかなり重大な意味であることが多いのではないかと思います。両方ともトブから派生しているのだろうと想像いたしますが、どういう背景があることなのでしょうか。

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  • kine-ore
  • ベストアンサー率54% (808/1481)
回答No.3

「とんだ茶がま」という美女への誉め言葉は宝暦期(1751-64)の黒本に見られるというが、明和・安永期(1764-72-81)には美女だけでなく見世物芸を褒めるに至って「とんだ霊宝」などと「大変な・驚くべき」人物だけでなく「意外な・呆れた」ものへの修飾ともなったようです。 例) 「とんだ者が来たの」(「浮世風呂」1809-13年) このような体言を修飾する連体詞の機能から、やがて用言に掛かる副詞として「はなはだ・ひどく・まことに」といった用法も現れています。 例) 「とんださへないじゃないか」(「遊子方言」1764年) 「とんだおもしろかった」(「浮世風呂」1809-13年) 一方、「とんでもない」は連用・終止・連体の三形ながら活用があって、形容詞です。 ですから、誉め言葉から褒貶両用へと展開した連体詞・副詞の「とんだ」に対し、「とんでもない」の方は「ああ、つがもない/つがむねい」や「ああ、らっちもねえ」といった物事を貶し嘲った感動詞と同様な意味合いから、さらに形容詞として「埒もない」「他愛もない」といった貶し形容から、「途方もない」という褒貶というか善悪両用へと展開していった流れがあるようです。 例) 「此卦のおどりこは、とんでもないじなつきなり」(「擲銭青楼占」1774年) 「とんでもなく浮名の立つしうちが、ありそふなものだ」(「江戸生艶気樺焼」1785年) 以上から見たように、江戸中・後期での連体詞で誉め言葉由来の「とんだ」と、江戸末期での貶し言葉の感動詞由来の形容詞「とんでもない」とは、経緯も用法も異なると見た方が自然なのではないでしょうか。 ですから、例えば「とんだ面白いなどといってそんな話を鵜吞みするとは、いやはやとんでもない事ですよ。」などと、それぞれ別意味で用いることもできるのではないでしょうか。 参照: 前田勇編「江戸語の辞典」講談社学術文庫

kaitara1
質問者

お礼

大変貴重なお話をいただきました。おかげさまで心がずいぶん豊かになったように感じます。

その他の回答 (2)

  • bgm38489
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回答No.2

「ない」は否定ばかりではなく、強調する意味もあります。 例えば、「せわしい」と「せわしない」。両方とも忙しい、気が急くなどという意味ですが、「せわしない」は「とてもせわしい」という意味です。

kaitara1
質問者

お礼

なるほど、よくわかりました。否定というのはこの二つが同一の語から派生しているということにもなりますね。たとえば漢字で書けば、トンダというのは飛ぶの連体形でトンデモナイは飛んでもないということですね。しかし悪い意味にもなる動詞の連体形を否定して強調に使う例がほかにもあるのでしょうか。また形容詞の場合でもせわしいのほかに用例があるのでしょうか。

kaitara1
質問者

補足

質問をしておいてこういうのも恥ずかしいですが、相手からお礼を言われて、トンデモナイとは言いますが、トンダのほうは使いようがありませんね。何か私の質問がおかしいのではないかと思い始めました。

  • msMike
  • ベストアンサー率20% (364/1804)
回答No.1

》 両方ともトブから派生しているのだろうと… そうでもなさそうです。 「途(と)でもない」⇒とんでもない(形容詞) と云う説もあります。 殆ど同じ意味で使われますが、文法的には「とんだ」は連体詞とされているようで。

kaitara1
質問者

お礼

とんでもないはとんだの非定型ではないのですね。そう思わせる形をしているので、非定型なのにどうして同じような意味になるのか不思議に思っておりました。

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