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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:トルーマンのスターリンへの対処)

トルーマンのスターリンへの対処とは?

このQ&Aのポイント
  • トルーマンの業績は、第2次世界大戦の終了、冷戦の始まり、朝鮮戦争までさまざまな出来事がありました。
  • トルーマンの対スターリンの判断には、ルーズベルトとの違いがありました。
  • トルーマンのスターリンへの対決には、どのような意義があったのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1972/9602)
回答No.2

fryuie98 さん、こんばんは。 対日戦争中、ルーズベルトはソ連に対して動いてもらいたくて、スターリンの言うことをほとんど抵抗なく聞いていました。しかし、ルーズベルトが死に、副大統領だったトルーマンが大統領になると、彼の常識からみてかなりソ連に対して逸脱していたルーズベルト外交を文書で初めて見た彼はこれを改め、きっちり外交に変更しました。つまり、見返りのないサービスを行わないなどです。

その他の回答 (3)

  • eroero4649
  • ベストアンサー率32% (11083/34538)
回答No.4

あの田母神のおじちゃんの名を上げた論文には、「実はルーズベルト大統領はコミンテルンの支配下にあった」とありますが、事の真偽はさておきそういいたくなるほどルーズベルト大統領は左寄りであったことは確かだと思います。ニューディール政策なんてかなり社会主義的な政策ですものね。 それに比べるとトルーマンは「トルーマン・ドクトリン」と呼ばれる政策を打ち出しましたが、あれはもうバリバリの「ソ連封じ込め戦略」です。そしてアメリカでいわゆる「赤狩り」の旋風が巻き起こったのもトルーマン政権下のことでした。トルーマン自身は赤狩りに直接関わってはいませんが、マッカーシーが「赤っぽいやつは片っ端からブチ込んでやる」とやっていたことに制限をかけなかったのですから、まあ黙認していたってことです。 ま、相当なアカ嫌いであったことは間違いないと思います。

回答No.3

1940年11月、ルーズベルト三選。 時は仏占領、英は一国でドイツと対していた。 もちろんルーズベルトは英国支援を決めていた。 動きがあった。 41年 6月ドイツ、ソ連侵入。 英米助かる、ソ連助ける。 41年12月、予てからの太平洋戦争勃発。 欧州戦線に介入。 1945年4月、死亡(その前にソ連対日参戦了承)。 トルーマンに代わる。 7月米国、原爆開発に成功。 トルーマン強気に変わる(スターリン、ショックを 受けるも平然と無視を演技)。 6日原爆投下。 9日ソ連満州侵入。 そして1950年6月、朝鮮戦争勃発。 マッカーサーは原爆使用を求めたが、ソ連との戦争 拡大を望まないトルーマンは許可しなかった。 この時、ソ連は原爆を保有していた。 トルーマンは背後にスターリンがいたことを常に意識 していた。 バランスを考えていた実務的大統領だと言えよう。 (チャーチルは戦後、態度を変えた。当然である。  対しルーズベルトはスターリンに甘かったかも知れない。)

  • trytobe
  • ベストアンサー率36% (3457/9591)
回答No.1

ルーズベルト(任期が1945年4月12日の死亡まで)は、対日戦争中だったから、都合よくソビエトに動いてもらいたかった。 トルーマン(副大統領から1945年4月12日に大統領死去に伴う就任)になって、ほどなく対日戦争は終わり、第二次世界大戦は終了して、世界の再分割が始まった。こうなると、ソビエトに大きな顔で大量に中国大陸や日本列島を持っていかれては困る。 それだけの話。

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