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外人の前での切腹をして驚かせた事件

生麦事件でしょうか。 供する武士が命じられた切腹を外国人の立ち合いの場で実行したという話は?

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回答No.2

こんにちは。 すでに回答がされている通り「堺事件」と呼ばれるものですが、 大分以前に「堺市史」をコピーしたものが見つかりました。 Wikiとは若干異なる記載もあるようです。 ★概略 慶応4年(1868)2月15日(グレオ暦3月8日)、堺市の守備に当たっていた土佐藩士が船から上陸しようとしたフランス水兵を殺害した。これは連絡不備による襲撃であったが、結果的に11人の水兵が死傷し、フランス側は殺害に関係した者全員の死刑、新政府関係者の陳謝と賠償金を要求した。要求通り、20名の土佐藩士(隊長小頭2名ずつ、兵卒16名)が堺の妙国寺の庭前で切腹することになった。 ★『堺市史』の本編第三巻(1931年編纂)によると、 実際に襲撃現場に居合わせた兵士は全部で66名いたが、発砲しなかった者もいたことから、藩内で取調べが行なわれた 。 「フランス人に向かって発砲したかしなかったか」という問いに、発砲したと答えた人は25名であった。それに士官4名を合わせて29名は処刑されることになった。 一方、発砲しなかったと申し出た41名は国元に帰され処罰されなかった。29名の処刑であるが、大阪裁判所から土佐藩に対し発せられた通知には、2月23日に堺市の妙国寺において、隊長2名、兵士18名が士分の礼をもって切腹すべしとあり、処刑の人数を減少させる必要がでた。死刑になる20名は、土佐藩の大阪屋敷内にある稲荷宮神社でくじ引きによって決まった。当選者は士分の礼をもって処遇されたことを喜んだ(堺市役所編纂)。 ★死刑の日がきた。外国側の検使として、殺害された水兵の乗艦の艦長と数名の将校がその場に臨んだ。最初に切腹したのは隊長の箕浦で、はらわたを掴んでフランス人に投げつけようとしているかに見え、外国人を戦慄させたと伝えられている。 「箕浦は型の如く割腹するや臓腑を掴んでフランス人に投げ付ける様をなし外人を戦慄せしめた」(堺市役所編纂)。 12人目の兵士の番がきた時、フランス人は退席し、残りの9名の助命を願い出た。生き残った兵は流罪に処せられたが、しばらくして赦免された。 ★「悲痛な儀式」に臨んだフランス海軍コルヴェット艦デュプレクス号の艦長、ベルガス=デュ=プティ・トゥアールはそれを次のように描写している。 ★償いの時を告げる鐘がなった。 塀に囲まれた広い中庭は、家来たちが護衛をしている藩主の家紋のついた(喪の色である)白い大きな幕で覆われた段によって、小部屋に分けられていた。片側には広々とした二つの演壇が設けられ、その一つは処刑を司る任務を帯びた日本の役人のためのものであった。正面には畳の敷かれた四角い空間があり、その畳の上には白い大きな経帷子が、そしてその上には赤い布の切れ端が置かれてあった。この空間は太陽や雨から守られていた。右手には軍の分遣隊が控え、左手には受刑者たちが入れられている塔があった。処刑が行われる直前にいつも、一人の役人が来る。割腹:するために受刑者に使用させることになっている短刀の載っている木製の小さな台をゆっくりと運んでくる。経帷子の上にそれを置くと退きさがる。すると受刑者が姿を見せる。役人はこの男の身元を確認し、彼に向かって判決文を読んでいるようである。役人は男の前で深々と頭を下げる。その時、台を運んできた役人が来て、男に挨拶をし、彼に処刑場への道を教える。二人揃ってゆっくりと進み、介錯人が背後から二人の後に続く。畳の端に着くと役人は再び受刑者に向かって頭を下げ、彼に短刀を見せ、ひざまずくべき場所を教える。男は同意の合図をすると、再び真っ直ぐに背筋をのばすと、ゆっくりと前に進む。中程に着くとひざまずく。この当事者が役人である場合は、手に持っている自分の主君の旗を前にさし、台を手の届くところに置き、それからゆっくりと、静かに、着ている物をすべて上から順に剥し、短刀を手にすると、水平方向に割腹する。最初の切腹者は、腸が飛び出してからやっと、崩れ倒れた。 受刑者が短刀を手にするとすぐに背後に立つ介錯人は、両手で刀を握って、その時、彼の項に一撃を振り下ろす。これで大概は胴と首が切り離される。それから受刑者に目をやり、傍らにうずくまる。もし首が切り離されておらず、まだ体が動いているような時には、再度立ち上がってもう一振り与えるのである。遺体に頭を下げ、退去して立会人の中に加わる。すると八人の男たちが遣ってきて、遺体と、処刑に使用したものを退き下げ、畳表と大きな経帷子の中にすべてを包み込む。そして再び次の処刑の場所が準備されるのである。 ★この描写で特に目を引くのは、最初の受刑者が腹を切る際の腸の露出についての記述である。森鴎外の小説、『堺事件』にも書いてあるように、切腹者たちは傷口から腸を掴みとってフランス人に向かって投げようとするような場面が一般的に想像されているかと思うが、トゥアールは「腸が飛び出してからやっと、崩れ倒れた」とだけ書いている。 ★トゥアールはまた、切腹した藩士らについて、「最期の瞬澗まで不名誉でない受刑者は、死んだ後殉教者となる」と指摘している。つまり、切腹は「名誉死である」と受け取ったことが見てとれる。

krya1998
質問者

お礼

さすが文月先生ありがとうございました。

その他の回答 (1)

回答No.1

堺事件 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E4%BA%8B%E4%BB%B6 堺事件(さかいじけん、仏: Incident de Sakai)は、慶応4年2月15日(旧暦。太陽暦では1868年3月8日)に和泉国堺町内で起きた、土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件、及びその事後処理を指す。泉州堺事件(せんしゅうさかいじけん)とも呼ばれる。

krya1998
質問者

お礼

ありがとうございました。 堺事件でしたか。

krya1998
質問者

補足

歴史は時の道義だけではないのですね。 ありがとうございました。