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生麦事件の真相
昔誰かに聞いた話です。生麦事件の家来の切腹の折、ある家来は切腹させられることに不服を感じ、英国人の目の前で、腹をL字型に切り、手を入れて内臓をつかみ出し英国人に向かってそれを投げつけ、それを見た将軍もセンスを掲げ「アッパレ!」と唸ったと言うのですが、真相を知っていらっしゃる方は教えてください。
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「生麦事件」 1862年(文久2)に武蔵国生麦村(横浜市鶴見区)で薩摩藩士がイギリス人を殺傷した事件。 同年8月21日、江戸で幕政改革を実現させた島津久光一行が京都にかえる途中、騎馬で川崎大師の見物におとずれたイギリス商人リチャードソンら4人とでくわした。彼らは大名行列の前で馬からもおりず立ち往生していたところ、これを無礼として従士の奈良原喜左衛門ら数人が切りかかった。リチャードソンは死亡、ほかの2人は負傷してアメリカ領事館へにげこみ、婦人1人は無傷だったが失神寸前で居留地へたどりついた。 イギリス側には実力報復の声もあったが、イギリス代理公使ニールは本国政府の指令にもとづいて、幕府に謝罪と賠償金10万ポンド、薩摩藩に犯人の死刑と賠償金2万5000ポンドを要求した。幕府は翌年これに応じたので、ニールはつづいて薩摩藩と直接交渉をおこなったが拒否され、薩英戦争がはじまった。 ----------------------------------------- という事で、薩英戦争では鹿児島城下北部が焼かれ、薩摩藩の諸砲台が壊滅的損害を受けましたが、イギリス側も旗艦の艦長と副長が戦死、60余人が死傷する損害を出した為、「痛み分け」になり、薩摩藩は2万5000ポンド(6万300余両)を幕府から借用して支払うことで和議が成立しました。 これ以降薩摩は攘夷の無理なことを悟り、イギリスも薩摩に一目置いて協力し合うようになりました。 従って、生麦事件では切腹した薩摩藩士はおりません。
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- yoneda_16
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それ、生麦事件ではなく堺事件の話では。将軍が見るわけないし「アッパレ」なんていうわけないし。英国人じゃなくフランス人。 参考URLが短くまとまっていて良いのですが、この話は森鴎外の小説にもなっています。下記URLで全文が読めます。 http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2547.html このあたり、一般教養の範囲だと思うのですがぜんぜん知られていないのでしょうか。悲しいことです。
お礼
昔聞いたことでおかしいとは思ったのですが。ありがとうございました。