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人間の”個性”なんてものは存在するのでしょうか?
人間の”個性”なんてものは存在するのでしょうか?人間は生まれたときから今まで親や兄弟、友人、先生、親戚などから影響を受けてきてそれを模写して今の人格が存在すると思うんですよ。 ”個性”というとその個体特有なものだと思われガチですが他者からの人格コピーのミックスに過ぎないものが”個性”なら一番最初のオリジナル以外は”個性”と呼べないと思うんです。 人類の一人ひとりの人格は”個性”ではなく”派生”なだけで個体識別のために個性という言葉を使っているだけで実際はただの枝分かれかもしれません。 個性はその個体特有の何かとありますが、それもどこかのコピーの応用ではないでしょうか。 もしそうなら人類には必ず限界点が存在してそれ以上は進化することはないということになります。 新しい何かを生み出していると思われるのも全ては元から存在するものの応用、人類レベルでは個性なんてものは存在しないと思うと怖くなります。 今の考え方も誰かの影響かもしれませんし、人間は影響を受けて応用するだけで新しいものに見えても新しいものは生まれていないと思われます。 進化も遺伝子のデータベースとなるオリジナルが存在するわけで自分達はそのクローン的な応用の結果に過ぎないのではないでしょうか?
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- amenhotep2000
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Cjmjmaさん こんばんは。 少々、視点を変えて回答いたします。 Cjmjmaさんの質問を肯定すると、進化というキーワードについて、現在の生物学においては、ダーウィンの進化論が主流ですが、ラマルクの「獲得形質は遺伝する」という古臭く間違っているという考えを肯定できるのではないかと思います。 つまり、「遺伝子」というメンデルが唱えた「要素」を DNA という物質でなく、「環境」が遺伝するとしたらどうでしょう。 例えば、現在、DV (ドメスティック・バイオレンス)が社会問題になっていますが、暴力をふるう親を見ながら成長した子供は、家庭を持ったら、また同じく、DV をふるう親になる可能性が強いのではないか。 もちろん、子供心ながら、そのような親にならないと、親を反面教師とし、成長する可能性もありますが、子供は親の背中を見ながら成長します。 しかし、現在では、子供を育てようとすると、共働きは避けられず、保育施設の確保が、急がれていますが、子供は親の背中など、発達段階の重要な時期に、見たり、教わったりすることが出来ません。非正規のシングルマザーなどは、掛け持ちで働き、養育費を捻出するため働きづめで、早朝4時帰宅、、どのような大人に成長するのでしょうか?個性のない画一的な大人になるかもしれません。 また、経済学においては、ピケティは「21世紀の資本」で格差社会が広がることを警告して現在ブームになっています。 もし、このまま貧富の格差が拡大したら、貧しい子は十分な教育も受けることが出来ず、自分で思考する能力が育たない。勉強が嫌いだから、パティシエになるといっても、留学するお金もない。丁稚奉公制の復活でしょうか? もちろん、松下幸之助も丁稚奉公から身を立てました。しかし、貧しい子は貧しいままということが、基本と思います。 あえて、哲学カテですので、回答すると、ニーチェの「超人」やハイデガーの「脱自的実存」やベルクソンの「純粋持続」の概念が復活し、世界の中における自分のあり方として、自己の生命力により現状を打破せよと、言うのでしょうか? そして、資本社会は、やはりダメだ、マルクスを読め!となるのでしょうか。 Cjmjmaさんのいう、個性が薄まり、画一的考えの集団となれば、否定は出来ないと思います。 そして、日本の将来は? ショパンの「練習曲 第12番 ハ短調 作品番号10-12」を添付します。 https://www.youtube.com/watch?v=Gi5VTBdKbFM
コピーだろうがミックスだろうがそれが個性ですよ。 個性に決まりなどないですから。 どうであれそれがその人の個性なのです。 例え無個性であってもそれがその人の個性なのです。 個性とはその人の人なりですから、他人と同じだろうが異なろうが個性なのです。 少なくとも同じDNAを持つ人間はまずいないでしょうから、その違いだけでも個性なのです。 これは種の多様性と呼ばれるもの。 同じ個体は2つは存在しません。 双子ですら別個性ですから。 生まれた後の環境や体験によっても変わってくるでしょうし…
- ways
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子供の頃は、大人の真似をして、それを理解し、自分のものにしていく。何事も真似から入って、身につくと、もう忘れない。それを繰り返していき、いろんな人と話していくうちに、「自分」という「人格」ができてくる。受け身だった自分が、大人についていくだけだった自分が、いろいろなことが分かってきて、自分から行動を起こすようになる。2度目の誕生ですね。心が生まれる、という。 「個性的な人」「独特の人」というと、その人の心のあり方や、考え方を示すことが多いような気がします。仕事が早いとか、仕事が丁寧だとか、「特徴」が、その人らしさになります。 遺伝子をご先祖や親から受け継ぎ、自分は最先端にいる。そこからどこへ歩いていくのか、選択していくのも、個性だと思うんです。昼に何を食べようか、カーテンは何色にしようか。そうしていくうちに、「傾向」や「好み」が分かってきます。 個性とは、心なのではないでしょうか。
- hekiyu
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人間は生まれたときから今まで親や兄弟、友人、先生、親戚など から影響を受けてきてそれを模写して今の人格が存在すると思うんですよ。 ↑ 親兄弟友人先生親戚にプラスして広く 社会やDNAてのもあると思います。 それはとにかく、親兄弟友人先生親戚総て同じ てことは無いわけで、だからその人固有の個性てのは あるとおもわれます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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たとえ右へならえをしているだけだと見えても そこにいるひと一人ひとりが――同じことをしているとしても――その意志自由の原則に立って 心の同意をつうじて おこなっているということ これはあり得ます。 すなわち 人間は掛け替えのない存在だと言われますが いのちのことも当然ではありながら 意志の問題が 生活日常においては 重要です。 おのれの自由な心にあって ものごとに同意する(または 同意しない)ということ。 また そのようなそれぞれの意志選択について 互いにとうとぶということ。 意志や心を互いに踏みにじらないこと。 (とことん互いに納得するまで話し合いを持つということ)。 これらのことをわきまえ実行するとき それがおのおのの判断としての意志行為であるということは じゅうぶん一人ひとりの個性である。と考えられます。 人間の社会は そのように成り立っているのだと思います。世代が交代して行きますし。
- koosaka
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「個性」って、他人との「差異」ですね。 他人の持つものと違うから、「個性」と言われる。 みんなが同じだったら、「個性」とは言わない。 日本でいうと「個性」が言われるようになったのは、明治以降です。 そもそも「個性」とは、翻訳語、個・individualの形容形。 明治の翻訳語には、「性」と「的」と「体」の付いた言葉が実に多い。 個性・理性・感性・悟性・主体性・全体性・統一性・具体性・抽象性・歴史性・連続性・象徴性・客観性・近代性・両義性・・・・・・・・etc 主体・客体・実体・基体・本体・個体・全体・総体・物体・身体・自体・団体・個体・国体・共同体・生体・有機体・形体・体系・体験・一体・合体・単体・立体・具体・抗体・・・・・・・etc もちろん、原語である英米語では、みんな別々の言葉で、「性」とか「体」とか「的」という言葉がくっ付いているわけではない。 たぶん、翻訳する人が、面倒くさくなっちゃって、みんな「性」とか「的」とか、「体」を付けちゃおう、と思ったんでしょうね。 江戸時代は「身分制」の時代であり、「村落共同体」の時代だから、人間に「個性」なんて必要としないし、「個性」があると逆に邪魔になる。 みんなで同じことをしているんだから、一人だけみんなと違ったことをして、それを「個性」だなんていったら、ブッ倒されちゃう。 「身分制」の時代は武士は武士、町民は町民、農民は農民の「らしさ」が求められたから、「差異」よりも「類似性」が求められた。 フーコーも「言葉と物」という本で、18世紀以前は、西欧では人間同士の「類似性」が求められ、「差異」、つまり「個性」は求められなかった、と言っている。 だから「個性」ということが言われるようになったのは、西欧では、18世紀以降だし、日本では「身分制」がなくなり、「村落共同体」が解体した明治以降。 「身分制」がなくなり、職業選択の自由が訪れ、自分というものを自分で作ることが求められるようになった。 それ以前は自分がどのような職業につくか、決まっていたし、職業選択の余地がなかった。 武士は武士になるしかない。 言い換えれば、明治以降の資本主義が「個性」を必要とした、ということです。 イノベーションで技術革新をするためには、人間がみんな同じで、横並びでは困る。 独創的な製品を作るには、「個性的」な人間が必要、ということです。 また、組織を引っ張るには、「個性的」であることが求められる。 みんなと同じでは、会社は発展しない。 でも、日本では、アメリカほど「個性」が重んじられません。 アメリカ人は「個性的」であることが強く社会で求められるのに反し、日本では、みんなと同じことが求められる。 聖徳太子の17条憲法の冒頭でいう「和をもって貴しとなす」ですかね? 「個性」よりも「調和」です。 「出る杭は打たれる」です。 あなたの質問を見ていると、人間は、いつの時代であろうと、日本人であろうとアメリカ人だろうと、どの国であろうと、普遍的に人間には「個性」があるというようなことを言っているように聞こえますが、いつの時代でもないし、人間であれば普遍的に「個性」があるものでもない、と思います。
- 雪中庵(@psytex)
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似ているも何も、あなた=意識=宇宙は、 ただひとつのものであり、過去も未来も、 あなた=感受=現在から対発生しているのだ。
- ayeaye(@heriotoro-pu)
- ベストアンサー率25% (212/836)
養老孟司さんによると、人の個性なんて地図上の記号のようなもので どってことはない。 それよりも、社会とどう関わっていくのかのほうがずっと重要である、 というようなことをおっしゃっています・・・・。
- trytobe
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それは、「DNAによる先天的な派生で、子どもの個性が100%決定される」という仮定の上で成り立つことで、 後天的な要因として、家庭環境だけではなく、学校などの社会的関係を経れば、必然的な個性の派生になるとはいえません。