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日本の歴史について
- 日本の歴史の中でキリスト教やユダヤ教の影響に関する説が存在するが、その真偽は不明である。
- 日本には仏教だけでなく、イスラム教や景教(ネストリウス派)の寺院が存在していた可能性もあるが、詳細は不明である。
- 日本史においてキリスト教やユダヤ教の伝搬力は強く、これらの宗教の文化や影響が見受けられるが、研究者や書物による明確な証拠は存在しない。
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>まじめにこんな事を研究している人はいないのでしょうか?また、もしまじめに研究している人がおられてその方のまじめに書かれた書物とか論文とかは無いのでしょうか? 「まじめな」ということを「学問的な」と考えますと、寡聞にして知りません。 歴史学といいますのは、文献つまり文字史料を基本としています。 逆に言いますと文字史料がないものは、埒外としています。 考古学は遺跡や遺物即ち物を基本とした学問です。 民俗学といいますのは、口承や行事・祭事・習慣など文字や物となって残っていないものを基本とした学問です。 現在はこの三つの学問が相互補完される形で進められています。 いずれも学問ですので、一点情報ではなく複数の情報による検証が求められます。 例えば、歴史学では、この文献に書かれている、としましても、その文献に事実が記載されていることを検証することが求められます。 これが非常に厄介です。 邪馬台国論争などを歴史学者がまともには相手にしないのはこの為です。 このような点からしますと、wikipediaの日ユ同祖論などに記載されています、あれとこれが似ているから元は同じだという論法は認められていません。 ユダヤ人どころか明日香村の酒石遺跡はゾロアスター教の遺跡だという人もいます。 学問的でないから不真面目だということではありませんので誤解なきように願います。 三柱鳥居 鳥居というものは神域と俗域とを区分する目じるしです。 鳥居の内側が神域で外側が俗域です。 説明にも「中央の組石はご祭神の神座(かみくら)であり、宇宙の中心を表し四方より拝することが出来るよう建立されている」と記載されていますように石垣で囲まずに鳥居で囲んだだけのものです。 このデザインを誰が何時考案したのかは知りません。 説明文で三位一体論と関係付けているのは、あくまでも観光用に俗説を記載しただけだと思われます。 注)ネトリウス派は三位一体論を否定する宗派でキリスト教では異端とされています。 >広隆寺に十善戒と言うものがあり、これもモーゼの十戒と同じ内容です。 同じではありません。 モーゼの十戒の5項~10項の人の行動に関する戒めの部分が、仏教の十善戒に似ているというだけです。 殺すな、盗むなどということは人間社会共通の価値観ですので似ていて当然です。 十善戒というのは天台宗、真言宗などの教義の一つです。 仏教には元々仏になるための修行の心得である戒律がありました。 >秦氏が渡来人であり一説によるとキリスト教の異端の景教(ネストリウス派)徒であったとか、ユダヤ教徒であったとか言われています。 秦氏の出自は明確には分かっていまいせん。 朝鮮系だったとうのが現在の共通認識です。 景教は中国で命名されたもので、中国語で光の信仰という意味です。 景教教会を唐の時代、大秦寺という名称で建造されました。 現在も残っています。 地図でご覧になられたのはこれでしょう。 大秦というのは中国語でローマの意味です。 大秦寺はローマ教のお寺(協会)という意味です。 太秦(ウズマサ)はチベット語で第一の都市という意味です。 この辺がゴチャ混ぜになって秦氏キリスト教徒説が生まれたものと思われます。 京都太秦にある秦氏の氏寺である広隆寺は弥勒菩薩で有名ですが、これは仏教の弥勒信仰に基づいた仏様です。 秦氏がキリスト教徒であれば、異教の寺院を建てたり偶像である仏像を崇拝することは考えられません。 国宝の弥勒菩薩像は日本仏教の原点とされる聖徳太子から拝領したものと言われています。 まぁ~聖徳太子なる人物はいなかった、ということをセッセと検証している人もいまがこれは別問題でしょう >日本史の中で、その二つが一般に言われているより前に入って来たと言う説はそもそも異端で、それこそトンデモ本の世界なのでしょうか? 立証する文献や遺跡が無いといいますか発見されていないということです。 仏教の伝来も文献上は538年とされていますが、それ以前にも渡来人を通じて入ってきていただろうと考えられています。 儒教の五教博士も仏教より早く百済から来ていますが、仏教のような形では根付きませんでした。 儒教といいますのは本来は「天」という絶対神に相当する概念を持った宗教です。 日本儒教は宗教の部分を仏教に任せて箴言警句の部分だけを取りだしたものです。 >東大寺の柱はローマの影響を受けている 「受けている」という確証はありません。 丸柱の上下が中央よりも細いというだけです。 ローマ時代のエンタシスに形状が似ているというだけのことです。 >宗教は入って来なかったのか?素朴な疑問です。 日本人は古来から現代まで一神教というものは受け付けない体質のようです。 仏教も当初はあくまでも日本古来の八百万神の一部である他国の神様として受け入れられました。 仏教教義などそっちのけで御利益があるか無いかということだけを論争していました。 時代とともに仏様も八百万神も一緒にしてしまいました。(神仏混淆) 無理やり分けたのは明治以降です。 現在でも、ヤハウエ(エホバ)もアラーもお稲荷さんもみんな神様の一言で済ませてしまいます。 江戸時代までは、ヤハウエ(エホバ)を天主として日本古来の神とは分けていました。 キリスト教を天主教と呼んでいました。 中国や韓国では現在も天主教と呼んでいます。 長崎の大浦天主堂は江戸時代の隠れキリシタンに因んで造られたものです。 蛇足 シルクロードにご興味がおありのようですが、史実と伝承・ロマンを区別して楽しまれることをお薦めします。 なぜそのような伝承が生まれてなぜ伝えられてきたのか、というのは民俗学の範疇ではあります。 なんでもかんでも史実に結び付けますと牽強付会となりかねません。 旧約聖書に書かれていることを実証するのだ、と言ってセッセと発掘を続けている聖書考古学者という人達がいます。 死海文書と呼ばれるものを発見したりしています。 ネットに一部紹介があります 和田幹男/死海文書入門講座I mikio.wada.catholic.ne.jp/Vox_DDS01.html 日ユ同祖論よりは確かでしょう。
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 以下のURLで、そうした研究をされている方々が紹介されているようです。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96 私なりにまとめてみますと、 「古事記」の中の「出雲の国譲り神話」では、 出雲国を治めていた大国主命(おおくにぬしのみこと)から天照大神(あまてらすおおみかみ)が国を譲り受けて、その後、天津日高彦瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を日向に降臨させて国を治めることとなった。天津日高彦瓊瓊杵尊は天照大神の子である天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)と、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)の娘である栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと=萬幡豊秋津師比売命)の子であり、さらには、そのひ孫が「神武天皇」である。と書かれてあります。 また、他方の見方からは、日本に始め「銅鐸」を携えた人々がやってきて、九州、四国、中国、近畿、中部辺りまでをも支配していた。しかし、その後、「銅鏡」を携えた人々が渡来してきて、「銅鐸族」を駆逐し支配下に置いた。「銅鐸族」は大国主命を指し、「銅鏡族」は天照大神である。 「銅鐸族」は稲作を中心とする民族であったが、「銅鏡族」は少ないにもかかわらず軍事的闘争民族で、「銅鐸族」を支配下に置くことに成功した。以後、「銅鐸族」は被征服民族と呼ばれるようになった。 そして、「銅鏡族」こそが遠くシルクロードを経て日本にたどり着いた「イスラエルの失われた10支族」である、と、主張する「日本の文化=ユダヤ起源論」「日本・ユダヤ同祖論」(前述のURL参照)などが次々と発表されるようになってきました。 それらの書籍を読むと、その証拠としては、数例をあげると、 ★伊勢神宮の灯籠に描かれた「カゴメ紋」は「ダビデの星」(イスラエルの国旗のマーク)と同じである。 ★京都の古くからの宮殿建築様式は、ソロモン時代の神殿造りと同じ様式を取り入れている。 ★日本伝統の「お神輿」はイスラエルの「契約の箱」と同じ様式だ。 等々です。 http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/032kodai.htm さらに、これらを主張する人たちは、天皇家こそが、「征服民族」であり、「失われた10支族」の末裔である、としています。 その具体的例としては、 ★皇室の「菊の紋章」は古代イスラエル神殿の遺跡にもあり、現在もエルサレム城壁の西の門にはっきりと刻まれている。と言っています。 これらの主張が、もしも正しいとするならば・・・? 私は「聖書」を読んだことがありませんので???
お礼
ありがとうございました。かなり興味深い話です。
- chiha2525_
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三柱鳥居と三位一体を結びつけるような考え方なのかな? でも三柱は日本神話にも出てきますし、日本神話の三柱は中国の思想の影響であることが知られています。 宗教というのは、科学も含めて人の考え方のようなものなので、伝わればそれぞれが影響しあうこともあったでしょうが、一神教の本質を考えると、”神社にキリスト教”という考え方自体が非常に多神教・日本的な宗教の考え方であると言わざるを得ないでしょう。 上記のように中国思想の三柱に、後から来たキリスト教を結びつけたものではないかと、私はお手軽に考えますね。 あ、研究者とかは知らないです、すみません。当の神社関係者に聞くのが、他でもなく一番詳しいのではないかと思いますよ。
お礼
ありがとうございました。参考になりました。
- akiye2
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中国から様々な文化が入って来ました。 仏教・儒教・道教とか、ユダヤ教やキリスト教が入って来た可能性はある。 しかし仏教・儒教・道教に比べると、日本人に与えた影響は微々たるものだと思います。 ザビエルが伝えたキリスト教でさえ文化に至らなかった。 明治以降のキリスト教も同様。 文化として定着しなかったものは研究に値しないと思われます。
お礼
ありがとうございました。
お礼
ありがとうございました。"まじめな"は学問的と言う意味でした。詳しいごありがとうございました。否定されていると思いきや、逆にかなり可能性があるのでは?と言う気持ちにもなって来ました。ただ、おっしゃる通り史実と伝承の区別はつけて考えるべきと言うお考えは同感です。私自身も、質問した疑問については、史料やその他、例えば出土品などで決定的な証拠が有ったと言う場合に、史実であると断定できると思っております。なので、今の時点は伝承やロマン、捨てきれない可能性と言う程度の意味合いだと認識しています。ただ、伝承などが多い中学問的に研究されている方はいないか?と素朴な疑問をもちました。しかし、納得できました。