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キリスト教徒が他宗教の寺院等を参拝するときのマナー

 私はキリスト教徒ですが、日本人的なキリスト教徒(?)とでも言えばいいのでしょうか、それ以外の宗教を否定する気は毛頭なく、新年には神社に初詣に行きますし、法要などでは数珠と礼服で出かけます。  ……が、物心ついた頃からのことなので、神社仏閣に参拝する際や、法要などのときにロザリオを首から提げたまま、ということがとても多く、先だってロザリオを提げたままお盆の墓参に行ったことを親戚に見咎められ、「十字架なんかを提げて墓前の前に座るなど非常識も甚だしい」と怒鳴られました。  確かに、仏事の際にロザリオを外し忘れていたのは、仏教徒であるその親戚には怒られて当然なのかと思っています。が、そこでキリスト教徒であることを異端児扱いされて相当になじられたので、ちょっと腑に落ちない部分もあります。  そこで、皆様にお伺いしたいのですが、神社仏閣に参拝する際や慶弔事に参加するときには、やはりその宗教にそぐわない象徴の類は取り外すべきなのでしょうか。そして、もしそうするべきなのであれば、その象徴(私の場合はロザリオになりますが)はどのように処遇すればいいのでしょうか。  ご教授くださると、助かります。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.1

目立つようでなければ気にすることはありません。 ロザリオ程度であれば、服の中に入れておけば問題はないはずです。       法事に必要なのは「気持ち」であり、「形式」はそれほど重要ではありません。            

Rigel
質問者

お礼

 ありがとうございます。  今回引き合いに出した令では、服の中にロザリオを提げていた(平時でもいつもロザリオは服の中なのですが)のですが、墓参から帰ってきて上着を脱いだときに見咎められたので、服の中に提げておけばいいのか、あるいはポケット・鞄などに入れておくべきなのか、それとも家を出る時点からロザリオの持参をしないほうがいいのかという点で考えていました。  1つの意見として、受け止めさせていただきます。

その他の回答 (6)

  • AGEIN
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回答No.7

つづきましてAGEINです。 僕はキリスト教ではなく創価学会です。 今までに二度、他の宗派の葬儀へいったことがあります。一度目は親戚の叔父の葬儀です。そこに集まる人は皆そこの宗教のお経を唱えていました。しかし私は「題目」を唱えていました。 二度目は友達の父親が亡くなった通夜です。そこでも集まる人はそこの宗教のお経を唱えていましたが、僕はもちろん「題目」を唱えていました。 これは別にそこで行われている他の宗教に対抗してやっているわけでなく、その亡くなった人が成仏出来るように(創価学会以外の宗教は地獄に落ちると信じているから)やっているものです。もちろんその場(葬儀場)で「あなたたちのやっている宗教は行っていても地獄に落ちるのだよ!」など言っても意味がないし逆にその場(公の場)にふさわしくない行動と言えます。 よって >>親類縁者や親友などが亡くなったときなど、「○○さんのところは○○教だから私の教義とは相反する宗派だから葬儀には行かない」と言えるのでしょうか? 別に言う必要がありません。自分の信じる宗教と異なる○○教の葬儀が行われるからと言って「行ったら私の信仰に反する」と言うものではないでしょう。(しかし、もしあなたが○○教の葬儀へ行き○○教のお経を一緒になって唱えていたら、それは「自身の信仰に反する」ものだと言えます) しかしながら、その葬儀を行う親類縁者や親友などが「ウチのやってる宗教に合わせてくれないと駄目だ!!ウチのお経を唱えてもらいます。」と言うのなら「私は○○教なのでそれは無理です。行けません」とハッキリ言うべきですね。(例え親戚中や友達を敵にまわしてでも貫き通さねばならないことです) そして、その葬儀へいくことだけが亡くなった人を想うことではないので、自宅でその故人を想い自身の宗教でその故人を想ってあげればいいとおもいます。 分かっていただけましたか?? ※コレを見た方へ 創価学会、キリスト教、他の宗教への批判などはこの場ではしないでおいてください。(そういう場ではないので)

Rigel
質問者

お礼

 まず、私がAGEINさんから頂いた回答に不快感を抱いたわけではないことをお伝えすると同時に、AGEINさんの主義とその根拠も了承しました。  ただ、現況、カトリックは他教・他宗派に対して閉鎖的ではないため(昔はそうだったようですが)、私もフレキシブルに対応するようにしていたのですが、それに対して「そんな姿勢は信仰とはいわない」と断言されたことについては一見物申したい、と思った次第でした。  私としても、宗教論争をしたくて質問に及んだわけではないので、一意見として受け止めさせていただきたいと思っています。再度のご回答をありがとうございました。

noname#118466
noname#118466
回答No.6

ご親戚の件はあくまでひとつのケース(例外)と理解し、今後の行動基準とする必要はないでしょう。 仏教に限らず多くの宗教は他の宗教の信者に対し、自分たちと同じ行動を求めたりはしません。もし仏教や神道が厳しい宗教なら、キリスト教徒(多くの外国人)は神社仏閣を訪れることが出来なくなり、奈良や京都などの 観光客は減ることになります。又、他宗教を受け付けない日本の神社、仏閣は世界的に狂信者扱いを受けるかも知れません。 私は仕事で海外に住んでいたとき、カトリック寺院をたくさん訪問し、結婚式、葬儀にも参加しましたが、カトリックの礼法に従って行動したことはありません(出来ませんので)しかし、その場の雰囲気を壊すような行動さえしなければ何ら問題はありませんでした。 宗教が違うにも関わらず他宗教の規範に従うことが条件になれば冠婚葬祭や多くの行事に参加出来なくなります。他人の信教の自由を侵したり、冒涜しない限り参加と行動規範は自由のはずです。一神教云々は誤って理解されているところがあります。それはキリスト教徒であるあなた自身がよく理解されていると思います。アメリカがいい例ですが、親しい友人や親戚が宗教が異なるために冠婚葬祭の場で戸惑うことはないでしょう。私自身、ユダヤ教の成人式に招待されたことがあります。ヒンズー教徒の家庭に呼ばれ、一族が彼らの習慣で長老に挨拶し、長老は出席者を迎えて祝福を与える中で、また右手の指を器用に使って食事をする中で、私は自然にふるまっていました。彼らの流儀に従って手で食事を試みるのもひとつの親愛の情を示すことにはなりますが・・ 日本は島国なので日常生活で他民族と近くで接することがないので、すべてを極端に理解し、自らいろいろとタブーを作る傾向があります。自然な振る舞いをされているRigelさんは、まさに理想的な日本人のキリスト教徒だと思います。

Rigel
質問者

お礼

 同じくお礼が遅れまして申し訳ありませんでした。  他の宗教・宗派に対して反発することが本意ではないので、そういう方々との交流で相手の方に不快感を覚えさせることのないように振る舞うにはどうすればいいか、という点で今回、お伺いしていた次第でした。ありがとうございました。

noname#22689
noname#22689
回答No.5

こんにちは。 日本の古い概念からすれば「郷に入っては郷に従う」のが処世術の基本でしたが、現代はグローバルと言うか国境の無い(文化等)シームレスな世の中ですのでお互いの生き方(考え方)を認め合うのが常識だと思います。 しかし世の中には、「一言居士」的輩も居ます。←こう言った輩に何を言っても聞く耳を持ちませんので、寧ろ如才なく立ち振る舞う方が賢い人間だと評価されるのでは無いでしょうか。 ----------------- 隠れキリシタンじゃ無いんですから堂々と、ロザリオを提げクルスを切る行為は間違っては居ないと思いますが、場の雰囲気と言う物も有りますからその場に居合わせた皆さんと同じ行動をとる方が無難かとも思います。 -------------------- 実際には、知人などの葬儀等へ参列して見て感じるのですが、仏教でも宗派に依って葬儀の方式が異なりお参りの時他の人のやり方を見て居て戸惑う事が良く有ります。数珠一つ取っても宗派に依って異なったりするようです。

Rigel
質問者

お礼

 遅れまして申し訳ありませんでした。ありがとうございます。  故人など、参拝する方(や場所)の信仰や雰囲気なども踏まえ、その流儀に合わせるように心がけていますので、TPOを考えずに自分の信仰を押しつけるような態度は避けるように、というのが現状の私のスタンスです。(ロザリオは、おそらく眼鏡を使っている人が眼鏡をかけていることに違和感を覚えないのと同じように、提げていることが日常なので、それを常に意識しているというわけではない、というのが今回の親戚の怒号に直結したのだと思いますが…)

  • z-knight
  • ベストアンサー率36% (112/304)
回答No.4

こんにちは やはり、仏教関係の場面ではロザリオ等は目に見えないところにしまうのがいいと思います。仏教は一神教ですから仏の前で仏以外のものを祭った物を付けるな、という風習?は日本でもまだ強いと思います。 一方神道は多神教なので、天照大神を敬っていれば他の神を信仰しても構わないとも聞いた事がありますが、やはり宗教関係のものは避けた方(見せない方)がいいと思います。 どうでもいいですけど、2の方は論点がずれてませんか?

Rigel
質問者

お礼

 ありがとうございます。  z-knightさんの考え方からすれば、他の宗教の象徴物は身につけず、ポケットや鞄などにしまうか、最初から持ち出さないことの方が無難というニュアンスかな、と読みました。  多数決で自分の今後の行動を決めるわけではありませんが、ひとつの意見として、参考にさせていただきます。

  • aebee
  • ベストアンサー率24% (15/61)
回答No.3

私はプロテスタントですので、ロザリオはつけていないのですが、お参りする時はお祈りのように手を組んで亡くなった魂ではなく、ご遺族の悲しみが癒されますように、とか何とか神様にお祈りするようにしていす。 友人が「あ、そうだったね、クリスチャンだったんだ」て思った。と言っていたことがあります。

Rigel
質問者

お礼

 ありがとうございます。  私も、数珠でお墓や仏壇の前で手を合わせながらも、考え方としては仏教徒としての慰霊というよりは、キリスト教徒としてのそれで祈っています。……このこと自体が、見る人によっては他の宗教に対する冒涜とも言えるのかもしれませんが、#1でご回答くださった方の考え方の通り、冠婚葬祭はそれに基づく宗教が何であれ、気持ちが大事だという割り切り方をしていますので、これでいいのかな、と、とりあえず考えています。

  • AGEIN
  • ベストアンサー率6% (1/16)
回答No.2

>>新年には神社に初詣に行きますし、法要などでは数珠と礼服で出かけます。 ↑矛盾の行動ですよ~。キリスト教徒なら行かないはずでしょう。 本当に日本人に多いですけど、「○○教と○○教、どちらとも信じてます」なんてありえません。(口では「○○教一筋」と言っても行動がそうなっている)そんなものは信仰とはいいません。

Rigel
質問者

補足

 言葉が足りなかったかもしれませんね。  確かに行動に矛盾があるでしょう。それは認めざるを得ないと思います。  ……が、それではお尋ねしますが、AGEINさんが友人に初詣に誘われたときに、「私はクリスチャンだから行かない」程度ならまだ容認されるレベルだと思いますが、親類縁者や親友などが亡くなったときなど、「○○さんのところは○○教だから私の教義とは相反する宗派だから葬儀には行かない」と言えるのでしょうか?  そういうことを胸を張って言い切れることができて、かつ、実際にそれを忠実に実行できるのであれば、私は素直に「なるほど、そういう考え(正論)がある」という認識ができますが、言うだけで行動が伴わないのであれば、「ああ、そうですか」で済ませてしまうしか法がないのですが……。  日本という文化圏が日本神道か仏教が主な宗派である以上、キリスト教はそれらの宗教に対して常に対抗していては、人間として暮らしづらいことになります。  だから、そういうところでの妥協点として、私はどこまで譲歩すると良いのでしょうか、というのが質問の真因だったのですが。  重ねて、言葉足らずで大変申し訳ございませんでした。

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