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キリスト教・厳しい・新たな契約・信仰のみ

山上の垂訓でイエスが神を愛することと隣人を愛することが重要だといってユダヤの十戒を改め、新しい契約を結んだと記憶していますが・・・。 キリスト教の中には信仰のみではなく、ユダヤの十戒的な規律を求めるのがあるのはなぜでしょうか? 個人的に規律を求めるのが多い気がしてます。 マックスウェーバがいってたカルヴェン派の予定説が規律をしていることが救われる印とうけとめたということなのでしょうか? 規律を重んじないから世界宗教になったと思うので・・・。 詳しい方、ご教授お願いします。

みんなの回答

  • alwen25
  • ベストアンサー率21% (272/1253)
回答No.3

十戒が基礎的な掟だからでしょうか。 予定説とは無関係です。予定説を信じると絶望してしまいます。 (十戒は、仏教の戒律ほど厳しくはない) また、ユダヤ教を改革して生まれたのがキリスト教です。

nanashinanashi
質問者

お礼

回答ありがとうございました。

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.2

>キリスト教の中には信仰のみではなく、ユダヤの十戒的な規律を求めるのがあるのはなぜでしょうか? >個人的に規律を求めるのが多い気がしてます。 このご質問に対する答えはパウロとイエスが語られた以下の言葉にあると思います。 聖書:「キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのです。(ローマ10:4)」 つまりキリストを信じたものは義と認められ、律法の束縛の中にいる必要がないということで、律法から開放されているのがクリスチャンであるということを述べていると思います。 聖書:「わたしが来たのは立法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。(マタイ5:17)」 イエスがこの地上にこられたのは律法により苦しんでいる人たちを律法以上の存在者に変えることにより、キリストを信じるものが律法をあたかも満たしているものに変えられると述べています。 >マックスウェーバがいってたカルヴェン派の予定説が規律をしていることが救われる印とうけとめたということなのでしょうか? いわゆる救われる人はすでに決まっているという予定説を信じている場合、人はどうせ決まっているのなら自由気ままに生きようというのではなく逆に救わているものにふさわしいものとして日々努力し、その結果、この予定説が現在の資本主義の基礎となったということらしいのですが、ご質問の趣旨が「規律を守ることが救われた印なのか」というご質問でしたら、答えは以下の聖書箇所の言葉により「否」と述べることが出来ます。 聖書:「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。エペソ人への手紙2章8節~9節」 しかしながら聖書の多くのカ所で正しい生き方をしなさいということは言外に語られておりますし、直接述べられてもおります。クリスチャンは律法から開放されておりますが、律法が方向を示していると解釈することも出来ます。個人的には律法は自分の罪の性質を明らかにし、聖書への回帰を促し、キリストを見出した後は、しばしば行動の指針となったのが律法のように思われます。 このようなご質問に答える専門家として牧師がおりますので、お近くのプロテスタント教会に足を運んでみてください。

nanashinanashi
質問者

お礼

う~ん。よくわかりませんでした。

回答No.1

キリスト教の神もユダヤ教の神も同じ神を崇拝しているから。

nanashinanashi
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 でも、イエスを認めるかどうかという意味で違いませんか?