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唯今主義というのは成立するでしょうか

人間が思考あるいは行動の対象と出来るのは今しかないというのは、いわゆる刹那主義とは違うと思いますが、実存主義などと関係があるのでしょうか。

みんなの回答

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.5

「今」というのは、時間ではないけど、時間的に言うと、ひじょうに短い「瞬間」から、ひじょうに長い「何百年間」もの間を意味する場合があります。 たとえば私たちは、「今は現代だ」「今は新生代だ」「今は平成の世だ」「今は近代だ」と言ったりしますから、私が「今」といえば、いつだって「今」です。 たとえ、何百年だろうと、何百万年だろうと、「今」は「今」です。 その場合だったら、「人間が思考あるいは行動の対象と出来るのは<今しかない>と言うのは、その通りです。 その「今」が、現代に属するのなら、またその「今」が「新生代」に属するのなら、またその「今」が「平成の世」に属するのなら、またその「今」が「近代」に属するのなら・・・・・ ただ、「刹那」と言うのが、「瞬間」という意味なら、「今」は「瞬間」に限らず、ひじょうに長い時間も意味しますから、その場合は「今」は「瞬間」と、あるいは「刹那」とは違うと思います。 そして「今」は時間ではないし、「刹那」は時間の問題ですので、いずれにしても、実存主義とはあまり関係はないと思います。 あなたは「実存主義などとは……」と、仰いますが、いったい実存主義という言葉でどんなイメージを持っているのでしょうか? そのイメージが、「今しかない」というのは、思考や行動の対象は「今しかない」と考えるのが実存主義だということですか? でも、それは実存主義に限らないと思いますよ。 実存主義など知らない人にとっても、思考や行動は「今しかない」と思っているでしょうから・・・・・「今を逃したら、思考したり行動するチャンスはない、今しかない」と思っている人だっているでしょう。 でも、それを実存主義というでしょうか?

kaitara1
質問者

お礼

今というのは自分そのものなのかも、という妄想めいた感想を持ちました。

回答No.4

#1の者です。 >自分はどこにいるのだろうかと思ってしまいます。 見えている宇宙は自分の内面であり、自分自身なのです。 下記の図の、ハート型の部分です。 このハート型は、#1で示した4次元ミンコフスキー空間 の時空軸の相殺点=界面原点が、超弦における量子定常波 (量子重力(負)ブラックホールとその周囲での量子エネル ギー(正)の相補分化)として、その階層現象化(超弦(量子 定常波)<クォーク<素粒子<原子<分子<細胞<認識体) によって“希薄なブラックホール”と化した感受表面です。 外周がブラックホール周辺のシュバルツシルト境界として の自己、そこからブラックホールに向かって光速で落下し、 中心に圧縮される時空、その果ての中心が138億光年彼方 の宇宙の果てです。

kaitara1
質問者

お礼

脳の解剖学や生理学の研究者が意識の座を論じていますが、あなたの所説とかみ合っているのだったらすごいことですね。長い生物の進化の到達点として人間の頭があるのですが、大多数の人は、私を含めて、あなたのような知識を持ち合わせていません。ずいぶん個人差があると思います。

  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.3

「今」というのは、「現在」とは違います。 よく混同する人がいるけど・・・・ 「現在」というのは、「過去」があり「未来」があるから「現在」なので、「過去」がなく「未来」がなかったら「現在」もありませんが、「今」は私が「今」と言ったら、いつだって「今」ですから「今」しかありません。 過去・現在・未来は時間ですが、「今」は時間ではありません。 なぜって、いつも「今」で、変化を含まないものは時間とは言えないからです。 古代ギリシャでは、時間を、「今」と混同して、「今は永遠に繰り返す、だから時間は循環する」といいました。 でも、循環するわけではなく、私がそれを「今」と言ったら、いつも「今」ということです。 「今」とは「プレゼンス」のことで、私が「現前する」ということです。 その「プレゼンス」をギリシャ人は時間の「現在」と勘違いしました。 たしかに「プレゼンス」は「現前」と「現在」との両方の意味がありますから、混同しても無理はありませんが、区別しないといけません。 デリダは、古代ギリシャから、「現前の形而上学」が、「ロゴス中心主義」が始まっていると言って批判しましたが、今の私たちにも、「現在」を「現前」と混同することが続いています。 つまり、私たちは「存在」というと、それを「現前するもの」と考えています。 「今、目の前にあるもの」と考えています。 目で見て、感覚されるもの、それが「存在」なのだ、と。 また、言語は、話し言葉が先行し、書き言葉は後だ、という考えに。 たとえば、日本語は口承のヤマト言葉が先行し、その後に書き言葉としての漢字が渡来した、だから話し言葉が先、文字は後、と。 これがデリダのいう「ロゴス中心主義」。 そういう誤った考えを今でも日本人は正しいものと考えています。 ハイデガーは人間のことを「現存在」といいました。 その場合の「現存在」とは、人間は「今」「現前する」ということです。 ちょうどプラトンが、「イデア」の「臨在」と言ったのと同じように……私が「現れる」ということ。 何から「現れる」かと言ったら、無から現れる、ということです。 いいかえると、人間は根拠なく、理由もなく、ただ「現前する」ということです。 ハイデガーはそれを「実存」といいました。 あなたは、「人間が思考あるいは行動の対象とできるのは<今しかない>というのは、いわゆる刹那主義とは違うと思いますが・・・・・」といいますが、もちろん違います。 刹那主義とは過去・現在・未来の時間のうち、現在だけしか存在しない、現在を楽しめ、というもの。 それに対して「今」というのは、「現在」とは違いますので、「今しかない」というのは、刹那主義とは違います。 すでに言いましたように「今」というのは、私がそれを「今」と言ったら、いつだって「今」なのですから・・・・・刹那とは違います。 そして刹那主義は、実存主義とは縁もゆかりもなく、無関係です。 私たちが思考・行動する対象に向かい合う時、それがどんな過去に由来し、どんな未来を目指すか、それを配慮しながら、思考・行動しますから、現在だけを考えているわけではありません。 刹那主義では、駄目です。

kaitara1
質問者

お礼

しかし今しかなにも出来ないように思います。

回答No.2

行動の可能性は今しかないというのは納得できますが、 思考の対象が今しかないというのは誤りと思います。 したがって、あなたのおっしゃるところの唯今主義は成立しないことになります。

kaitara1
質問者

お礼

過去のことでも未来のことでも考えるのは今という意味で今にしか存在していないのではと思います。気がつけば(我にかえれば)いつも今なのでは。

回答No.1

現在とは、どこにあるのでしょう? 相互作用(光、電波)の速度の有限性において、遠くに 見えているのは「昔の姿」です。 それでは、時空的広がりの「今=原点0」は、認識体の 中心だと考えられますが、その「中心」はどこでしょう? 実際に感受しているのは、感覚器官表面での量子相互作用 (光はもとより音や匂いも分子間の電磁的反発=量子相互 作用に還元される)であり、空間的広がりをもっています。 一方、「見えているのは昔の姿」と先に述べましたが、 それは感覚器官表面での量子相互作用において、五感の 相関した経験の蓄積において、新たな光や音といった先行 感覚(情報性の高い)に対して、味覚や触覚といったより 直接的・生理的な感覚まで励起される事により、「そこに 行けば何が起きるか」といった予測(未来)として、空間 的な広がりは派生しているのです。 つまり、過去による未来としての本質しかないのです。 その時空的広がりにおいて、「今」であるべき感受表面が、 (過去による未来としての)有限な大きさを占めている 事で、存在の依拠すべき「今」も消失し、仮説に対する 虚像(自我仮説(記憶=過去=超光速)と空間仮説(予測=未来 =光速下)の相補分化)としての本質を示しています。 実は、相対性理論にしても、量子論にしても、認識体との 相対によってしか存在は無い、という帰結を潜在的に持っ ています。 客観的時空や絶対的存在というのはない、というものです。 認識性を除外した存在は、無=無限不確定性になります。 その無限の闇に、認識体の仮定断面の運動(プランク定数h の収束の時系列化=物体収縮=宇宙膨張)を想定すれば、 相対的に無の風は光になり、認識体はその光の向うに、自我 仮説の補完としての時空仮説=宇宙を認識するという訳です。 相対性理論の4次元ミンコフスキー空間において、時・空軸 は虚数関係にあり、空間軸と時間軸の等距離点で相殺され、 “ゼロの面”が生じています。 それが「ライトコーン」、即ち光量子の形成する面であり、 光速以下の領域(未来)と超光速の領域(過去)を分ける 界面原点なのです。 つまり、超弦(量子定常波)=光速に還元される本質を 階層現象を表面的(いい加減)に捉える事で派生する非光速 性に基づく時空において、「何か有るんじゃないの?」という 疑問(自我仮説)の相補として生じた時空仮説に対して、 「本当はないんだけどね」という無の射影として、量子= 存在は生じていると言えます。 無いとは分からない事が有なのです。

kaitara1
質問者

お礼

お話をう伺って、自分はどこにいるのだろうかと思ってしまいます。