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経験論

こんばんは。 ・・・「合理論」にも、根っこには、あるはずです。 【訊きたいポイント】 「上意下達」って、そんなに、有難いの??

みんなの回答

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12518)
回答No.4

「お礼コメント」をありがとうございました。 >>「社長だってヒラだって、(違うのは役割であって) 人間性や人権が違うわけじゃないのですから。 つまり、そこにあるのは、「差異」であって、 「差別」ではないのですから。 >目からウロコです。 「適材適所」で、うまくいけば。 ⇒「差異」と「差別」の混同がよくありますね。長くなるので例は挙げませんが、「同権」とか「平等」などを議論する際には、よくよく峻別すべきことだと思います。 >>「なお、哲学でいう 「経験論」や「合理論」は、(「観念論」も含めて) 経緯・考え方・特徴などが違うのであって、 価値や優劣の違いがあるわけではありませんよね。」 >そうですか。 歴史的には、「合理論」というのは、 「下に!、下に!」というようなもので、 後進的なのかな、と思いまして。 ⇒そういう面はあるかも知れません。というのも、 (1)「合理論」の最初はデカルトに帰せられると思いますが、そこでの第一義は、(それまでは神を通して見ていたが、そこからの)「人間精神の自立」でしょう。 (2)現代文明はこの「合理論」に負うところが多く、現代人は多かれ少なかれ「合理論者」ですよね。 (3)しかし、当然「合理論」にも功罪があって、その「功」の代表を「効率」とすれば、「罪」のそれは「生」の軽視と言えるかも知れません。 (4)つまり、機能・管理・能率を優先して制御学を発達させ、文明の発達に貢献したが、反面生きた人間の生命や情緒をないがしろにしてきた、と言えるかも知れません。 (5)換言すれば、「理性偏重・一辺倒」や「頭でっかち」になって、「人間特有の不条理・情操・遊び・ゆらぎ」を軽視してきた。 (6)そこで現われてきたのが、「生-理性論」「リゾーム」「網の目結合」で、その基本理念は「管理」でなく「相互支援」というところでしょう。 (7)今後は、この2つ「合理論」と「生-理性論」、「管理」と「相互支援」、「機能や能率を優先する制御学」と「生や幸福を優先する人間学」をうまく組み合わせて考えればいいのではないでしょうか。 …ということになろうかと思います。 以上、長くなりましたが、再伸まで。

kurinal
質問者

お礼

Nakay702様、ありがとうございます。 >「⇒「差異」と「差別」の混同がよくありますね。長くなるので例は挙げませんが、「同権」とか「平等」などを議論する際には、よくよく峻別すべきことだと思います。」 「自律」「自立」しているかどうかが、問題だと思います。 >「(1)「合理論」の最初はデカルトに帰せられると思いますが、そこでの第一義は、(それまでは神を通して見ていたが、そこからの)「人間精神の自立」でしょう。 (2)現代文明はこの「合理論」に負うところが多く、現代人は多かれ少なかれ「合理論者」ですよね。 (3)しかし、当然「合理論」にも功罪があって、その「功」の代表を「効率」とすれば、「罪」のそれは「生」の軽視と言えるかも知れません。 (4)つまり、機能・管理・能率を優先して制御学を発達させ、文明の発達に貢献したが、反面生きた人間の生命や情緒をないがしろにしてきた、と言えるかも知れません。 (5)換言すれば、「理性偏重・一辺倒」や「頭でっかち」になって、「人間特有の不条理・情操・遊び・ゆらぎ」を軽視してきた。 (6)そこで現われてきたのが、「生-理性論」「リゾーム」「網の目結合」で、その基本理念は「管理」でなく「相互支援」というところでしょう。 (7)今後は、この2つ「合理論」と「生-理性論」、「管理」と「相互支援」、「機能や能率を優先する制御学」と「生や幸福を優先する人間学」をうまく組み合わせて考えればいいのではないでしょうか。」 「「合理的」と称されるモノが「上」から示され、その他は「論外」とされる」、 「上意下達」というのは、大量生産ということに向いていると思います。 一方、「オーダーメイド」は、一回こっきり・・・ であっても、「そうした事例があった」という積み重ねの蓄積が残ります。 本当にありがたいのは、積み重ねの蓄積のほうではないかな、と思います。

  • kohichiro
  • ベストアンサー率21% (306/1447)
回答No.3

経験を重視することも、理論を重視するのも、それなりに利点はあります。要は双方の良い点を理解して、調和の取れた考え方をしなければならないということでしょう。 「上意下達」が絶対と言われた時代もありましたが、今は民主主義、みんなで話し合って考えようと言うぬるい雰囲気が優勢です。民主主義のいいところは、その方向性が中庸になって、間違った方向へ暴走する可能性が極小になる、それだけのことです。民主主義はなかなか結論が出ない、ねじれ現象とかなればなおのこと政治は進みません。でもそれでもしかたがないと思います。むしろそれがかったるいとばかりにあたまは弱いが信念ばかりは堅固な自信家のアジテーターが出てきたら、それにみんながなだれをうってどこかへ死の行進を始めてしまう、そんな傾向が今の日本に見えています。恐ろしいことです。「上意下達、ありがたい…」今の日本の風潮でしょう。 ソニーやホンダが急成長したのは、極めて有能なトップリーダーが「上意下達」を実践したからですね。もちろんそればかかりではないですが、民間企業ではトップリーダーの能力が極めて重要だと思います。

kurinal
質問者

お礼

kohichiro様、こんばんは。ご回答ありがとうございます。 >「みんなで話し合って考えようと言うぬるい雰囲気が優勢です。」 否。それは、ぬるくなどありません。「自由」がある、というだけですか >「民主主義のいいところは、その方向性が中庸になって、 間違った方向へ暴走する可能性が極小になる、それだけのことです。」 民主主義では、人権の侵害が難しくなります。ゆえに「暴走」は難しい。 >「あたまは弱いが信念ばかりは堅固な自信家のアジテーターが出てきたら、それにみんながなだれをうってどこかへ死の行進を始めてしまう、そんな傾向が今の日本に見えています。恐ろしいことです。「上意下達、ありがたい…」今の日本の風潮でしょう。」 そうなんですか?? 「上意下達、ありがたい」とは、むしろ高度経済成長期だったのでは??? ソニーやホンダが急成長したのは、極めて有能なトップリーダーが「上意下達」を実践したからですね。もちろんそればかかりではないですが、民間企業ではトップリーダーの能力が極めて重要だと思います。

回答No.2

最近は道徳軽視で日本で普通にすごしていれば論点からかなりずれているように。 反抗的な人ばっかりだと組織になりません。 かといって、上意下達だと20年前の経営の潮流に逆戻りで技術や社会が変わっている今だと、合わないかと。 他の回答者さんのとおり、言い方が適切ではないですが、「経験論」の見方は帰納法などつながり、「合理論」の見方は演繹法につながったり、知の哲学として体系化されるものです。 ドイツ観念論で統合されるものの。普通の人は哲学を勉強してない人も多く、勉強している人がしっかりしないと、まるで近代になります。ずっとその後、新しい考え方をだしながら、現代になってます。 設計主義だと中央が企画をして、社会主義の傾向は近くはなるかと思います。それをささえるには、中央の知的さが結果に反映されやすい状態になります。 でもどちらかいえばしっかり理解されていない「儒教」のような??

kurinal
質問者

お礼

mezoriso81様、ご回答ありがとうございます。 >「最近は道徳軽視で日本で普通にすごしていれば」 ?意訳が必要ですか? ・・・「今日び、日本じゃ、道徳なんて流行ってませんから」 >「論点からかなりずれているように。」 何が? >「「経験論」の見方は帰納法などつながり、「合理論」の見方は演繹法につながったり、知の哲学として体系化されるものです。」 どちらかと言うと、「合理論」のほうが「上意下達」と、思われませんか? >「でもどちらかいえばしっかり理解されていない「儒教」のような??」 ? 「しっかり理解されてないから」と冠すれば、何を言っても御立派ですか

kurinal
質問者

補足

いや、実は自分が、儒教をしっかり理解してなかったのです。

  • Nakay702
  • ベストアンサー率79% (10007/12518)
回答No.1

>「上意下達」って、そんなに、有難いの?? ⇒「上意下達」が有難いのなら、 《下意上達》だって有難いはずでしょ。 社長だってヒラだって、(違うのは役割であって) 人間性や人権が違うわけじゃないのですから。 つまり、そこにあるのは、「差異」であって、 「差別」ではないのですから。 なお、哲学でいう 「経験論」や「合理論」は、(「観念論」も含めて) 経緯・考え方・特徴などが違うのであって、 価値や優劣の違いがあるわけではありませんよね。 つまり、「○○が一番好きだ」とは言えても、 「○○が一番優れている」とか「最も正しい」 などとは言えないでしょうね。

kurinal
質問者

お礼

Nakay702様、ご回答ありがとうございます。 >「社長だってヒラだって、(違うのは役割であって) 人間性や人権が違うわけじゃないのですから。 つまり、そこにあるのは、「差異」であって、 「差別」ではないのですから。」 目からウロコです。 「適材適所」で、うまくいけば。 >「なお、哲学でいう 「経験論」や「合理論」は、(「観念論」も含めて) 経緯・考え方・特徴などが違うのであって、 価値や優劣の違いがあるわけではありませんよね。」 そうですか。 歴史的には、「合理論」というのは、 「下に!、下に!」というようなもので、 後進的なのかな、と思いまして。

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