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幕末の銃取り引き形態?
幕末の銃取り引き形態? 龍馬いろは丸事件で銃500丁云々(完全作り話)の納入先調べたところ、当時大阪で買い手捜す流通が主との意見しか出てきません。 事実なら当然佐幕藩も買うだろうし、入り鉄砲も無効になってる。 龍馬がグラバーの手下として、南北戦争時の旧銃を倒幕佐幕かかわらず売りまくっていたのは分かるが、銃取り引き形態への疑問が残ります。 龍馬の解釈は質問ではありません。
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No.1.3です 再度お礼を記入頂きありがとうございます。 補足がありましたので、説明させて頂きます。 >火縄銃は狩猟出来る程精度があったのでしょうか。 射程距離が200m前後と言われていますので、そこそこの精度はあったと思われます。 >昔は今より相当に獲物に接近出来たのでしょうか? 火縄銃の射程距離は200m前後といわれていますので、むやみに獲物に近づく必要はなかったでしょう。 命中させるウデの問題は別です。 散弾銃頼りの現在の狩猟マニアよりはウデは確かだったでしょう。 現在のライフル銃を使った猟友会の人でも200m離れて動き回る猪を撃つには相当に熟練している必要があるのではないのでしょうか。 >韓国併合時の韓国軍は火縄銃が主で、全く相手にならなかったとも言われます。 射程距離の違いと弾道の正確さの違いが原因です。 相手より離れて正確に撃つことができるほうが優位です。 むしろ、韓国といいますか朝鮮王朝は長いあいだ文官優位の国でしたので、兵の練度が決定的に違っていたという理由のほうが大きいのではないのでしょうか まぁ~、銃の性能に関する薀蓄よりも、歴史的に信長が武田騎馬軍団を撃破したのが火縄銃です。 ナポレオンがモスクワから撤退するまでにヨーロッパを席巻した祭に使っていたのが、いわゆる火縄銃です。(着火装置が日本とは多少違っていました) ミエニー銃がフランス軍に採用されたのは、そのズーット後です。 猪一匹撃てない代物ではどこの戦争にも使われなかったでしょう。 参考 ja.wikipedia.org/wiki/火縄銃 抜粋 一般的には現代の小銃に比べて威力も性能も劣ると認識されがちである。しかしながら、この条件において現代の小銃よりも不利になるのは、長距離での弾道特性、命中率である。滑腔銃身で、しかも弾丸の鉛部分を硬い金属で覆っていない場合(いわゆるソフトポイント弾)は、むしろ威力については増す。さらに現代の小銃や散弾銃と比べると口径が大きいため、弾丸自体がかなり重い。 弾丸の初速は480m/s程度あり、拳銃よりははるかに速い。したがって、火縄銃は小銃に比べれば弾丸の直進安定性こそ劣るものの、近距離での破壊力は現代の散弾銃のスラッグ弾射撃にならぶ、あるいはこれを超えるかなり強力かつ危険なものである。 (中略) 正規の薬量・弾頭重量の火縄銃で戦国期当時の一般的な足軽向けの具足を射撃した報告によると、厚い鋼板を用いた胴体正面部分であっても直撃を受ければいとも簡単に撃ち抜かれてしまい、硬い鋼板に当たることで分裂した鉛弾が胴体内にバラバラに飛散して背中側の鋼板も貫いている (中略) 火縄銃の有効射程は200m程度としており、命中精度に関する実験も行われている。ヒトを模した身長160cmの静止した的に対して、30mで全て5発全てが胸部に着弾、50mでも5発中4発が着弾するという好成績を収めている
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- Pinhole-09
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下記の URL によると、横浜のオランダ商人と長崎の イギリス商人などが、東西両方の藩に洋式銃を売り込んで いました。(エンフィールド・ライフル銃の項参照)
お礼
良く分かります。
No.1です わざわざお礼を記入頂きありがとうございました。 お礼に追加のご質問がありましたので、説明させて下さい。 >大阪に荷揚げすれば、座など関係なく自由に売れたのでしょうか? 「座」という用語は、室町時代に使われていた用語です。 「信長による楽地楽座制」と言われるように、信長や秀吉によって、「座」は解散させられて消滅しました。 江戸時代は「株仲間」と呼ばれていました。 現在の株式の語源です。 江戸時代は登録制でこの登録証明書のようなものを「株」と呼んで売買されていました。 株の取り扱いは、町人の町年寄を頂点とする自治組織に委ねられていました。 幕府は、火災の原因となる風呂屋とか租税の対照となる酒屋などの数を制限するのに利用していました。 >自由に売れたのでしょうか? 下記サイトの説明にもありますように、いろは丸の衝突については問題になっていますが、積み荷については一切問題にはなっていません。 龍馬側の主張も積み荷に高額な銃があり、それ相当の補償金を支払え、と主張しています。 この記述でもお分かりの通り、積み荷が銃であること自体は問題になっていません。 通常の商品として売買されていました。 蛇足 龍馬が長崎で入手した銃を大阪へ運ぼうとしたのは、江戸時代には銃は大阪というよりも近隣の堺が主要な生産地で主要な取引場でした。 銃は高額で陶磁器などのように一般に流通する商品ではありませんでしたので、取り扱う商人は限られていました。 この銃を取り扱う商人が境に集中していました。 討幕運動などから考えれば、高杉晋作の奇兵隊のような銃で武装した隊を編成すれば良いので、わざわざ天領の大阪へ運ぶ必要はないということになります。 しかし、龍馬は海援隊という現在の総合商社のようなものを編成しており、銃もその取り扱い商品として考えていたのではないかと推測されます。 いろは丸の係争も、大事な荷物を沈められてどうしてくれる、ということです。 銃が規制されていれば、御禁制の物品を積んでいて何を言うのか、ということになり、補償金よりもそちらが問題とされて龍馬以下係わりのあった人達はその場で逮捕処罰されていたでしょう。 (当時は証拠品よりも状況証拠、自白が最重要視されていた時代です) いろは丸 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/いろは丸 抜粋 大洲藩郡中奉行であった国島六左衛門が、長崎において坂本龍馬と五代友厚の仲介によりポルトガル領事ジョゼ・ダ・シルヴァ・ロウレイロから4万メキシコ・パタカ(万延小判で換算すれば3万3600両となる)で購入し、いろは丸と改名する。 5月26日(旧暦4月23日) - 紀州藩船明光丸と衝突し積荷もろとも沈没した。 長崎奉行所で海援隊・土佐商会および土佐藩(参政後藤象二郎)は紀伊藩(勘定奉行茂田一次郎)と争った。土佐側はミニエー銃400丁など銃火器3万5630両や金塊など4万7896両198文を積んでいたと主張し、明光丸の航海日誌や談判記録を差し押さえ事件の原因を追及した。紀州藩側は幕府の判断に任せるとしたものの、龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及した。 (中略) 事故から1か月後に紀州藩が折れ、賠償金8万3526両198文を支払う事で決着した。
お礼
度々有難うございました。 銃が禁制品なら、交渉段階でアウトですね。 よくわかりました。 ミニエー銃なら先籠ライフルなので、当時既にアウトレットか中古の筈、薩長が元籠銃主力を考えると、大きな需要あったことに驚きます。 正に武器商人坂元龍馬の面目躍如。
補足
ご回答で新たな疑問が湧いたのですが。 火縄銃は狩猟出来る程精度があったのでしょうか。 昔は今より相当に獲物に接近出来たのでしょうか? 現在ではライフルか散弾が主のようですが。 韓国併合時の韓国軍は火縄銃が主で、全く相手にならなかったとも言われます。 つまらぬ疑問湧き申し訳ありません。 暇なおりお願いします。
- oska
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>龍馬いろは丸事件で銃500丁云々(完全作り話)の納入先調べたところ 質問者さまも理解している通り、政商グラバーから「南北戦争で不要になった、二束三文中古の銃」を、高値で買った訳ですね。 が、いろは丸を引き上げて調査した結果「一切銃部品はなかった」との事です。 ※京都市埋蔵文化財研究所・福山市教委4次調査報告。 500丁もあれば、少しは銃の部品・痕跡が残っているよね。 >当時大阪で買い手捜す流通が主との意見しか出てきません。 大坂は商人の町であると同時に、各藩の米屋敷が存在していましたよね。 つまり、各藩の財政・購買方が居た訳です。 実際には「銃は積んでいなかった」ので、流通先を探す事が主だったのでしようね。 >銃取り引き形態への疑問が残ります。 まあ、紀州藩との交渉を有利にはこぶ為の「竜馬得意の方便」が「積荷の銃」ですね。 取引形態ですが、先に書いた通り「大坂は、全国各般の米屋敷」が存在していました。 つまり、大坂に行くと「そこで、全国各地の藩と交渉が出来る」のです。 幕末でも、大坂は「天下の台所」ですから血なまぐさいテロは案外起きていません。 政治都市でないし、天皇陵も大坂には存在しません。 大阪市茶臼山古墳も、誰を埋葬しているのか不明。古墳でない!との説も有り。 奈良・五條市なんか、神武天皇陵近くなので「孝明天皇から逆賊」と見做され「追討令」が出た天誅組がテロを起こしています。 ※三条実朝の偽勅書を、信じてしまった悲劇。三条実朝も、逆賊追討の対象。 ※何故か、突然孝明天皇は死去します。今でも、暗殺説が・・・。 ※明治維新後、孝明天皇の信を得た者は、朝敵。孝明天皇の意に反した者は、英雄。 話がそれましたが、銃を積んでいなかったので取引は架空のもの。^^;
お礼
有難う御座います。 個人的には、海援隊の積荷記録大福帳が公になっておらず、龍馬が、相手構わず銃を売りまくったと想像しています。 積荷とされるミニエー銃も当時既に旧型アウトレットレットの筈、大阪で不特定の客探すのも理解出ます。 未来の日本の姿を夢見た(??)龍馬が内戦の具になる銃を売りまくったのも面白いです。
巷間、入り鉄砲出女と言われていたのは、箱根を始めとする江戸周辺の関所でのことです。 江戸時代は物資に関わらず、交易(輸出入)を幕府が独占していました。 ご質問のお話の銃の数はさておき、幕末にはこの幕府の統制が弛緩していたということでしょう。 銃そのものに関しては火縄銃ではありますが、農民が狩猟や害獣駆除に沢山使っていました。 例えば、信州松本藩では、領主が所有していた銃が231丁であったのに対して村方には1040丁あった、とされています。 上田藩の場合には城中に備えられていたのが100丁だったのに対して藩内の農村部にはその3倍はあった記録されていました。 現在のような銃刀法なるものが無い時代ですので、農民が必要とする道具の一つという位置づけでした。 当然、流通していました。 江戸時代はセッセと開墾を進めていましたので、山野に生息する猪や鹿が村に出没するようになっていました。狼も健在でした。 蛇足 江戸時代には獣肉は全く食べられなかった訳ではなく、江戸市中でも薬食いといって町人も口にしていました。 川柳も沢山あります。 猪を食ったが知れてやかましい 薬ぐい女房きせるをひったくり けだもの屋藪医者ほどに口をきき 毒になるやつと並んで薬食い 参考 ももんじ屋 - Wikipedia ja.wikipedia.org/wiki/ももんじ屋 抜粋 江戸時代の江戸近郊農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、その他、犬や狼に狐、猿、牛、馬など牛肉、馬肉等を肉食させたり、売っていた店のこと。表向きは肉食忌避があったから、これらを「薬喰い」と呼んだ。猪肉を山鯨(やまくじら)、鹿肉を紅葉(もみじ)などと称した。
お礼
大阪に荷揚げすれば、座など関係なく自由に売れたのでしょうか?
お礼
重ね重ね有難う御座います。 まさに雰囲気だけの感覚でした。